(最初に断っておかねばなるまい。この稿、口数は多いが中身は空疎である。私が保証しよう m(_ _)m )
 
ここに『清俗紀聞』という書物がある。
この書についての案内を兼ね、まづは東洋文庫版(平凡社)の解説から冒頭部分を引いておこう(寛政11年(1799年)の刊本は国会図書館デジタルコレクションにて公開されており、以下、同書からの図版はすべてこのサーヴィスを利用した。また、国立公文書館には初版本に彩色を施し将軍家に献上されたものが収められているようで、その一部をネットで閲覧することができる)。

「『清俗紀聞』は、わが鎖国時代の海外への唯一の窓であった長崎において、寛政年間、十八世紀の九十年代に長崎奉行を勤めた中川忠英が監修者となって、中国清朝乾隆時代(一七三六-一七九五)ごろの福建・浙江・江蘇地方の風俗慣行文物を、近藤重蔵ら海外事情調査に長けた幕吏が、長崎の唐通事(中国語通訳官)を動員して、長崎に渡来した清国商人から問いただし、具体的な絵図をつくり和漢混淆文で解説した調査記録である。
書物によらぬ事情聴取という型で、細かな事物にいたるまで綿密に具体的に記録して、・・・日本人の目を通じての、いわば客観的な対象の選択と把握がなされていることによって、中国の文人なら見逃してしまうような、当時のもっとも一般的日常的庶民的な風俗文物をかなり正確に総合的にとらえ活写し得ており、・・・」(第1巻・127頁)
 
私がこの書の存在を知ったのは額田巌著『包み』(法政大学出版局、ものと人間の文化史・20)にて言及されていたことによるのだが、そこには「日本料理における箸包みの礼法は、中国から学んだ方式のようである。」とある(205頁)。
然るに、<箸包>なる文字(より正確には「御箸 紙ニ包」)は正徳4年(1714年)に出版されている『当流節用料理大全』に見ることができる(初出なるか否かは不明)。図版は人文学オープンデータ共同利用センター/国文学研究資料館の提供する日本古典籍データセットより(2点含まれているが、発行年が記されているのはID=100249319の方のみ)。
 
 
『料理大全』の刊行が『清俗紀聞』に先立つものであるという理由のみを以て、直ちに斯界泰斗の説くところに異を唱えることには慎重であらねばならぬが、実にさまざまな物を熱心に包んできたこのくにの住人が、箸の包みに限って大陸の智恵を学ばねばならなかったとも俄には思いがたい。
と、いささか気にはなりつつも、手許にあったハズの東洋文庫版『清俗紀聞』が書架より失踪すること久しくなりゆくにつれ(私見にては整理が悪いためでは多分なく、地震や婚礼市場縮小に伴う作業場・倉庫の移転に帰するところ大なのである)、この件もいつの間にやら忘却の彼方に姿をくらましていたのだが、今般、箸の包みについて調べねばならぬ事情に至り、やむなく活字版を再調達した。事のついでにここにもその一端を記しておく次第である。

額田氏の著書に直接の引用はなされていないのだが、『清俗紀聞』に描かれているのは次の如き箸の包みの絵図。
「筯包」(箸包み:筯(チョ)は<たけかんむり>の下に<助>と書き、箸と同義)
 

本文に「箸は一ぜんずつ紙につつみ楊枝を一本ずつ添うる。包み紙は四角に折り、上へ福寿等の文字を彫り、文字の下には紅唐紙を用ゆ。」(東洋文庫第2巻・110頁)とある。
 
また、「賓客坐位・卓子排設」と題された絵図は次の通り。
第2巻・図版76頁の解説に「・・・銘々の前に小皿に置いた調羹{ちりれんげ}・爵盃、紙に包んだ箸が置いてある。」と記されている。
 
(部分拡大)
 
さらに、図版が明瞭ではないものの、次のような絵も描かれている。青〇で囲んだものが箸包みであるか否かは判然としないけれど・・・。
 
 
さて、当方、中国においては箸は縦に据えられるものと思っていたのだが、少なくとも『清俗紀聞』で見る限りは横向きに置かれているようだ。
また、箸や匙を載せる馬頭盤についても、当方、特段の根拠も無きまま中国由来の道具であろうと思い込んでいたが、これまでのところその経緯を示す資料には行き当たっていない(一色八郎著『箸の文化史』54頁には「・・・中国の新しい箸食制度は、隋使の来日をきっかけとして、奈良時代になると宮中の儀式や供宴には、中国式の会食方式が採用され、『馬頭盤』にのせられた金や銀の箸と匙が用いられるようになった。」とあるが、典拠は明示されていない。下掲図は同書掲載の馬頭盤の写真。「1921年、有職保存会でつくられたもの」とある。反っているように見えるのは、本のとじ目の影響。そっとしておいて欲しい)。
 
 
なお、馬頭盤に箸を載せ、縦向けに配した図には次のようなものがある。『厨事類記』(1295年以降の成立という。『群書類従』所収、国会図書館デジタルコレクション)より。
引用は省くが、この図の前の頁に「内膳司昼御膳・・・御台居様 或説。」と記されており、その項(昼御膳:”ひのおもの”と読むらしい)の図版として描かれたものであるようだ(頁構成の都合上か相応の余白を挟んでいるので、活字本では一見別項であるように見える)。
 

 
 
また、平安後期の貴族・藤原重隆が著わした『蓬莱抄』には「忌火御膳」として次のような絵が添えられている(『群書類従』所収、国会図書館デジタルコレクションより)。
この絵図では2膳据えられているように見えるが、同じく国会図書館デジタルコレクションで見ることの出来る写本の一つ(1488年)では1膳であるようにも見える。着座してお膳に向かうと、(当方の誤認にあらぬ限り)どうやら左手の側に縦に配されているようだが事情は判らない。
 
(この図では箸の据えられている台が馬頭盤であるか否かを判ぜられぬが、上に示す如く、日常の食事である(だろうところの)昼御膳も馬頭盤で供されていることから、これも同前と推すことができようかと思う。)
 
さらに、『大嘗会図式』(荷田全集7巻所収、国会図書館デジタルコレクションより)にも「忌火御飯」として下掲図がある。
 
ハナシが脱線を始めて久しいが(もとより軌道などありはせぬとも・・・)、箸の置き方を巡ってもう少し見ておきたい。
『類聚雑要抄』より、「保延二年(1136年)十二月日。内大臣{頼長}殿廂大饗指図」(国会図書館デジタルコレクションより)、「箸台 口径五寸。二方折立端。 已上深草土器用之。」との説明が添えられている。
 

 
(ついでながら、この絵図に相当する国立博物館の画像は次の通り。作品名として「類聚雑要抄_巻1」とあるが、「制作年 江戸時代、材質・形状 紙本着色」とも記されているので、おそらく平安期に成立した『類聚雑要抄』に基づき、江戸時代になってから彩色ならびに幾許かの加除を施され『類聚雑要抄指図巻』と称されている資料のものなのだろうと思う。)

 
さらに、同じく『類聚雑要抄』に描かれている永久四年正月二十三日の「母屋大饗」の図は次の如し。
 
 
前者には「尊者牛飼前」と記されており、任官披露の宴に招かれた主賓に付き従う家僕に供される膳部であり、低い身分の者に対して極めて丁重なもてなしがなされていた様子を窺うことができる一方、後者は(機会を異にするが)「是尊座(者?)前」であるにも関わらず「箸匕。不居箸台。」と、箸は台に載せぬまま尊者に供されているさまが見て取れる。
このことに関しては「『類聚雑要抄』に見る匙の文化に関する研究」という都基弘氏の興味深い論考を参照されたし(ウェブで閲覧可。氏はここで「神あるいは民俗信仰の神的な存在と関わる風習を想定した尊者と解することによって、『尊者牛飼』への手厚い扱い方が肯定される仕組みになっていると言えよう」との説を掲げている)。

馬頭盤については、江馬務『新修 有職故実』(中央公論社『著作集・第十巻』)に「節会などに天皇が御台盤の上に置かれし銀器で、その上に匙と箸をのせる。」とあり、ここには「節会などに天皇が」との限定句が付されている。
また、講談社学術文庫『新訂 建武年中行事註解』所収の『新訂 日中行事註解』には、既に示した『厨事類記』の絵図を引用しつつ、「ばとうばん 馬の頭のかたちしたる盤なり。(伊勢)貞丈の説に『其ノ形細長くして丸し。馬の頭は細長き物なる故、馬頭盤といふなるべし。耳土器とて小き土器の両傍を少おしすぼめたるに箸をおく事あり、是レ馬頭盤の略なり』といえり。」とある(これまでのところ当方、「貞丈の説」の出典にたどり着いておらぬ)。

先に「尊者牛飼前」の図を見たが、尊者の従僕を饗応するに用いられた箸の台は口径五寸とあった。なれば、箸台として多く使われていたであろう通常の耳土器(みみかわらけ)に比してかなり大きなものとなろう。これについて、貞丈言うところの「馬頭盤の略」を超え<馬頭盤に準ずるもの>との意を込めたと解することはできぬのであろうか。
 
馬頭盤の使用機会(食膳における意味づけ/食器の格?)、また、箸を縦に据えるのは馬頭盤に載せられているときのみ、あるいは天皇の食膳に限っての次第であるのか等々については、さらなる資料を以てせねば定かなことを示し得ない。
反証・補足などあらばご教示を乞う次第であるが、古の雲上人の食事の道具について当世・地ベタを徘徊する賎民が詮索したとてその食餌事情に益するところのあろうハズもなきゆえ、箸に関してはこの辺りで措くこととしよう。
 
***
 
さて、『清俗紀聞』であった。
実はこの書にもう一つ、何故かこれまで特段の関心を向けられた様子を目にした覚えがないのであるが、まことに興味深い絵図が書き留められている(額田氏の著書にても触れられておらぬのではないか。斯く申す私も、実はすっかり忘れてしまっていたのだが・・・)。

「贄儀束脩(しぎそくしゅう)包法」
「先生への謝礼の包み方。右上は包みの表面、右下は裏面、左の単帖を加え、拝匣(ふみばこ)に入れてとどける。」(東洋文庫第2巻-図版・20頁)
「銀の包みよう、譬えば切銀なれば星{こだま}幾塊と書き、全き銀は元{ちょうぎん}幾塊と書く。量目は書き載せぬなり。」(東洋文庫第2巻-51頁)

 
ご覧の通り、今日見るところの中包み(ぎょーかいでは「大阪折」などと”でけそこない”の盆踊り唄の如き呼称が定着しているらしい)と同じ姿に見える(折り方の詳細が描かれておらぬので内側の様子は判らない。例えば次図の如き細工が施されている可能性を完全には排除できまい)。
 
余談ながら、この包み方(中包み型)は、一箇所を留めるだけで安定した封緘と成る実に優れたものであり、今日、百貨店など小売店店頭で多用されている、いわゆる回転包みの原形ということも出来るのだろうと見ているのだが(知らんけど)、ここではその特性を活かすに至らず、扉(蓋?)を二重にしているだけのように思わぬでもない。
 
それはともかく、ここに見るごとき包みを我々は中国、あるいは『清俗紀聞』そのものに学んだのだろうか、それとも双方それぞれにおける独自の工夫の結果、相互の連絡なきままに生み出されるに至ったものなのであろうか(清がこちらの影響を受けた可能性も皆無とまでは言えぬのだろうけれど・・・)。
 
ここまで、特定時期の、広大な中国の一部の風俗習慣を紹介したものという限定付きではあるが、『清俗紀聞』に馬頭盤の姿を見ることなく、かえって箸の包みが描かれており、また、箸が縦置きではなく横に据えられている様子をも目にしてきた。
その上さらに、中包みのごとき包みが大陸にても用いられていた(いる?)さまを知ると、果たしてその経緯は如何なものであったのか、確かなところを知る術もなかろうけれど、興味尽きぬ論題ではある。
 
 
以下、今少し余談が続く。

『清俗紀聞』、「料理」の項に「料理に一定の献立あり。六椀・八椀・十椀・十二椀なり。」(東洋文庫第2巻-109頁)とある。
このくににおける奇数を尊ぶ習慣は大陸からもたらされたものと(今なお)思っているのだが、具体実践の場への適用に際しては、あるいは陰/陽という語の受けとめ方に、と言うべきであろうか、少しく感覚を異にするところがあるのやもしれぬ。
 
そう言えば、「忌月(いみづき) 忌むべき月。正・五・九月の称。」(『広辞苑』)という言葉があるほか、次の様な記述も見られる。
「中国の民俗思想では、三、五、七、といった奇数の数字は、あまり喜ばれていない。例えば三月の節句、五月の節句などというものも、三月とか五月とかは悪月で、その月にすべての災厄が最も集中的に訪れる月であるから、その防禦のために、また集中的に、祓禊がなされねばならぬ月である。節句の行事はそのために起こったものであるし・・・ところが日本では、その逆に、七、五、三は、陽数とし、これに『めでたさ』を考えているのである。」(『松竹梅 日本の美と心』(大森志郎、桜井満、本田正次、松田修:社会思想社・教養文庫771、113~114頁)。
 
年中行事についての解説は巷間あふれかえっておろうが、江馬務著『有職故実』(河原書店)に「三月上巳日は古来陽の極った凶日とし、除日ともいって中国周代からこの日は人々水辺に出て手足を洗い厄を落し蘭草に浴して汚れを祓った。」などとあるほか、このくにの行事にも大きな影響を及ぼした中国の年中行事についての古典資料である『荊楚歳時記』・東洋文庫判の五月五日の項の注釈は「古代における水辺の祓禊から、辟邪・辟病のための諸行事が生れ、水辺に生えている薬草の摘取の習俗も起って来たものと思う。ところが、草摘みが多くの士女の交会の機会となったところから、次には楽しい遊戯も生れ、百草を較べあったり、草の上で踊ったりすることが始まったらしい。」と、その性格の遷移を語っている。

すっかり長くなってしまった。
では、またの折りに。

         もうええわ、ってか (-_-)