村重と毛利の関係 (Gou) | 荒木村重研究会

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村重と毛利の関係

天正11年(15834月 賤ヶ岳の戦い(羽柴秀吉 VS   柴田勝家)の最中、毛利輝元は、物見の立場をとっていた(足利義昭は毛利に対して柴田に味方して秀吉を討てと意見するが、輝元は軍勢を動かさなかった。羽柴秀吉は勝利すると、次は毛利に対して、毛利領土への再侵攻または割譲を迫った。輝元は吉川元春(叔父)、小早川隆景(叔父)と相談をして、秀吉との戦は不利と判断、割譲を決めた、そして同年7月、毛利輝元の使者として安国寺恵瓊、そして毛利家および秀吉方との両方に太いパイプを持つ荒木村重(謀反ののち毛利家に庇護され、信長の死後は毛利の元を離れ秀吉の御伽衆として使えていた(天正10))などが双方の領土確定のため堺で交渉を行った。(「宇野主水日記、宇野主水(紀州本願寺))


交渉の後、天正119月、吉川元春の三男https://kintaikyo.iwakuni-city.net/history/history1.html


が、秀吉のもとに人質として送られ、毛利家は秀吉の傘下となった。以降、長宗我部攻め(天正13年(1585))などで秀吉方として参戦している。


村重(茶人名 道薫)の役割

秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として仕えた荒木村重は、秀吉の側近や臣従大名、堺代官の松井友閑や会合衆で茶人の 津田宗及・千利休・今井宗久らとともに大坂城に屋敷を持っていた。

御伽衆や御噺衆(おはなししゅう)といえば、秀吉の芸事や趣味に付き合ったとされる側面があるが、先に記載したように毛利家との領土確定交渉の場で一役を担うなどの例から、その役割は政治的役割も担っていた。


茶人 道勲 (荒木村重) 

茶人となった村重だが、摂津を治めた武将としての気迫、豪気は隠せるものではなかったであろう。秀吉の元で政治的な交渉、調整を行ったという。

(想像図)

村重と尾道

毛利輝元らに庇護されていた室町幕府は、「鞆幕府」とも呼称され、将軍足利義昭は反織田勢力を取りまとめて再起を伺っていた。その一つの策として信長方の武将・荒木村重を調略しようと、義昭の配下・小林家孝が毛利氏の武将とともに、村重のもとを訪れ、毛利氏に帰順するように説得した。この説得の時期に重ねて、村重を取り巻く情勢、自身の思想などから、村重は毛利氏に寝返った。輝元は村重の帰順を喜び、家孝に褒詞を与え、その功績を称えたという(山田康弘『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』)


毛利らと関係を築いた村重は織田信長に謀反(天正6年(1578)10月)するも敗北。

その後、毛利氏のもとへ亡命し、尾道(現在の広島県尾道市)で隠遁生活を送った。同市の「筒湯地蔵尊」(広島県尾道市久保3丁目66)の説明板には、「筒湯(つつゆ)という地名は、水之庵に一時身を寄せていた伊丹城主荒木村重侯の立てられた茶の湯、井筒(良い水が湧く井戸)の茶の湯を約(つづ)めた筒湯、に由来する旨が記載されている。

水之庵は、西郷寺末寺にて、敷地の一部は現在の市立図書館(二階茶室は水之庵という名称)になっています。良い水の湧く井戸はかつて「みどりの井筒」と呼ばれていました。






筒湯地蔵尊 Google map より


村重がいっとき身を寄せていた尾道は、天然の良港がある。陸は北は尾道三山、南は大小の島々があり、山陽道の要衝となっていて出雲街道では山陰にもつながっていた。石見銀山の銀は鞆ケ浦などこの一帯の港から出港され、大変賑わっていた。

まさに海路・陸路を通じて文化、経済が集約する地であった。また尾道は「西の奈良」と称されるほど寺社が多いが、これは鎌倉、室町時代に海運業で財を築いた豪商たちが競って寄進したからだ。


村重は、豊かなまちなかで、身を隠しながら、これからの生き方を考え、信長が本能寺の変で撃たれたあと、茶人「道薫」(どうくん)と名乗り秀吉に仕えた。


秀吉に仕えた「道薫」の立場

この当時、黒田孝高や蜂須賀正勝は村重宛の書状で「道薫様」や「道薫公」と尊称を付けているが、このことは、それぞれの立場を尊重した関係が築かれていた証の一つである。かつて黒田考高は有岡城に籠城する村重を説得に赴いた際、囚われ、村重によってひどい環境の土牢に幽閉されたという話は有名だが、その後の両人の関係性(村重家臣をのちに黒田家が召し抱えているなど)を考えると、幽閉中にひどい目に合わせたという逸話は江戸時代に作られた俗説とされている。それに、説得に赴いた考高は、本来は殺害されてもおかしくない状況に置かれていたのだが、村重により幽閉に留められた。これを機に両者の関係性は築かれ始めたのだろう。


※ 蜂須賀正勝(はちすか まさかつ) 1526~1586
尾張の土豪。 美濃・斎藤氏、尾張・織田信賢を経て、尾張・織田信長及びその臣木下藤吉郎(秀吉)に仕える。 以降諜略等に手腕を発揮して活躍。


参考資料

 摂津・河内・和泉の戦国史 -管領家の分裂と天下人の誕生-(歴墾ビブリオ)