追放されても消えない将軍の権威 足利義昭 荒木村重との結びつき  Gou | 荒木村重研究会

荒木村重研究会

村研スタッフの手作りブログ

荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
例会 歴史探訪 講演会 勉強会 イベント 会報『村重』
の発行や会員交流に役立つ情報を発信しています。

室町時代の末期、足利義昭は第15代将軍として京都に上洛しました。義昭自身は全国を直接統治できる軍事的権限を持っていたわけではありませんが、彼には重要な象徴的・形式的権威がありました。それは、朝廷に認められた正式な将軍であるという事実です。形式的には「武家政権の最高位」であり、諸大名や村々の有力者にとっては、神格的な存在として尊重される意味を持っていました※1。

1568年、義昭は織田信長の支援を受けて京都に入り、将軍に就任しました。当時の信長はまだ全国を統一していたわけではありませんが、畿内における軍事力と財政力で優位に立っていました。義昭は信長を支えとして上洛しましたが、信長の急速な勢力拡大や政治手法は、義昭が目指す幕府再興と衝突することになります。比叡山焼き討ちや守護大名の権限削減、自由な楽市楽座の導入など、信長の行動は既存勢力にとって破壊的であり、義昭自身も次第に信長との距離を置くようになります※2。

義昭の立場は、形式上の将軍という象徴的権威に基づいていました。彼には依然として「正統な将軍」という存在価値があり、信長に不満を抱く大名や寺社勢力にとっては旗印となり得ました。義昭を中心とする反信長勢力は、毛利輝元や上杉謙信、武田勝頼、本願寺勢力、朝倉・浅井など多岐に渡りました。これが俗にいう「信長包囲網」の形成につながります※3。

ただし、この包囲網は義昭の命令だけで動いたわけではありません。反信長勢力はそれぞれ目的や利害が異なり、義昭の象徴を旗印として利用していた側面が大きかったのです。そのため、連携には限界があり、地理的・軍事的な問題や補給・通信の困難さ、内部抗争や家中騒動もあり、持続的な結束は困難でした。さらに信長自身が個別の大名と交渉や懐柔を重ね、敵を孤立させる戦略を巧みに用いたことで、連合体制は次第に崩れていきます※4。

この過程で、信長家臣の摂津守 荒木村重も苦境に立たされます。村重は当初、摂津国の有力武将として信長に従っていましたが、信長からの独立を求めて1578年に有岡城で謀反を起こします。村重の行動には、信長の統制強化への不満や自身の野心、さらには義昭や毛利ら旧権威を頼る期待が背景にありました※5。村重は毛利や義昭を頼る形で反信長ネットワークに参加し、籠城戦をはじめました、しかし、包囲網の乱れや援軍の遅れ、反信長勢力内の利害対立によって支援は限定的となり、孤立した状況に追い込まれます。最終的に村重は有岡城から尼崎城へ移動し戦況を立て直そうとしますが、反信長の戦線は崩壊に向かい思い叶わず、毛利領へ逃れました。※6。


このように、包囲網の崩壊と村重の苦境は連動していたのです。義昭の象徴的権威は依然として影響力を持っていましたが、現場の大名にとっては戦力や資源の制約が大きく、実際の戦局を左右するには限界がありました。

信長はその後も将軍の形式的権威を残したまま、実力で全国統治を進めていったのです※7。

おさらいになりますが、遡って、1573年、山城国の槇島城の戦いで義昭側が敗北した時、信長軍は京都に進攻し、義昭はついに京から追放されます。これは室町幕府の実務的終焉を意味しますが、義昭は将軍職の称号を手放すわけではありませんでした。備後国鞆に移り、いわゆる「鞆幕府」と呼ばれる亡命政権を立て、依然として西国の大名に対して信長打倒を呼びかける存在でした※8。

義昭追放後も、形式的権威の価値は残存していました。将軍という身分は朝廷によって任命された「公的・儀礼的権威」であり、簡単には失われません。信長も、将軍を完全に排除すると反感が広がることを理解していたため、義昭の象徴的権威を残しつつ、自らの軍事力と財力で実権を掌握しました。信長が「将軍権威を利用する戦略」を取った背景には、こうした象徴的権威の重みがあったのです※9。

この時期、義昭は政治的・軍事的な実権こそ失っていましたが、旧来の大名や寺社にとって正統性の象徴として存在し続けました。その象徴力を旗印として利用したの反信長包囲網の形成にもつながったわけです。そうした流れの中で、荒木村重は、包囲網崩壊や援軍の不調、戦局の不利により次第に苦境に陥り、最終的に毛利方へと逃れることになりました。象徴的権威による決起と、実務上の軍事力や補給力の限界が歴史を動かしていたことがわかります※10。


信長は義昭の権威を盾として利用しつつ、全国の統治を実力で固めました。その戦略の中で、義昭の象徴的価値は維持され、旧勢力や民衆にとって正統性の根拠として機能しました。義昭の存在を重視することで、信長の天下統一が単なる力の横暴ではなく、権威・象徴性・政治戦略の絡み合いの結果であったことが浮かび上がります。

その渦の中で、荒木村重の考え方や行動は、義昭の象徴権威と包囲網崩壊という大きな歴史的流れの中で理解できるのです※11。



脚注

※1 足利義昭 – Wikipedia
※2 比叡山焼き討ち – Wikipedia
※3 信長包囲網 – 歴史探訪
※4 反信長連合の崩壊 – 歴史研究
※5 荒木村重の謀反 – 歴史資料
※6 尼崎城から毛利へ – 歴史探訪
※7 信長の権威利用戦略 – 歴史学会資料
※8 鞆幕府 – Wikipedia
※9 信長と形式的権威の関係 – 歴史学研究
※10 包囲網崩壊と村重の苦境 – 歴史学研究
※11 義昭の象徴的役割と信長戦略 – 歴史学研究


記事につきましては、最近の話題を軸に書いています。諸説ありますので、読後の感想などいただけましたら、勉強の推進になります、よろしくお願いします。