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荒木村重研究会

〜村研スタッフの手作りブログ〜

荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の
発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
例会 歴史探訪 講演会 勉強会 イベント 会報『村重』
の発行や会員交流に役立つ情報を発信しています。

「本興寺(ほんこうじ)・長遠寺(ぢょうおんじ)(共に兵庫県尼崎市)」を訪問


荒木村重は織田信長に属し、「摂津国一職」を与えられました。

天正ニ(1574)年、村重は猪名川を越えて西摂へ進出、瀬戸内海海運と河川交通の結節点であった尼崎に注目し、同年三月、本興寺・長遠寺に特権を与えるための禁制(*1)を発給しました。

*1:権力者が禁止事項を公示した文書

本興寺(尼崎市開明町)


日隆聖人によって応永二十七(1420)年に創建された法華宗(本門流)の大本山です。近世尼崎城の築城にともない、元和三(1617)年に現在地に移転しました。
教学の中心地に位置付けられ、勧学院という教育機関が設置され、現在は興隆学林専門学校と名を変え、全国から僧侶希望者が集まり、修行と学問に励んでいます。
宝物も多く、信長等の武将の禁制なども保存されており、毎年11月3日の「虫干し会」で一般公開されています。開山堂や三光堂は戦国時代のもので、国の重要文化財に指定されています。


長遠寺(尼崎市寺町)


日恩上人によって観応元(1350)年に創建されたと伝わる、日蓮宗の寺院です。
近世尼崎城の築城に伴い、元和三(1617)年に現在地に移転しました。
長遠寺には幾つもの古文書が残されており、主なものとしては、「織田信長の禁制」・「荒木村重の禁制・書状」などがあります。本堂や多宝塔は、国の重要文化財に指定されています。

軍勢の乱入狼藉・竹木の伐採・陣取放火などは、禁制に数多く見られますが、両寺院に発給された村重の禁制には、「矢銭」などの臨時税や「徳政(借金の帳消し)」・「国質」・「所質」などの質取行為(*2)・「請取沙汰(*3)」・「付沙汰(*4)」などの言葉が出て来るのが特徴です。

不履行の債権の取り立てや差し押さえ時に、強者の第三者に委託し強引な取り立てが実施されると、市場の秩序を守れないため、村重は、これらを禁止しました。

両寺院のうち、少なくとも長遠寺の寺内町建設を名目に、村重は、尼崎の住民全体を掌握し、動員するための命令体系を作り出していきました。

両寺院の周辺には寺院が多く、長遠寺の近くには、織田信長の重臣で、信長の死後には豊臣秀吉の家臣になった、佐々成政(さっさ なりまさ)の墓のある法園寺(ほうおんじ)があります。

*2:債務者から債務の返済を受けられなかった債権者が、債務の賠償を求めて、債務者と同一の組織体に属する第三者の動産を私的に差し押さえる行為。差押だけでなく、身柄拘束・傷害・殺害が行われることもあった。
*3:沙汰とは訴訟(案件)の意味。債権者が自ら当事者となることなく、訴訟を第三者に委託し(沙汰を寄せる)、委託を受けてこれを受託した(沙汰を請け取る)者が、債権者に代わって訴訟を遂行し、債権を取り立てる。債権者はその第三者に代償を払った。ただし、法廷外のものもあった。
*4:自らが抱える紛争の解決を実力者に依頼すること。



寺町界隈




[参考図書等]
「シリーズ【実像に迫る】10『荒木村重』」(天野忠幸著、戎光祥出版)
「荒木村重研究序説」(瓦田昇著、海鳥社)
 ウィキペディア
 コトバンク
 尼崎市ホームぺージ
 富田林市‐文化財デジタルアーカイブ

尼崎市の本興寺・長遠寺 両寺院へのアクセス
本興寺:阪神本線尼崎駅から南西に徒歩約5分
長遠寺:阪神本線尼崎駅から南西に徒歩約8分


これらの寺院を訪問したついでに、現在の尼崎城や、(野球好きの方であれば)同じ阪神電車沿線で隣の西宮市にある甲子園球場を訪問するのも良いかも知れません。

ただし、暑い時期に訪問する場合は、熱中症にご注意ください。