圓宮寺(福井県越前市あおば町)
龍門寺城跡(福井県越前市本町)
金ケ崎城跡(福井県敦賀市金ケ崎町)
荒木村重は、天正三(1575)年七月頃より「摂津守」となり、同年八月、織田信長の越前一向一揆攻めに参加しました。
「信長公記」には以下のように書かれています。
「1、 大良越え(だいらごえ)(*1)・杉津(すいつ)(*2)の城。大塩(*3)の円強寺(えんこうじ)(*4)の勢力に加賀衆が加わって立て籠もっている。
1、 海岸(*5)に新城を造り、若林長門・甚七郎父子が大将となって、越前衆が集結して守備している。
1、 府中(*6)の竜門寺を砦とし、三宅権丞(みやけ ごんのじょう)が在陣している。
このように、要所要所に布陣して、連携をとりつつ堅固に守備をしているとのことである。
八月十五日、ことのほか風雨が強かったが、全軍が攻撃を開始した。もと越前方であった浪人衆、桂田長俊の息子、富田長繁・毛屋猪介に属していた者どもを先陣として、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀・簗田広正・細川藤孝・原田直政・蜂屋頼隆・荒木村重・稲葉一鉄・稲葉貞通・氏家直通・安藤守就・磯野員昌(かずまさ)・阿閉貞征(あつじ さだゆき)・阿閉貞大(さだひろ)・不破光治・不破直光・武藤舜秀・織田信孝・織田信澄・織田信包(のぶかね)、および織田信雄(のぶかつ)と彼が率いる伊勢衆。以上をはじめとして三万余騎、部隊ごとに功を競うかのように、諸方面から大良越えへ進撃した。」
「敵方からは、円強寺と若林長門父子の軍勢が出撃して来た。これを明智光秀・羽柴秀吉のニ部隊が、ものの数ともせずに追い崩し、ニ、三百人を討ち取った。さらに、円強寺・若林の城へ攻め込んで、焼き払った。討ち取った敵の首は、八月十五日のうちに敦賀の信長の本陣へ送り、実検に供した。
八月十五日の夜、府中竜門寺の三宅権丞が立て籠もる砦に忍び込み、これを乗っ取り、付近を焼き払った。木目峠・鉢伏・今城・火燧城に布陣していた敵は、焼き打ちに追い立てられて動転し、府中をめざして退却した。羽柴秀吉・明智光秀の二部隊はこれを追撃し、府中の町で加賀・越前両国の一揆勢二千余人を切り捨てた。手柄は言うまでもない。」
上記の「杉津の城」と併記されている「大良越え(の城)」(=南越前町)を訪問したいと思い、「大良越え(の城)」とは一体何城なのか?と考えてみました。
「杉津砦」(=上記の「杉津の城」、敦賀市)の東に位置する「河野丸砦」のことかも知れません。(ただし、こちらも敦賀市にあり、南越前町との境界から少なくても数キロは離れています。)
この「河野丸砦」跡は山の中に存在するため、訪問時には、一般的にクマ等に遭遇するリスクがあり、訪問を断念しました。
しかし、南越前町内の海辺近くに「大良」という地名が存在し、南方面から北方面へと「大良」地区を「越え」たところに、「河野」地区があることが分かりました。
「河野」地区には、「河野新城」(=上記の若林長門・甚七郎父子が大将になっていた「海岸の新城」)跡が存在するため、当然「河野城」の城跡も現存するものと思い、インターネットで検索しましたが、情報を得られませんでした。
今回の一向一揆勢の城等は、ほとんどが山の中にあったため、訪問時にクマ等に遭遇するリスクがあり、(荒木村重が訪れたかどうかは不明ですが、)平地の街中にある竜(龍)門寺砦や、近くの円(園)宮寺を訪問してみることにしました。
圓宮寺(=大良越えの城に立て籠もっていた勢力の拠点)を訪問したところ、その説明板には「天正三年(1575)織田信長の越前一向一揆攻めにあたり、府中方の大将として越前海岸で戦ったが破れ、了観(*7)は河内の岩穴(*8)に隠れ、一命をとりとめた。圓宮寺穴は現在河野村(*9)の史跡。」と書かれていました。
(大塩山)圓宮寺は、長元七(1034)年(元慶八(884)年との説も有)に創建された、浄土真宗大谷派の寺院です。
詳細については、同寺の説明板の写真をご参照ください。
次に、同じく越前市内の龍門寺も訪問してみたところ、説明板が3つありました。
(表通りから見て手前の)龍門寺の案内板には、「織田信長の武将富田長将が、天正元年(1573年)の朝倉攻め、同三年の一向一揆征討の際に、ここに城を築いて龍門寺城として戦の指揮をした。」旨が書かれていました。
(表通りから見て奥の左側の)龍門寺城跡の説明板には、「この地は府中の南端にあたることから軍事上の要所とされ、天正元年(1573)には織田信長が朝倉攻めの際に、ここに本陣を構えた。朝倉氏滅亡後、同二年には越前の門徒領国化をねらう一向一揆勢によって支配され、その討伐のために、同三年信長は羽柴秀吉・明智光秀らに龍門寺城に攻め入らせ、再び龍門寺城に入っている。」旨が書かれていました。
(表通りから見て奥の右側の)越前府中・利家紀行 龍門寺城跡の説明板には、「初代加賀藩主前田利家は、織田信長の越前一向一揆平定後の天正三年(1575)秋、佐々成政、不破光治と共に各々越前府中領十万石の土地を均分し与えられた。この三名を府中三人衆という。その一人不破光治が拠ったのが龍門寺城である。不破光治は、美濃国で斎藤氏に仕えていたが織田信長に降り、足利義昭への使者を務めるなど重用された。その後光治の子直光の代には前田家に臣従している。柴田勝家に与(くみ)して賤ヶ岳の戦いに敗れた後、利家はまつと共に羽柴秀吉を龍門寺城で迎え、以後秀吉政権を支える大名として地盤を固めてゆく。」旨が書かれていました。
龍門寺は、永仁・正安(1293〜1301)の頃に創建された、曹洞宗の寺院です。
詳細については、同寺の説明板の写真をご参照ください。
その後、次の目的地、(今までなかなか訪問出来ず、当連載への掲載時期を逸していた)金ケ崎城跡のある福井県敦賀市へ向かいました。
織田信長は、元亀元(1570)年に若狭の武藤氏・越前の朝倉義景討伐の軍を起こし、徳川家康・木下秀吉等が敦賀に進軍、四月二十五日に天筒山城、翌日に金ケ崎城(共に、現在の福井県敦賀市)を落城させ、越前に攻め入ろうとしました。
この戦いには、荒木村重を含めた池田勝正の軍勢約三千人も参加していました。(「言継卿記」)
すると、この陣中に近江の浅井長政が朝倉方についたとの報が届きました。信長らは、退路を断たれる形となり、すぐに京都への撤兵(戦国史上を代表する撤退戦「金ケ崎の退き口」)が始まりました。(過去の大河ドラマでも度々その場面が登場しました。)
殿軍(でんぐん)(*10)に名乗りを上げた木下秀吉と明智光秀が金ケ崎城に残り、徳川家康が後を守ったとも言われています。そして、信長は近江の西側を急いで、京都への引き上げに成功しました。
秀吉の奮闘は、よく知られていますが、金ケ崎には、荒木村重を含めた池田勝正の軍勢も留まっていました。(「武家雲箋」)
当初の池田勝正軍の三千人という参戦兵数からすると、殿軍の中心は意外にも、池田勝正軍などの摂津の面々であったかも知れません。勝正軍も退却に成功しましたが、消耗が大きかったと推測されます。
義昭や信長が上洛する以前、これほどまでに摂津国人が遠国の戦を経験したことは、ありませんでした。
この時に生じた、荒木村重を含む摂津国人の、織田信長への反発心も、後の歴史に影響を与えたかも知れません。
金ケ崎城は、平通盛により築城されました(築城年月不明)が、その詳細については、同城跡の説明板の写真をご参照ください。
龍門寺 本堂
[注釈]
* 1:南越前町
* 2:敦賀市
* 3:越前市
* 4:円(圓)宮寺
* 5:南越前町
* 6:越前市
* 7:円宮寺良観
* 8:南越前町河内の史跡
* 9:現在の南越前町河野
*10:しんがりの部隊。大部隊の最後尾で、敵襲に備える部隊。
[参考図書等]
シリーズ【実像に迫る】010「荒木村重」(天野忠幸著、戎光祥出版)
「戦国摂津の下剋上」(中西裕樹著、戎光祥出版)
「荒木村重研究序説」(瓦田昇著、海鳥社)
「地図と読む 現代語訳 信長公記」(太田牛一著、中川太古訳、KADOKAWA)
南越前町ホームページ
「城郭放浪記」ホームページ
ウィキペディア
コトバンク
Googleマップ
[アクセス]
越前市内の両寺へは
ハピラインふくい武生駅から
園宮寺:南南西に徒歩約15分
龍門寺:南西に徒歩約15分
福井鉄道 福武線 武生新駅から
園宮寺:南南西に徒歩約18分
龍門寺:南南西に徒歩約17分
JR西日本 北陸新幹線 越前たけふ駅から
園宮寺:徒歩+福井鉄道バスで約45分
龍門寺:徒歩+福井鉄道バスで約48分
敦賀市内の金ケ崎城跡へは
JR西日本 北陸新幹線・北陸本線・小浜線
ハピラインふくい
敦賀駅から
敦賀市コミュニティバス+徒歩で約22〜30分
当研究会に興味のある方は、ご連絡ください。
例会等の見学可能です。
(メール連絡)
以下は、今後の予定です。
例会
令和8年6月28日(日)
令和8年8月23日(日)













