※以下に書いてあることは絶対では、ありません。

 

特別が日常へと変わったとき、私は虚しさを覚える。

 

そんな経験はないだろうか?

 

マスクをするのが特別になっていた日々が、今では当たり前であり常識となっている。

 

昨日まで旅に行っていた自分と、今当たり前のように家に住んでいる自分。

 

今あげた、二つの例の、問いの捉え方はそれぞれ違っている。が。

 

言葉の捉え方は多種多様。どんな捉え方をしてもらっても構わない。

 

とにかく、今ここで私が言いたいのは、特別が日常へ変わることの感情への影響だ。

 

特別、というのは誰もが羨む、または憎むものだろう。

 

天才、という特別。災害が起こる、という特別。

 

当たり前には、基本、人はどんな感情も抱かない。

 

当たり前だから。慣れているから。常識だから。

 

小説や漫画などの創作物もそうだ。

 

特別から、物語が始まる。当たり前のような平和な日々の物語は、誰も読まない。つまらない。

 

いつだって何かが始まるのは『特別』からだ。

 

じゃあ、当たり前は下位互換なのか? 実はそうとも言い切れない。

 

当たり前、というのは特別が起こってからのものとなる。

 

つまり、特別から特別が起こるまでの過程。

 

だから? と言われるかもしれない。

 

しかし、

私が今生きている『当たり前』は、誰かが望んだ『特別』だということを忘れてはいけない。

 

戦争が起こる世界。平和な世界。

 

それを知っていれば、この日常を少しでも楽しいと思えるかもしれない。