アラル海

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アラル海(2004年)黒線は1850年の湖岸線。湖付近の白いものは塩南西部の小さい湖はアムダリヤ流域での灌漑後の排水が本流に戻されることなく低地に溜まることによって増大の一途を辿るサリカミシュ湖である。
アラル海(2004年
黒線は1850年 の湖岸線。
湖付近の白いものは塩
南西部の小さい湖はアムダリヤ流域での灌漑後の排水が本流に戻されることなく低地に溜まることによって増大の一途を辿るサリカミシュ湖である。

概要

海面
高度m
海面の
面積km²
水量km³ 塩分
濃度‰
1960年 53.4 68,000
(100%)
1,090
(100%)
10
1971年 51.0 60,200
(89%)
925
(85%)
12
1976年 48.2 55,700
(82%)
763
(70%)
14
1987年 40.5 41,000
(60%)
374
(34%)
27
1989年頃 大アラル海と小アラル海に分断
2000年 34.0 22,400
(33%)
- 50
2005年頃 大アラル海が西アラル海と東アラル海に分断

内陸湖 。かつての塩分濃度は海水の1/10程度であった。流出河川は無く「尻無し湖」と呼ばれる。世界で4番目の面積を誇っていたが、1940年代より、スターリンフルシチョフ 時代の旧ソ連 が「自然改造計画」の一環として実施した[1] 綿花栽培のための灌漑 や、アムダリア川の上流部にカラクーム運河 を建設した事により、アラル海に流れ込むアムダリヤ川シルダリヤ川 の流量が激減。1960年代以降、面積が急激に縮小し、大アラル海消滅も目前に迫っている。

1989年 頃には、北側の小アラル海と南側の大アラル海に分断され、さらに現在は大アラル海が東西に分断されつつある。1960年 に比べて、水面が15 m以上低下し、面積が62%、水量が84%も減少、塩分濃度が6倍以上になった。これにより、アラル海に生息していた魚などの動物の大半が死滅し、漁業 も壊滅し、名産であったキャビア缶詰 などの周辺産業もほぼ全滅。ゴーストタウン と化した地域も少なくない。

2005年頃には、大アラル海が東西に分断された。一方の小アラル海はコカラル堤防の建設により回復しつつある。

一方で、国境問題[2] や経済的事情から広域的な協議はされておらず、有効な対策はほとんど実行されていない。

これら人的要因による湖の縮小・それにともなう周辺環境の急変は「20世紀最大の環境破壊」とも言われている。

自然改造計画による環境破壊

時代背景

冷戦 時代のソ連社会主義 陣営の盟主として西側に対する示威行為として社会主義的政策により素晴らしい効果を挙げることが必要だった。そのため「自然改造計画 」が発案され、1940年代より運河・水路が建設された。そして、中央アジア の砂漠地帯を農業用地に変えコルホーズ、ソフォーズなどで綿花 等の栽培を行った。

灌漑のための取水量増加に伴い、綿花の生産は増大した。ウズベキスタンにおいて、1940年に150万t弱だった綿花生産量は、1970年に450万t、1986年には500万tに達した。こうした成果は「社会主義の勝利」として華々しく喧伝された。

計画の陥穽

1989年と2003年の比較写真
1989年と2003年の比較写真

ところがこの計画は、中央政府が専門知識のないまま机上の思いつきによる発案をトップダウン式に命令を下したため、多くの欠点を看過したまま断行され、様々な禍根を残すこととなった。

  • アラル海周辺は砂漠気候 (BWk)であり、もともと大量の水を必要とする綿花 の栽培には向かない風土である。
  • この地域の土壌には塩分が多量に含まれているため、毛細管現象 により地表に塩分を排出し、塩害により不毛地帯になってしまう。
従って最初は強制的な灌漑により耕作できた土地も塩害の進行とともに放棄せざるを得なくなる。
  • アムダリヤ・シルダリヤ両河川に灌漑用水路を建設したが、これらは原始的な手掘りであったため、大半の水が無駄に砂漠に吸収される。従って両河川流域でも、大規模な塩害が発生する。
このようなずさんな灌漑設備により流量の激減した両河川は、下流域のアラル海の水域を大きく減少させる。

ソ連の科学者の中にはそのような事態を招く事をあらかじめ想定し反対を唱えた者もいないではなかったが「社会主義を妨害するもの」と看做され[3] 、そのまま断行された。 中央政府は漁業利潤と灌漑利潤試算を盾に当時このように説明していた。 「アラル海で捕れるチョウザメキャビア がどれほどの利益になろうか。それが社会主義の勝利にどれほど貢献するというのか。それよりも砂漠の地を緑に変え、そこで栽培される綿花がどれだけの利益を生み出すだろう。なるほど、灌漑によってアラル海は干上がるかもしれない。しかし社会主義の勝利のためにはアラル海はむしろ美しく死ぬべきである」と。参考:[1]

悲惨な結果

かつての湖底に放棄された船
かつての湖底に放棄された船
かつての港(カザフスタン、アラルの町にて)
かつての港(カザフスタン 、アラルの町にて)

上述の欠点・懸念は、すべて現実のものとなった。1960年代には年平均20cm、1970年代には年平均60cmものハイスピードで水面が低下し、急激に縮小をはじめた。一晩で数十メートルも海岸線が遠のいていくため、退避しそこなってその場に打ち捨てられた船の群れが後に「船の墓場」として有名になった。

他にも以下のような悪影響が発生している。

  • アラル海は砂漠地帯の中のオアシスであった。湖の存在により気温・湿度が一定の過ごしやすい環境に保たれ、動植物が多様に存在していた。
しかし湖が干上がることにより、雨は降らなくなり、気温も年較差が激しくなった。そのことにより周辺の緑が枯れ、表層土も失われ、湖ともども砂漠化の進行を加速化している。
  • アラル海の塩分濃度は塩分等が湖底に沈殿し、貝類の貝殻に取り込まれることなどによって数百年もの間、一定の濃度を保っていたが生態系の破壊によってその絶妙なバランスが機能しなくなった。
  • 砂漠化した大地からは塩分、化学物質を大量に含む砂嵐 が頻発するようになった。[2] その結果、砂塵の影響で周辺住民の8割が腎臓呼吸器 に疾患を持っている。
  • 人々はオアシス地帯の住人として漁業、水運、交易を生業としていたが、その生活基盤の全てが破壊されゴーストタウン となった地域も多い。[4]
  • 飲料水は地下水に頼っていたが塩分濃度の上昇のみならず、上流の農業地帯で使用された農薬由来の化学物質、重金属類が混入し深刻な健康被害をも齎した。[5]
  • 灌漑地域は地下水位の上昇によりところどころに小規模の湿地、水たまりを生み出し、蚊などの害虫の温床となった。
  • 旧ソ連はアラル海内の小島であるボズロジェーニエ島 で細菌兵器を開発していたが連邦崩壊によりその開発施設が後始末もなされることなく打ち捨てられていた。ところが2000年代に入り、南部沿岸と地続きになったため、残存する細菌の蔓延が危惧される事態となった(関連項目参照)。
  • アラル海の減少に歯止めをかけるべく、ボルガ川や北海から水を引いてくるというような計画も旧ソ連時代には大真面目に検討されていたが、ペレストロイカ以降、さすがにそれは無謀である、ということで却下された。

2003年 時点で、大アラル海の面積 は14293 km2、小アラル海の面積は2865 km2で、合計17158 km2。これは1960年時点の面積67499 km2の25%にすぎない。かつては4位だった面積順位は、大アラル海が18位、合計でも17位にまで落ちた。体積は10%にまで下がっている。

特に大アラル海は面積で23%、体積で8%に減っており、塩分濃度の上昇が著しく、80(西アラル海)~110(東アラル海) g/lと、1960年の10 g/lを大きく超えている。その一方で、小アラル海は面積で47%、体積で28%の縮小にとどまり、塩分濃度も20 g/lと、辛うじて、従来棲んでいた生物の一部が生息可能である。

旧ソ連~カザフ政府は魚類の養殖の研究を重ねた。しかし、海洋魚の移植は水質が合わず失敗。辛うじてカレイ類のカンバラだけが放流に成功し、コカラル堤防建設以前は主としてその一種のみが漁獲可能であった。

再生への取り組み

コカラル堤防建設前(写真下)と後(写真上)での北部小アラル海の衛星写真比較
コカラル堤防 建設前(写真下)と後(写真上)での北部小アラル海の衛星写真比較

1994年1月、カザフスタンウズベキスタントルクメニスタンタジキスタンキルギスタン の各国は、アラル海回復のため、国家予算の1%を供出する協定を結んだ。

小規模ながら運河改善など流量回復に努め現在でもシルダリヤ川からの流入がある小アラル海には、まだ回復の望みがあることから小アラル海のみを救済することを目的に大アラル海への水の流出・消失を防ぐため、1992年より堤防ダム に近い)が幾度も建設されて来た。しかし土砂 を積んだだけの原始的なもので、嵐のたびに決壊を繰り返して来た。そこでカザフスタン 政府は世界銀行 から融資を受け、2003年10月に堤防建設計画を発表。2005年 8月にコカラル堤防Dike Kokaral )が完成した。

一方、大アラル海の縮小は依然として続いておりこちらの存続は絶望視されている。このままいくと2010年代には大アラル海が完全に干上がってしまうといわれている。さらに上流河川流域が複数の国にまたがっている[2] ため利害関係の調整なども難しい課題である。

干上がった湖底に植物を植えて塩分の飛散の緩和も試みられている。しかし植物が根付いても、漁業・農業が崩壊したために貧困に苦しむ住民が、冬場の燃料として刈り取ってしまう事態も起きている。

これまで、世界中から数多くの研究者 がアラル海を訪れて対策を提言しており、その一部は実行されたにもかかわらず、結果的にコカラル堤防を除いてほとんど効果がなかった。そのことを揶揄する現地のジョークに、「これまでアラル海を訪れた研究者がバケツ1杯ずつ水を持参してきてくれていたら、今頃アラル海は元の姿に戻っていただろう」というものもある。

コカラル堤防建設後

小アラル海に関しては順調に水位が回復し、予想以上の早さでかつての環境に戻りつつある。夏期の暑さも冬期の寒さも緩和され年間を通して雨雲が発生するようになった。砂嵐 の頻度も抑えられ、かつての生態系 もある程度復活し[6] 渡り鳥 も戻って来た。漁業組合も再建され水産加工品は遠くロシアグルジアウクライナ まで出荷されるようになった。チョウザメの再放流も検討されている。また、汚染されてない飲料水も供給されるようになり沿岸住民の健康状態も改善しつつある。

カザフスタン政府は湖を本来のアラリスク 港に到達するレベル近くまで復元するため、2009年から新たな堤防を建設する予定である。

一方、大アラル海に関しては、周辺諸国政府は消極的である。運河の改良等には莫大な経費がかかるが、主要産業の崩壊した各国(特にウズベキスタン)に経済的余力は無いためである。むしろ、湖底でのより高利益になる原油天然ガス 掘削に関心を持っており、中国、韓国資本が参画を始めている。

  • 水資源の豊富な上流諸国(キルギス、タジク)とエネルギー資源の豊富な下流諸国(カザフ、ウズベク)とでの、水とエネルギーとのバーター構想も存在する。

脚注

  1. ^ 計画自体は1918年より発案されていた
  2. ^ a b シルダリヤ川の流域(カザフスタン、キルギス・ウズベキスタン・タジキスタン)、アムダリヤ川の流域(ウズベキスタン、トルメニクスタン、アフガニスタン、タジキスタン)、アラル海はカザフスタンとウズベキスタンの国境に立地
  3. ^ 「自然決定論者」とされ中央アカデミアから追放されるなどの憂き目をみたといわれる。
  4. ^ その中でもかつての最北岸に位置していたアラリスク が最も有名であるが他の地域住人からは「援助はアラリスクにばかり集まり、他には回ってこない。被害は何もアラリスクだけではないのに」という怨嗟の声も聞かれた。
  5. ^ 旧ソ連解体後、周辺諸国は独立したものの等しく貧乏になり旧ソ連の物流網も機能しなくなったため、皮肉なことに農薬が買えなくなることによって使用頻度が減った。
  6. ^ 旧ソ連時代より環境の悪化に対処するためにプランクトンから果てはカスピ海の生物や海洋魚などまでありとあらゆる生物を移植しようと企てたためアラル海本来の生態系は既に失われ二度と復元することはないともいわれている。