天野セミナー初回!開催しました(有岡 mami) | 荒木村重研究会

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〜村研スタッフの手作りブログ〜

荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の
発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
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の発行や会員交流に役立つ情報を発信しています。

令和 6 年 2 月 4 日(日)有岡城跡にあるアイホール(伊丹市立演劇ホール)にて、天理大学教授の 天野忠幸さんに「伊丹城?有岡城?あなたはどう呼ぶ?」をテーマにおはなしいただきました。参加者は 87 名。



はじめに山梨県甲州市から駆けつけてくださった荒木村重子孫の荒木 M さんより、江戸時代初期に甲州市にあった徳美藩の藩主伊丹氏は伊丹城主伊丹氏の子孫だった、甲州市と伊丹市には深い縁がある、との挨拶をいただきました。





その後天野先生が登壇され、天野セミナーが始まりました。
最近、村重が注目されている、3月のNHKBS番組で荒木村重を取り上げたいとのオファーが来ている、と紹介くださり本題へ。 伊丹城はどんなお城だったのか?有岡城になって何が変わったのか?いくつかの史料をもとにおは なしされました。伊丹氏の時代から伊丹城は堅固ですぐに落とせる城ではないことで有名だったが、市場や伊丹氏に関する寺院は存在していなかった。その後、荒木村重が入城し、伊丹城が大改修され有岡城になると、市場ができ、お城のなくなった池田より寺院が移され、本城・侍町を中心 に街道も整い、単なる一国人の居城ではなく、摂津一国の支配を担う公的城郭へと変貌していっ た。伊丹氏が城主の時代と荒木村重が城主の時代では城の役割、位置づけが違ってきている、と説明されました。
では、その後有岡城はどう呼ばれていくのか? 織田信長との戦いが始まってからの史料について、有岡城がどう呼ばれていったかを片っ端から調べられたその結果、織田信長と信長に与する一派の史料には「伊丹」が用いられ、その他の武将やお寺、朝廷関係などの史料には「有岡」が用いられていることが判明。これはつまり、信長が意図的に「伊丹城」と呼んでいたのにほかならず、村重のお城を摂津一国の中心である「有岡城」から単なる一国人の居城「伊丹城」に矮小化し、取るに足らないお城であることを内外にアピールした かったのではないかと。あんな城は恐れることはないと、家臣を鼓舞するために信長はお城の呼び 方にまで気を配っていたのではないか、と説明されました。
 名前というものは単なる呼称ではない、地位を表すものである、との結論でセミナーは終了しまし た。
 前半 50 分、休憩挟んで後半 50 分、天野先生 100 分セミナー。いつものことながら、天野先生の 軽快な語りに引き込まれ、歴史ロマンの世界に浸っているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。




主催者の有岡小学校区まちづくり協議会会長の滑川さんよりみなさまへの閉会の挨拶をもって本日 の天野セミナーは終了。



有岡城跡で 450 年前にタイムスリップして有岡城の歴史を楽しむ贅沢なひととき、とても素敵な会 になりました。 お越しくださったみなさま、スタッフのみなさま、そして天野先生、ありがとうございました。心 より感謝申し上げます。
今年より天野セミナー連続講座スタート。来年も天野セミナー2 を開催いたします。お楽しみに!