豊臣秀長は、兄・秀吉を補佐しつつ、いかに天下統一事業を推進し、南近畿の統治を行ったのか。秀長の再評価を問う一書。「中世から近世へ」シリーズ最新作!
【著者プロフィール】
天野忠幸 氏
1976年兵庫県生まれ。2007 年大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。著書に『三好長慶―――諸人之を仰ぐこと北斗泰山』(ミネルヴァ書房)、 『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂出版)、『松永久秀と下剋上―――室町の身分秩序を覆す』(平凡社)、『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』(吉川弘文館)、『三好一族―――戦国最初の「天下人」』(中公新書)などがある。
武将 荒木村重の研究においても有名、2026年も荒木村重研究会が主催する講演会で講義いただく予定があります。
関連講座
天理大学公開講座 「順慶・秀長と郡山城」
豊臣秀良について
備考 (一部に諸説あります)
豊臣秀長(羽柴秀長)の功績は、兄である豊臣秀吉の天下統一事業を軍事・政治の両面から支えた「豊臣政権の屋台骨」を築いたことにあります。彼の功績を、軍事・政治・内政の3点に分けて解説します。
軍事面における功績
秀長は単なる補佐役にとどまらず、豊臣軍の第一線指揮官として重要な戦いで総大将を務め、大きな武功を挙げました。
• 但馬国平定
• 織田信長時代、秀吉に代わって但馬国平定の総大将を務め、その功で但馬7郡と播磨2郡を与えられ、大名としての足場を固めました。
• 重要合戦での活躍
• 中国大返しと山崎の戦い(1582年):本能寺の変後、秀吉の電撃的な大返しを支え、山崎の戦いでは重要な天王山の守備を担当しました。
• 四国征伐(1585年):総大将(実質)として長宗我部元親を降伏させ、四国平定を成し遂げました。
• 九州征伐(1587年):日向方面の総大将として島津軍を破り(根白坂の戦い)、九州平定を決定づけました。
政治面における功績(豊臣政権の「調整役」)
秀長の最大かつ最も評価される功績は、豊臣政権の最高位の調整役・ブレーキ役として機能したことです。
• 秀吉と諸大名の仲介
• 温厚で冷静沈着な人柄から、秀吉と外様大大名(特に毛利氏や長宗我部氏など)との取次役を一手に担い、複雑な交渉や不満の解消にあたりました。
• この高い調整力により、秀吉政権の不安定さを緩和し、組織としての安定に大きく貢献しました。秀吉も「公儀のことは秀長に相談せよ」と述べるほど信頼していました。
• 「ブレーキ役」としての存在
• 時に軽挙妄動に走りがちな兄・秀吉に対し、冷静な意見を述べ、秀吉の行動を制御できる唯一の存在であったとされています。秀長という「大黒柱」の存在が、急速に拡大した豊臣政権の崩壊を防いでいました。
内政面における功績(大和の領国経営)
大和・紀伊・和泉を領する大和大納言として、その領国経営は豊臣政権の統治基盤の模範となりました。
• 検地の実施
• 大和国で検地を行い、正確な石高把握と安定した税収の確保に努めました。これは、後に秀吉が全国で実施する太閤検地の基礎となったとも言われています。
• 商業・文化の振興
• 領国の中心である大和郡山城や和歌山城の城下町整備に尽力し、商工業者を保護して経済を活性化させました。
• 大和の伝統的な陶器である赤膚焼(あかはだやき)を開窯させ、文化振興にも貢献しました。
• 寺社勢力への統制
• 僧兵を抱える大和の寺社勢力から武器を取り上げる(刀狩り)など、巧みな政策で寺社勢力を統制し、中央政権の支配を確立しました。
秀長は、秀吉が天下人として活躍する「表」を支える「裏」の要として、軍事と政治の双方で不可欠な存在であり、もし彼があと10年長生きしていれば、その後の豊臣政権の運命は変わっていたとも言われるほど、歴史的に非常に重要な功績を残した人物です。従来の「名補佐役」というイメージにとどまらない、政治家・武将としての秀長の実像を明らかにする研究が進んでいます。


