今般、手許に預かっている2組の雛形集の展開図を作製した。

身体測定結果に基づきつつ最低限の補整を施したが、その調整はすべて作図ソフトを用いて行い、実際に折ってみての照合は怠っている。仕上がり図の掲載も省いたが、原本との近似の程度はこれまでの作業と変わるものではない。

 

『諸事折方入』(天保8(?)年との記載あり)

 

わづか14点、さほど面白いカタチのものも見当たらぬが、いわゆる折形なるものとは別に4点の夜着の畳み方・広げ方の模型を含む(幾つかの部品を貼り合わせたものでもあり、型紙は起こしていない)。

 

『熨斗 折りかた しん作』

 

かつて「役に立つものなら」と、当方の店をお訪ね下さったさる御仁から次代に伝えるべく託された品。38種39点。

お母様(あるいはお祖母様であったか)の遺品と承ったように記憶する。女学校などで習得されたものであろうけれど、いつ頃の、どの地方でのことであったか等の詳細まで、受け取った父が情報を得ていたか否かは定かでない。

 

 

***

 

 

以下、余談。

 

 

しばらく前に刊行された ちくま新書・『近世史講義-女性の力を問いなおす』に次のような記述があった。

 

「奥向が担う公的役割は、大きく二つに分けられる。一つには、子女の出産と養育、および教育である。・・・二つには、贈答を伴う儀礼の執行である。

奥向で執り行われる儀礼は、表向とほぼ同様の年中行事に加えて、表向の式日(登城、参勤交代、代替り、御鷹の鶴拝領、官位昇進、家督相続など)に連動した祝儀や、当主と家族の慶弔行事(人生儀礼などの儀式)などがある。

当家の家臣との間の主従関係に基づく儀礼に加えて、縁威の間柄でやりとりする贈答は身分的秩序を維持する交際として、重要な意味をもった。」(118頁)

 

「将軍家と縁威関係にある大名家で、上﨟や老女の役務の一つとされていた御城使についてみてみよう。御城使とは、江戸城大奥へ使者となる役目であり、・・・

江戸城大奥で行われる年中行事や慶弔の儀礼に際して、御城使は、当主や正室の使者として登城し、将軍へ献上する祝儀とその目録を、将軍付き老女に進呈し、あわせて口上を老女に対して述べる。・・・

この御城使の実務については、登城する上﨟や老女だけでなく、献上物の用意や目録の準備、登城の随行に、表使・右筆・御使番など、役女系列の奥女中で役割を分掌し、連携して取り組まれた。」(122~124頁)

 

江戸期に多数出版された往来物を眺めても、折形のさまざまが掲載されているのはもっぱら女訓書であり、明治以降の教育課程にて折形が採り上げられることがあれば、それは女学校においてであったものと聞く。されば、武家社会においても、折形の実務/実作業はご婦人方に担われることが多かったものとのおおよその見当はつけていたが、不学にしてこれまで、そのことを明確に示す資料に出会うことはなかった(加えて申さば、表であると裏とを問わず、実作業のかなりの部分は製造・流通業者が代行していたと見て大過なきものと思っているのだが・・・)。

当方、暴力装置のからくりに積極的な関心を寄せる癖をもたず、(ご婦人方当人は王朝文化に共感を覚えるところ多く、その方面の充分なる教養も備えていたことと思う。そのことを含めて)さらなる追究を行うつもりはないが、同書には幾つかの参考文献が挙げられているのでご興味あらば。

 

なお、この件を巡り思い出したものがある。

『條々聞書貞丈抄』、伊勢貞頼による『條々聞書(宗五大双紙)』(1528年成立)に貞丈が詳細な註釈を付した書。当方手許に存するのは、おそらく『続々群書類従』所収のものと思われる活字本の複写であるが(父が取得していたようだ)、筆写本は国会図書館デジタルコレクション・『伊勢家礼式雑書 第三巻』(『貞丈抄 第二』を欠く)、早稲田大学図書館のオンライン・サーヴィスにて閲覧可(この度は照合をしていない。『條々聞書(宗五大双紙)』自体は小笠原家の伝書としても伝えられてきたようで、平凡社・東洋文庫の『大諸礼集2』などにも収められているが、文面は少しく異なる)。

 

『貞丈抄 第五』に(手許複写:713~714頁)

 

「十月ゐのこ・・・包み候事は、上﨟の御役にて候、

つヽみ紙の上を、又杉はら一かさねにて御包候て、御出し候、

申次取次候て、方々へまいらせられ候、

 

(ここまで『聞書』本文、以下、貞丈の註釈)

 

包候事は、上﨟の御役にて候とは、恒例記に云、

包紙以下用意の事、中﨟衆の役也、上包の名書は、上﨟の役也、

・・・

頭書(追考)本文に包候事は、上﨟の御役と云は非也、

年中定例記にて包候て御出候、中﨟の御役也云々、

又恒例記も同じ、上包みの名書は上﨟の役也、」

 

とある。時の経過に従い役割が代わったのかもしれぬが、いづれにせよ、ご婦人方がせっせと亥子餅の包装作業を行っていたことが記されている。

 

ついでのことに、同書をもう少し眺めておこう。

 

先の舟包みに関するブログ記事にて、古人がモノを「やわやわと」包んだ旨の記録があったハズと記していたが、ここに書かれていた(661頁)。もっとも、モノとはいえども文書に限っての記述に留まるが・・・。

 

「たて文を上下おしひらむる事は、いやしき也、

鯉の口を表して、いろいろとまろめてひねる也、

又一説上をばおしひらめて、下をばおろおろとまろむと云々、

是は上より雨露などの中へ入まじき為に、

おしひらめ、下は入たる露などを留まじき用也、

おろおろとまろむと云々、

 

(ここまで『聞書』本文、以下、貞丈の註釈)

 

立文を上下おしひらむるとは、たて文の上巻の上下をひねる時の事也、

上下をおしつぶしてひらくしたるはいやしく見ゆる也、

鯉の口を表してとは、ひねり文の上下の端のこぐちを、

鯉の口をあきたるにかたどりて、ふくらまして置也、

いろいろと丸めてとは、平くおしつぶさず、いろをあらせて、

うつくしくふくらませ置也、

おろおろと丸むとは、おろおろとは、きびしくおしつぶさず、

おろそかにして丸みをつけて置也、いろいろと同じ心なり、」

 

***

 

馬頭盤については、次の記述が見られた(565頁)。

 

「(頭書)天子の御膳に御箸を置く台を馬頭盤と云、

銀にて作る、耳かはらけは此馬頭盤をまなびたるものなり、」

 

図版も添えられており、活字本の底本はマシなものであったようだが、国会図書館、早稲田大学図書館収蔵の写本の絵図は・・・。

 

***

 

また、檀紙についての註釈も記されており(639頁、ほぼ同じ内容の記述が『貞丈雑記』・「巻之十四:紙類の部」にも見える)、

 

「だんしは、横にちりめんのごとくなるしぼある紙也、・・・

引合の紙は、今の世にたえてなき紙なり、

今時だんしの一名を引合と心得るは非也、

今京都などにては、紙あつくして横にしぼあるをだんしと云、

少うすくして竪にしぼあるを引合と云也、」

 

とある。当方、かねてより“しぼ(皺目)”が縦に流れる包みの仕立てを「気色わる~」と敬遠してきたが、あるいはそうした体裁は、かくなる「いにしへのみやこ」の伝統を真っ当に継承したるものであるやもしれぬ。さはさりながら、と思いはするが・・・。

 

 

さらに幾つか余談を連ねる。脈絡はない。

 

 

*** 熨斗について、ひと言イワシて!

 

熨斗が、本来は長寿をことほぐ徴であり、今日語られるごとく、病床の見舞いに付してはならぬようなものでないことについては既に別稿に記したが、柳田国男の論考「田作りまな祝い」に次の一節がある(『食物と心臓』、講談社学術文庫より)。

 

「(熨斗は)すなわちまた精進落ちの一つの形式だったのである(引用者補註:ここで言う「精進落ち」については、先立つ箇所にて「喪屋の慎み」の「終わりを明らかにする食宴」、「盆の斎日の終わりに来る式」が挙げられている)。それゆえに凶事の慰問にはけっしてこれを添えず、またいわゆるなまぐさ物を贈る時にもこれを必要としない。つまりは相手がそれを食べると否とに論なく、贈る品物がきわめて尋常であって、少しも忌の拘束に累(わずら)わされておらぬことを、確保する手段となり、したがってまた精進をしている人々に対しては、それを攪乱し破らせる結果になるゆえに、ノシを添えてはならなかったのである。・・・

北九州の習俗の中には、・・・香の物を茶受けにして茶を出す場合に、たいていはその茶盆の片隅に、小さな乾物の鰒(ふぐ)を載せておくことで、すなわちこの物がここにある以上は、たとえ茶と香の物でも、けっして精進ではないという表示であった。」

 

ここには茶受けの例が挙げられているが、鏡餅にイワシを添える習わしは広く各地に見られることであろう。鏡餅に添える鰯には、あるいは厄除けの意味がより濃厚であると解すべきかもしれぬが、伊勢神宮の捧げ物に海産物が多用されてきたことなども併せ見れば、「けっして精進ではない」こととの関連を思ってみたくなる。

 

っで、病床見舞いは「精進をしている人々に対」する「慰問」なのか、との問いにつながるのであるが、今日の良識の下、これはもはや愚問となるのであろうか。

 

なお、この「鰯」という文字、これは中国発の漢字ではなく、このくにで生まれた国字であるが、「定かではない」ものの「これまでのところ、この「鰯」字が史料に出てくる国字しては最も古いもののようである」とのこと(『漢字伝来』大島正二、岩波新書、2006年)。さらに同書には「新井白石『東雅』は「鰯」を説いて「イワシとは弱(“イワシ”とルビあり)也。その水を離れぬればたやすく死するをいふ也」」とある。

「「弱し」が転じてイワシと呼ばれるようになった」(同書)、まさにその“弱タン”が「これまでのところ」とは言え最古の国字であるというのは、どことなく愉快なハナシではないか。

 

 

*** 張弓と弛弓(はずしゆみ)

 

かつて『折形大全』の解説にて言及していたことであるが、弦を張った弓は戦時を表わすので凶、張らざる弓は平時の徴ゆえ吉となす旨を書き留めた資料がようやく見つかった。

 

『伊勢家用来諸式法之書 三』

 

「張弓弛弓置事

弛弓ハ治世ノ形 吉也 須也(引用者:「須」は「順」の誤記であろう)  

張弓ハ乱世ノ形 凶也 逆也

弓ハ嚢ニ納メタルヲ以テ賞ス

張テ用ルハ卑シ故ニ弛弓ヲ上トシ

張弓ヲ以テ下座ニ置也」

 

 

 

*** 瓶子飾りの雌雄蝶を置くときに・・・

 

『女重宝記 二之巻』(『女重宝記・男重宝記』、教養文庫)に

 

「祝言盃の事、・・・座敷に飾りたる瓶子をとつて、

女蝶の瓶子の酒を銚子に入、男蝶の瓶子の酒を提子に入べし。

瓶子の男蝶はうつぶけておく。女蝶は仰けて(あおのけて)おくべし。」

 

とある。さらに『小笠原礼書七冊 解説書』(現代史資料センター出版会)には

 

「“祝言聞書”には、『酌取両人出で、男蝶の瓶子・女蝶の瓶子を持ちて

下座に置く。また銚子・提を取りてさがり、銚子・提を持ち居り候とき、

女房衆両人出で、一人の女房男蝶を取り、女蝶の上にうつむけて置く。

酒と提へ移し候なり』」

 

との引用(陰陽?)がなされている。残念ながら出典には行き当たっておらぬが、その理由は・・・定かならず (*^_^*)

伊勢貞丈は、些細なことがらについてもその由来を明らめようとする傾きを持つが、さて、「当流を いづこと問はば 御留流」と返ってきそうな秘伝・口伝を書き留めた記録の類には如何あろう(なお、『定本 江戸城大奥』(永島今四郎ほか編、人物往来社)、「婚礼(和宮様御降嫁)」の項にも同様の記述が見られる)。

 

 

*** “右上がり/左下がり”が順?

 

漢字文化圏において、文章は縦書きを基本とし、上から下へ文字を追いつつ、向かって右から左へ読み進めることとなる。これに従い、絵巻においては右から左へと時間が流れ事柄が展開してゆき、屏風も同様、右隻・向かって右の面から鑑賞することを前提としている。

 

『増補 美術における右と左』(中央大学出版部、191頁)に次なる一節がある。

 

「絵巻物は水平に置いて斜上方から俯瞰するものであり、構図は自ら鳥瞰的になる。視線は右から左へ進行する。したがって左へ向かうものは「進み」「行く」であり、右に向かうものはすべて「現れ」「来る」である(※1)。

門や入口が、下限線から鋭角に右上方に上る斜線で描出されれば「順行」であり「順勝手」で(※2)、逆の場合は「逆行」であり「逆勝手」(※3)である。その他画中に左向きに突出した場合は、不安定な表現であり、物語の内容としても同様不安感を暗示することが多い。」

 

同書にても絵図を掲げつつ論を進めているが、図版が不鮮明であるゆえ、ここでは類例に差し替えて掲げておく(ために上掲引用箇所の表記の一部を改変した)。

 

※1:『信貴山縁起絵巻』より(『日本絵巻全集 第三輯』、国会図書館デジタルコレクション)、この絵は「来るもの」であることを説明する例としてしばしば引用されている(『日本絵画のあそび』榊原悟、岩波新書など)

 

 

家屋などの俯瞰的な描かれ方(吹き抜け屋台)に関して、このように順逆を明確に説くものを他に知らぬが、

 

※2:順勝手の例として『十二月遊び』(国会図書館デジタルコレクション)から、

 

 

 ※3:逆勝手の例は『三草紙絵巻』(国会図書館デジタルコレクション)より。

 

 

 絵画は一体に変化を求められるものであり例証も挙げられておらぬゆえ、引用末尾の一文には直ちに首肯しかねるところもあるが、進み行くもの、現れ来るものについての指摘に異論はなかろう。

また、座敷における上下の座は、そのありようによって異なるため一概に決めがたいところはあるが、基本的には南を向いたときの日の出の側、すなわち、舞台において上手とされる向かって右を通例とすることからして、勝手の順逆の見方についても大方の同意は得られることと思う(漠たる印象として、順勝手で描かれた絵図の方を多く見かけるように思うが、いかがであろう)。

 

さて、ここまでは情報(内容)の把握に一定の時間の推移を前提とした文章、絵巻についてのハナシであった。今一度繰り返しておこう。読み手の視線は、上から下を繰り返しながら

向かって右から左、大きく括れば右上から左下への流れが基本となる(絵巻や屏風など絵画の場合には、上から下、下から上、右から左、左から右へと、行きつ戻りつの経路を辿ることが多くなろうけれど)。なお、引用文にて「順行」は「下限線から鋭角に右上方に上る斜線」と規定されているが、「上限線から鈍角に左下方に下る斜線」と読み替えても差し支えはないだろう。

 

では、文章、絵巻を構成する個々の要素についてはどうだろう(・・・と勇ましく踏み出してはみたものの・・・)。

 

まづは文書から。文書/文章の構成要素が漢字を基とする文字であることは申すまでもなかろう。その漢字の基本形である楷書の構成要素については「永字八法」という基本点画がよく知られている。

 

『書道講話』(玉木愛石・小野鐘山、鐘山書院、国会図書館デジタルコレクション)より

 

 

 

ここに見る通り、左上から右下に向かい、上で見た逆勝手に分類されるのは側(短い点)と、磔(右払い)の二つ。

一方、順勝手と見なし得るものには、左下から右上に向かう策、右上から左下に向かう掠、啄がある。さらに横画である勒も楷書においては(やや)右上がりに書く事を推奨されるので、こちらに属するものと言うことができるだろう。

 

右利きのヒトが水平方向の線を引こうとするとき、自身の左寄りに起筆し、右方向に筆を向かわせるのが自然の成り行き(上で見た文書・絵巻を読み進める視線の流れとは逆になる)。

このとき、右肘を支点とする回転運動が伴いがちであるので、その運動の軌跡とも言い得る描線は右上がりとなる傾向を含む(楷書の場合は文字に緊張感を持たせるため、下に凸の形状を取ることが多い。無論、「三」など複数の横画を主要素として構成される文字においては、上から順に、下に凸、水平、上に凸などと変化させることもあろう。一方、行草、ひらがなの場合には自然な腕の動きに基づき上に凸の姿が主となるであろう。しかし、そのときにおいてもやはり総体として右上がりの傾向を示すことに変わりはないものと思う)。

 

逆勝手の要素について見れば、側、則ち点は、全ての筆画の起筆=出発点ではあるものの、一文字の主要構成要素となることはおそらくあり得ないだろう。

これとは反対に、もう一つの磔(右払い)は“しんにゅう”、“えんにゅう”なども含め、その文字の特性を強く印象づける要素になり易い。

これはおそらく、右利きのヒトにとっての自然な動きである肘を支点とする回転運動に従いづらいのみならず、筆先が手首の下に潜り込みかねないため、そこに著しい抵抗が生ずることによるのだと思う。

それがため、左上から右下に向かう筆画に、策や掠のごとく流れのままにすっと力を抜く形状のものがなく、一旦しっかりと抑えた後、おもむろに筆を右方向に抜き出すか右上方に撥ね上げる次第となるのだろう(先に見た横画同様、行草、ひらがなの場合には、次に続く文字の起筆に至る自然の流れを活かすべく、楷書とは異なる様相を呈する・・・の・・・だろう。なお、楷書においては垂直、乃至はほぼ垂直に近い角度で下降してきた筆を一旦止め、左上に少しく撥ね上げる場合を除き、右下から左上に筆を向かわせる筆法は、あったとしても例外的なものであろうと思う)。

 

楷書の特性をより明らむるため、ここで篆書と呼ばれる字形の幾つかをご覧いただこう。

 

篆書とは、原初的な象形文字・絵文字、甲骨文字を経て、往時の中国にて地方ごと、まちまちに使用されていた文字を、始皇帝の命により統一したものと言われる書体である。

「篆とは筆を引き延ばして書き、燦然として模様ある義といい、前代にはみられぬ均斉のとれた端正な書体で、たて長の美しい姿態」との評が見られる一方(『和漢書道史』藤原鶴来、二玄社)、「字形が整斉として美しいが、書くうえには繁画で時間がかかり実用には不便であった。ここに円から方へ、曲線から直線へと省略整理され、書写に便利な・・・隷書の発生」(同書)を見ることとなり、さらなる速筆の必要を受けて草書、楷・行書を形成するに至る(楷=真→行→草の順ではないらしい)。ご覧の通り(と申してよい思うが)、後の文字とは異なり右上がりを志向する様子は覗えぬのみか、均斉というよりはむしろ、右下角に重心を据える逆勝手の図形のようにさえ見えなくもない(そのような印象を強く覚える頁を意図的に引いてきたこともあるけれど、右下末端を中心にしてクルクルと回してみたくはならぬだろうか)。

 

左図:『初学独習 篆書のかき方』(三圭社)、右図:『聖勅帖』(西東書房)、国会図書館デジタルコレクション

 

 

繰り返しになるが、この文字は「書くうえには繁画で時間がかかり実用には不便であった」がために「省略整理され」、さらに「書写に便利な」楷書を生み出したのであった。書写に便利というのは、右利きが過半を占めるヒトの生理に即した運動を基とすることにほかなるまい。

 

(と、ここでやめておけばよいのであるが、)

 

さて、一方、絵巻においては・・・、

 

その個別要素は人物であり動物であり山川草木でありと、随分の抽象化を含むとしてもなお、具象に足場を残すところが多く残るため、文字で示したほどに(ホンマかい?)判然さすることは叶わぬのであるが、ここでは一旦、当方愚論の都合に合わせ、抽象化・記号化を進めた図柄である“紋”に焦点を絞って見ることで逃げを図るつもり。それでもなお、声をひそめてつぶやく程度に・・・。

 

以下、『紋づくし』(小谷平七編、芸艸堂、国会図書館デジタルコレクション)から幾つかの例を採り上げ、左右反転の図版を並べ置いた。

上で見た勝手の順逆を見分けがたい図柄もあろうが、そういうものも含めて「明らかにどちらか一方が好もしく見えるもの(必ずしも元の画像であるとは限らぬであろう)」もあれば、「どっちゃでもええなぁ」と思われるものもあるだろう(どっちゃでもええのは当方の為事(しごと)のすべてであろうけれど)。幾つか、円周上に展開する絵図も拾っている。多くのヒトはコンパスを用いるとき、時計回りに回転させるだろうことを思いつつ。

 

 

もとより好みの問題であり、傍の者があれやこれやを持出してとやかく言うべきことがらではないのだが、ここに、扇子は右開きで、開いた時には手前の親骨が左下から右上方に向かうこと、和服の襟も右前とするゆえ同じ傾きを示すことを書き添えておこう(南を向いたとき、太陽は向かって左の地平から昇り南中するなんちゅうことも加えたいが、これはヒトの心身の事情とは無縁の現象であり、しかも文書・絵巻の時間の流れとは逆行する、向かって左から右へと推移してゆく中において観察されることゆえ、ここでは控えておくべきであろう)。

 

なお、蝶や鶴などの図では、向かって左に頭を向けている場合が多く見受けられた。これには先に見たごとく、絵巻の時間軸に沿って「行くもの」として対称を眺める習慣に根ざすところがあるのか、あるいは、(この点も以前どこかに記したものと思うが)右利きのヒトにとっては左上方に光源を置くのが作業を進めてゆく上で都合良く、かつまた、人面を描くに際しては、描き手にとっての向かって左を向いている顔の輪郭線の方が描き易いという事情を引きずっての次第であるのか。

ただしこのとき、体軸の向き=進行方向と、飛翔するために広げた羽とは直交(に近い)関係で描かれることもしばしばで、体軸と羽のいづれが、その構図の印象により強い影響を及ぼす要素となるのか、あるいはまた、直交するさまが左右の均衡をもたらす結果を引き寄せるのかについては個々の図柄、また観察者により、見方が分かれるであろう。

行くものは多く、地上を水平に進むか地上より空を目指し、その視線・体軸は右(右下方)より水平、もしくは左上方への傾き(逆勝手)を示す(右から左へと「順行」しているにもかかわらず・・・)。

一方、来るものは多く、向かって左寄りの地平から水平に、もしくは空より地上に舞い降りる・・・ハズであるが、紋に見える降り来る鶴についてのみ申さば、ほぼすべてが右上から飛来する姿で描かれている。

 

一つ、白状しておかねばなるまい。植物=枝花については当初の予想に反し、逆勝手に見える、すなわち右下から左上方に向けて伸びてゆくように描かれているものがほとんど全てであり、順勝手のものは2、3の例外でしかなかった(当方、華道の嗜みとはまったく無縁に過ごしてきているが、立花・活花に関する資料をぼーーっと眺めている限りにおいては、順勝手が少なくとも過半であるものと思っていたのだが、そもそも書院造りにおける順勝手(本勝手)は、床の間の向かって左に付書院(書院床)・明障子を、向かって右に床脇(違い棚)を設ける場合を指す一方、活花の主舞台でもある茶室においては、向かって右から光を採る造りを言うことが多いようで(流派にもよるのだろうけれど)、当方の貧脳にてはもはや整理のしようもなく、ここでの例示は断念する)。

 

かくなる次第で、紋を巡っては論の整理が行き届かず、また、絵画や図柄は常に変化を求められようこともあり(紋に限って言えば、やや性格を異にしようけれど)例外は枚挙に暇無しであろうから、何も無理をするには及ばぬのであるが、ここまで、とこう申しつつ時間軸が向かって右から左に向かう漢字(縦書き)文化圏においても、多くの場合、右上がり(あるいは左下がり)に配される構成要素が優位を占める構図を心地よく感ずる(きっと貴方もそうだろう)事情について愚考を巡らせてみた次第である(これを換言すれば、向かって左から右への横書きを常とする文化圏においては、文書を読み解き絵画を眺める視線の動きは、大きく括ると左上から右下に向かう流れとなるゆえ、行くものは向かって左から右に進み、来るものは向かって右から現れ出づる一方、多く線描を伴うからには、右利きである限り、縦書き文化圏同様、右上がり/左下がりの構成・構図を好むだろうとの仮説が成り立とうハズであるが、よく知られる、己が右(right)が上位(right:正しい)であることとの整合性をも含め、ここでは立ち入らない)。

 

眼はおそらく、常にすべてを正しく映しているに相違あるまい。されど、脳ミソたる厄介な輩はしばしば、その映像を歪めて身勝手な解釈を施すことがある。

当方極力、眼ん玉より上に位置する器官の言うことは聞かんと、手足、肚(はらわた)の意思を尊重してきたつもりである。いわゆる”Aha! 体験も、丹田の発する得心の雄叫びであり雌叫びであろう。腑に落ちる、と思っていただけたなら幸いであるが、愚にも付かぬ“Ahoーー体験”であったなら恐縮千万 m(_ _)m

 

最後に今一度、執拗な繰り返しを含む蛇足ともなろうが、楷書に立ち返って見ておこう。『欧体 九成宮 標準習字帖』(柳溥慶編、進修出版社)から基本点画の一覧表。

 

  右上から左下に向かう線と左下から右上に向かう線とは、ヴェクトルとしては正反対のものであり、文字はまさしく、そのヴェクトルの軌跡(? 方向、また速度と負荷が刻々と変化する運動の跡)でもあるのだが、ここでは両者を「傾きを同じくする静的描線」として見ることにご同意いただけるなら、これらを指先でなぞることにより、先に見た吹き抜け屋台の構図についても、なにゆえその順逆を語り得るのか、ご理解が及ぶのではないかと思う。

運動=動作で静的描線の確認を、というのも著しい矛盾であるが、右利きのヒトにとって、肘を支点とする回転運動に準ずる順勝手の傾き(右上がり/左下がり)は描き易い一方、垂線を引くにはやや困難を覚え(下端より上行させる方が容易かもしれぬ)、逆勝手(右下がり\左上がり)の描線は、とりわけ下端に近づくほど強い抵抗を覚えられるのではなかろうか。逆勝手で描かれた座敷の絵が不安定に(ずり落ちそうに)見えるのも、このことと無関係ではあるまい。

 

(ここに引用した『紋づくし』の緒言に「従来流布の紋本のあまりに杜撰なるを嘆き研究工夫を積むこと多年」とあるが、ご覧の通り「香包梅」の包みの絵はいかにもアヤシげで「折り四ツ目」の掻敷も一般に陰の仕立てと言われる姿で描かれている。芸艸堂と言えば、今なお続く老舗の美術出版社であるが、この書の刊行は大正4年。このとき既に、折形に対する認識・眼差しがこの程度であったのかと思わばチト哀しい。)

 

 

*** しめ縄の紙垂は稲妻って?

 

多くの場合、しめ縄は作業用などに用いられる縄とは反対方向に撚り合わせて綯い進めるが、通例、それを左綯いと称する。この用語の適否については疑問を呈する向きがあるほか、「しめ縄」という語そのものを巡っても、『古事記』にては「尻久米縄(しりくめなわ)」、『日本書紀』にては「端出之縄」と表記されており、果たして尻=先端を「組んだ/籠めた/出した」のか、先賢たちの議論もかまびすしく伝わっているが、今、そうしたことどもに触れるつもりはなく、ここでは紙垂(しで)についてのみ、ひと言記しておこうと思う。

近年、ときおりしめ縄に下げられる紙垂のことを「稲妻を模したもの」と説く御仁を見受ける。米の豊作祈願を念頭に陳ぜらるるこの説によると、しめ縄本体は「雲」であり、そこに撚らぬままの藁を3、5、7本(あるいはもっと多い場合もあるが)束ねて垂らし、しばしば「しめの子」などと呼ばれるものは「雨」なのだそうだ。

かつての日本の民俗学は稲作を基盤とする暮らしのありように重きを置き過ぎた、との批判があったように記憶する。幾分かという以上に同意せざるを得ないところもあろうと思うが、管見の限りにおいて、少なくとも前世紀の90年代中頃までは、その旧来の視座からすらも、このような解釈が唱えられることはなかったのではないかと思う。

無論、「見立て」のすべてを否定するつもりは毛頭ないのであるが、ことがらの由来や本質/本義からあまりに遊離してしまうのは如何なものだろう。

 

紙垂は神前に供える榊に結わえられているものと同じく、もとは供物としての繊維・布帛であり、さらに原初的/根源的意義を求めれば、カミの降臨を促す依り代に付された目印であったハズのもの。さらに申さば、(カミが道に迷うこともなかろうゆえ)山中にて「人が」神木・磐座を見誤ることのなきよう、その存在を明らかに示すための工夫だったのだろうと思う。占有領域、あるいは聖域を仕切るために張られた「占め縄・標縄」に付されているなら、それは何らかの意図を以て画された領域が存在することを、より明瞭に示すための目印と見てよいのではなかろうか。

手許に長細い紙があらずとも、身近に転がっている適当な大きさの長方形・正方形の用紙の上下(あるいは左右)の辺に交互に切り目を入れることにより、長く垂れる紐状のものを作り出すことができる。これを紙垂として用いるようになるが、その形状が”結果として”稲妻に見立て得る姿を取ったのであり、雷光を模さんがために折り方/切り方の工夫を重ねたのではあるまい。

 

直接の関連を持たぬが、かつて、長寿をことほぎ婚礼や結納の儀が執り行われる座を飾ってきた高砂の翁と媼。松竹梅の造花や鶴亀と共に、この一対の人形を載せる台のことを、このくにの人々は長らく島台、あるいは州浜台などと称してきた。

これは能や謡曲でお馴染み(?)の高砂伝説に由来するものであり、さらに辿れば、東の海はるか隔つところ、神仙住まわる伝説の島=蓬莱山を象ったものでもあり、いづれにせよ「浜辺」であらねばならなかったハズのもの。しかるに近年、婚礼・結納関連の用品を扱う業者は皆、これを「雲台」と称している。

今さら長寿が目出度いワケであろうハズもなく、とっとと雲の上にでも行ってしまえ、と言わんばかりの世相を素直に反映した呼称の変遷として有り難く受け容れねばならぬかと思わぬでもないが、もともとの意義を見失い、由来となった伝承から切り離されて徘徊を始めた老人達を、後世の人たちはどのような目で見守り、保護をするのだろうとの懸念も・・・。もはや見限り、反故と見なすのみなのか。

 

時代に即さぬ風俗習慣を、単に“しきたり”だからというだけで続けてゆくには無理があろう。しかし、カタチを変えて継続を図るにせよ、一旦中止、あるいは廃止を余儀なくされ凍結に至るにせよ、原義・起源とのつながりが失せてしまわぬような工夫を怠るべきではないと思う。具体例を挙げよと求められると返答に困るのだが、昨今、「判り易い」という殺し文句が、さまざまなことどもの死期を早めているような気がする(「キャワイイーーッ!」ってのも加えておきたいが・・・)。

世に伝えられてきたことどもの多くは、雑多な要素・要因が綯い混ざり今日に為来たって(しきたって)おり、その淵源・経緯を尋ねるのは容易でないこともしばしばであろう。さりとて、たまたま目に入った上澄みのみを掬い上げ、そこにラメをまき散らしてしまうと、根無し草同士が絡み合い・・・。無論、そこからまた、新たなものが生み出されるに至るなら、それはそれで結構なこととも言い得るのだろうけれど・・・。まぁ、アタシャどーでもええんですけど・・・ね・・・。

 

(なお、高砂人形の台を雲台と呼び変えた背景には、このような形状の脚を「雲脚」と称することがあるほか、台上を飾ってきた松竹梅の飾り、あるいはまた、台を含めた総体としての飾りをもまた、島台と称してきた事情があるのかもしれぬ。費用の節減を図り松竹梅の造花を省き尉姥のみとする際、無用の混同を避けるための前以ての工夫として。)

 

『類聚婚礼式』より

 

 

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最後につまらぬ思考実験を2つ。

 

通常、時計回りは右回りとされる。

まづ、時計の針の先端に我が身が位置しているとしよう。常に進行方向を向いているなら、これを右回りとするのに何ら抵抗はないだろう(文字盤上に円柱が立っており、その周囲を巡るのだとすれば、常に右手を円柱に添わせたまま周回できる)。

では、針の先端に居りながら、回転の中心に目を向けていたならどうであろうか。運動の向きは己が身の左方向となる(先の例に即して言うなら、左手先導の横ばい=蟹歩きになる)。これ、右回り? 左回り?

 

今度は、回転の中心に身を置いてみよう。この場合、視線をどちらに向けようが、回転運動は常に己の右方向と感知されるであろう。

 

では、盤上を離れ正面から眺めてみれば(上方より俯瞰すれば)どうなるか。最上部の12の目盛から6に向かう時には、なるほど、右回りに下降することになる。されど、最下部の6から12に上ってゆくときには如何なものか。再度問うてみようか? これ、右回り? 左回り?

 

ちなみに、時計回りの曲線を描くこの矢印、マイクロソフト社の各種ソフトにては「左カーブ」となっているハズ。古く「天道は左旋する」と言われるのもこれと同じ、かどうかは???ながら・・・、このくにの場合には「左自リ旋ル(左よりめぐる)」と読むのだそうだ。

 

 

というワケで(?)、イザナキさんは天の御柱に向かい(時計でいうなら、12の目盛りのところに立ち、まづは中心の方を見ながら)「ワタシャ我が身の左側から回ろと思います。おたくさんは反対に右側から回っとくなはれ。ほな、柱のあっちゃで、またお目にかかりませう」と言うて時計回りに進み始め、イザナミさんは反時計回りに。っで、っで、っで、6の目盛りんあたりで、ですねぇ、まぁ、その、何ですわ、「確か、あんさん、足らんとこがある、ゆーたはりましたなぁ。ちょうどワタイ、チト余ってるとこがありますよってにですなぁ・・・、っど、どないでっしゃろ・・・」と・・・、まぁ、何です、*****、ってな次第に (*^_^*)

いや、ワテはなんも見とりませんねんけどね・・・。

 

もうひとつ。

先に記紀においてしめ縄が「尻久米縄」、「端出之縄」と記されていることを示した。

 

通例、ものごとの始まり・端緒を頭、終わり・終結を尻と言う(「末“尾”」でもある)。

さて、稲の生育過程を思い描いてみよう。ここに種=籾を蒔いた。地から空に向かって芽が伸びゆくハズである。始まりは地中の種=籾であり、芽を出した地面であることに異を唱える御仁はおられまい。地中/地面の位置が始まりであるなら、地の側が「頭」と認識されねばならぬ。このとき、芽の伸びたる先=伸長の行き着く末尾は葉先であり、これは即ち、天空の側が「尻」ということになろう。さらに時間が経過すると・・・。いかが? チト雲行きがアヤシくなってきた?

 

■設問:次に掲げることわざの空欄:〇〇〇に相応しい語を撰みませう。

 

「実るほど、〇〇〇を垂れる稲穂かな」

 

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上下左右を巡る次第を文字にしていると、己がトンデモない阿呆になったような気が・・・、

ん? 気のせぇやおまへん、ってか (-_-)

 

 

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最初に紹介した『近世史講義』にて、次なる一節も目に留まった。

 

「死や血の穢れの対局に神や聖・浄の観念がある。・・・服忌令は・・・一六八八年から初めて武家の社会に制度化されたのである。戦国時代以来、槍や刀で相手を殺傷することが価値であり、主人の死後に追腹を切ることが美徳とされた武士の論理は、死や血の穢れとともに排され、武家の儀礼の中に朝廷や神社から伝わった服忌の観念が制度化徹底され、ついには広く社会にも浸透していった。」(105~106頁)

 

都合よきところのみを切り出し、敷衍しようと企んでいるように思われもするだろうが、この一文、そもそも武家がケガレの観念などを抱こうハズもない(無論、個別に見れば例外も多々あったことだろう)との指摘と受けとめても、さほど強引な拡大解釈と非難されずには済むだろう。

これまでにも幾たびか繰り返してきたが、折形は本来、ケガレを避けるための道具=結界であったと言えよう。しばしば折形にかぶせられる“武家のなんちゃら”なんぞという枕詞はもうボチボチ、お蔵入りにならぬものかと思う。曰く、王朝しまっせ (^_^;)