原発事故で”「国」の不存在”が見えた | あらやす日(本)誌

原発事故で”「国」の不存在”が見えた

福島第一原発事故はもはや福島の問題から、
「国」を飛び越えて、
人類の問題になってきている。

しかし、
あきれたことに、
いまだに原発事故の主導権を東電が取っている。

信じられないことだ。

あれ?「国」は何をしているのだろうか?

繰り返し聞こえてくるのは、
「ただちに問題はおきません」
「基準値を超えていますが安全です」
の連呼。


人類史上に残る大惨事の中で、
いまだに一営利企業である東電に問題解決をゆだねている。

誰がゆだねているのかといえば、
顔の見えない「国」だ。


未曾有の事故とはいえ、
世界広しといえども、
このような国は日本だけだろう。

日本は国家観を失っているのだろう。

国家的事業という概念を失っているのだ。

国難という言葉ももはやその実態がなく、
言葉だけになっているが、
その言葉さえも死語になりつつある。

「国」の観念を希薄化させ喪失している状況にあって、
「国」と言う発音も空しい響きでしかない。

「国」として一致団結して問題を解決する、
という能力が失われているのだ。

これはいまに始まったことではない。

戦後、日本は「企業」を第一優先する経済至上主義の中で、
「国」や「国民」が劣位に置かれた。
それでも、
劣位であって、
まだ存在していると思っていたが、
現時点でもはや「国」も「国民」も存在しないのだ。

「国」の不存在は、
「国民」への不遜罪だ。


この難局を「国」難と呼ぶことで、
失った「国」を見直し、
取り戻すことができる、
絶好の好機ではないだろうか。