鞆の浦 (福山市)熊野町(山田)
[写真A]鞆城跡
鞆城本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺(対潮楼)、北端は沼名前神社参道、南は鞆港に面していました。
毛利氏が築いた城を、慶長五(1600)年、安芸・備後の領主になった福島正則が修築しました。
元和元(1615)年の一国一城令に先立って廃城になり、正則の後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置きました。
勝俊が福山藩主になって以後は、江戸時代を通して町奉行が置かれました。
足利義昭は毛利氏を頼ってこの地に来てからも、各地の国衆などに手紙を送り、(反信長のための)軍事要請に努めました。
[写真B]常国寺
足利義昭は、それまで滞在していた鞆城から常国寺に拠点(御座所)を移しました。
(同寺の住職さんの話では)その理由は、様々な人々がやって来る鞆と比べ、見知らぬ人がやって来れば目立つ(山里の)常国寺の方が、警護役の者(近くの一乗山城主、渡邊元とその子、景)が義昭を警護し易く安全だからであろうとのことでした。
義昭は、ここに約3年間滞在し、その証(あかし)として義昭の胴肩衣などが残っています。
[写真C]足利義昭供養塔への道標
[写真D]足利義昭供養塔
常国寺の裏山山頂にあります。



