まづは、お報せから。
YouTube に新たな動画を掲げました。『続・折形自由自在』。
今般は『女子教科』に掲載されている「薫物」や「短冊・手綱」など、いささか<厄介な者ども>の手なずけ方を解説しています。
 
 
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続きましては、最近目にした資料から。

1.『御殿女中』(三田村鳶魚著:昭和5年、春陽堂)口絵の「かもじの包」、国会図書館デジタルコレクションより。
 
 
配色の様子が判らないのが残念ですけれど・・・。

黒く描かれてはおりますが、元来は金色(あるいは銀?)に輝くものでありながら、描画の段階で、用いられていた何らかの金属箔が既に酸化していたためかと思わなくもありません(現在流通している青蛙房版では、白抜きの図版であったように思いますが・・・無論?、定かではありません.中公文庫版は未見.なお、写真の横には「小笠原伯爵家蔵品により柳営の旧容を考ふる料とす」とあります)。
 
かく申した直後ですけれど、著者は同書にて「大奥研究に些少の想像も許されない」と、こうした暗愚の軽率を厳しく戒めています。
もっとも、鳶魚翁がこのように諭すのは「かもじ」に関わる文脈においてではなく・・・、前後を含め、当該箇所を引用いたしましょう(122頁)。
「諸侯へ入輿された御守殿様は、尻拭き同伴で便所へ往くのだ、
それが姫君様だけに、我々共には異様にも感ぜられる、・・・
大奥の慣習ではあらうが、貴人の心理状態の異状なことは斯うした処から明白に教へられる、
大奥研究に些少の想像も許されないのは、此の類の人間離れのした事が多いからでもある」
 
多言はつつしみませう (^_^;)
 
 
2.『医道日用綱目』より「包紙法式」、同じく国会図書館デジタルコレクションより、延享4年(1747年:初出は『医道日用重宝記』、1709~10年頃か?)の刊本から、薬の包み方の図。
 
 
図中、書き添えられているのは次の通り。
「薬箱の蓋を仰け(あをのけ)其の上に小包紙を左
より右の方へかさねならべておさへに
圧尺(けさん)にても合(がう)にても置くべし
 
常の包やう 道三家是をもちゆ  / /  丸薬散薬は此のごとく包べし
半井流   //  五雲子流」
 
「けさん」は通常「卦算」と書くようです。
『広辞苑』には「①(易の算木に似るところから)文鎮。けさん」とあり、また、明治42年発行の『類語の辞典』(講談社学術文庫の復刊)には「けさん:卦算:物を圧へ(引用者註:おさえ)置くもの、金、石などにて作る。文鎮、書鎮、圧尺(引用者註:”あっしゃく”とルビ)」とあります。
 
この図に出会ったのは『新編 江戸見世屋図聚』(三谷一馬:中央公論新社)に掲載されていた図版でありましたが、引用元の記載なきまま新たに書き改められたものでありましたゆえ(旧版の『江戸見世屋図聚』はより大部の書物であるとの由、こちらには明記されていたかもしれません)、出典にたどり着くまで時間を要しました。もっとも、添え書きの文言に多少の異同がありますので、別の刊本に基づくものであるかもしれませんが・・・。
 
それはさておき、「薬の包み、半井流」に反応してくださった御仁は、いかほどいらっしゃいますでしょうか。

当方がかつてまとめた折形の歴史に関する記事におきまして、『古事類苑 方技部十四』薬方に引用されていた『医者談義』(1759年)の、以下の文章を掲げておりました。

「包形も、当流他流ともに昔は皆小包は香包にせしを、片臂驢菴の片手にてつヽまれしより、
半井流は山形包なり、上包を剣形に包に、右は短く、左は長くするは、出の字の形也、
発散催生一切病を去出すに用ゆ、左短く、右長くするは、入の字の形なり、反胃、膈噎、
不食、虫積等の病を治するに用ゆ、」

その折りには原文を見ることができず、国会図書館サーチ・書誌詳細には、「著者:糞得斎、件名(キーワード):滑稽本」とあったため、「さすがの古事類苑、抜かりはありません.なお、書誌詳細は自己責任でお調べ願います」と記しておいたのですが、最近になって京都大学貴重資料デジタルアーカイブにてこの書が公開されていることを知り、ざっと眺めてみたましたところ、当時の医療事情について、かなり批判的な内容のものであるように見受けました(刊本ではありながら、当方、崩し字を斜め読みし得る技能を持ち合わせておりませんので誤解している可能性は充分にありますけれど・・・)。
 
ここに記されているのは、病のもとを病人の体内から駆逐するための薬剤を包む際には「出」を暗示する包み方を、栄養補給など、何某かのものを摂取する作用をもつものを包むには「入」を表象する包み方をすべし、という内容であるらしく、<滑稽本・黄表紙 = 世上批判>との見立てより、当初は、「出」と「入」とを包み方で仕分けている様子を、江戸中期にあって、早くも開明の眼を以て揶揄しているものと密かに期待していたのですが、さすがにそこまで糾弾するには至っていなかった模様です(文中、「催生」は陣痛促進、「膈噎」は概ね、食道癌などによる食道狭窄症、「虫積」は寄生虫に起因する病を指すようです。虫積の治療薬は”虫下し”ではなかったものと・・・)。

ここでは、薬の内包みが、かつては「香包」のごときものであったと記されていること、また、上包み(外包み)が、出・入を象徴すべく区分されていたことに目を留めておきましょう。
 
「折形は外観一瞥にて中身を知らしむるに便あり!!!」
ハイハイ、しかと承りました。
 
もっとも、「左短く、右長くするは、入の字の形」というのは判りますが、一方の「右は短く、左は長くするは、出の字の形」は ??? ですけれど・・・。
また、ここに引用した『医道日用綱目』の絵図と、『医者談義』の「小包は香包にせしを、片臂驢菴の片手にてつヽまれしより、半井流は山形包なり」との整合性にも、いささか腑に落ちづらいところが残ります(『医道日用綱目』には「小包紙」とあり、これは内包を意味するものだと思うのですが、半井流のそれは長方形に描かれています)。
 
なお、「驢菴」とは、コトバンクなどによれば、幕府の侍医・典薬頭を勤めた半井光成(通称・瑞策)を指すようです。「肩臂、片手」とありますので、何らかの事情により片手を失っていた御仁なのかもしれません。
 
なお、薬の包みを調べているうちに、鎌倉中期にまとめられたとされる説話集『十訓抄』、第一編にて次のごとき文章に出会いました(『校正十訓抄』:国会図書館デジタルコレクション)。
 
「武正といふ舎人の、かなしうしける子の煩ふ事ありて、麝香を求めけるに、・・・
紫の七重うすやうに、薬づつみにおしつつみて、なげいだされたりし。」

同書に関連しては、大正12年(初版:明治35年)に出版されている『十訓抄詳解・上』(石橋尚宝、明治書院:国会図書館デジタルコレクション)に、次のような注釈が記されています。
 
「麝香 麝といふ獣より出づる香の名。常に薬用とし、又香料として珍重す。・・・」、
 
「薬づつみ 和訓栞に『薬包は、古くより其法あり。女御、更衣の入内の初めに、うすやう一重に、歌一首をかきて、又重ねたる薄やうにて、四方に押し折りて、遣はさるるを、薬包といふ』とあり。」

また、昭和6年刊、『詳註新撰 十訓抄』(田中健三:東林書房、国会図書館デジタルコレクション)には、
 
「薬づつみ-女御・更衣入内の初め薄様一重に歌一首をかきて又重ねたる薄様にて四方に押し折つて遣はされる、その包み方。」
 
との語註(後者の参考文献には前者が示されてはおりますが、注釈書なるものも、結構安易な編集が?)。

なお、細かいハナシでありますが、『倭訓栞』そのもの(明治31年版:国会図書館デジタルコレクション)を見ますれば、
 
「くすりづつみ 薬を包むには古へより法あり〇女御更衣の入内のはじめにはうすやう一かさねに歌一首を書きて又かさねたる薄やうにて四方に押折つてかはさるるをも薬包といふとぞ」
 
とあります。
「かはす=交わす」と書かれているほか、文末が「とぞ」と曖昧に閉じられていることにも留意しておいた方がよいかもしれません(ここで見た明治の活版印刷本以前の資料が如何であったかは存じません)。
 
『倭訓栞』は1777年から百余年のかけて出版された国語辞典。今日の感覚においてすら、かなりに大規模な辞書のようです。
著者の念頭にあった読者層は? こうした辞書を必要とし、手にすることができたのはどのような社会階層の人達であったのでしょうか?

それはともかく、今ここでは、香料であり、薬でもあった麝香を、「薬の包み」に包んでいた、いわば当然のことを云々しようというのではありません。
鎌倉中期に書かれたという『十訓抄』において「薬づつみ」は、薄様7枚重ねと記されています。当方、ここに示されているのは、幾分か複雑さの程度は穏やかなものであったとしても、香の包みとして伝承されてきた多くの折形の如く、丁寧に折り襞を重ねたものであったろうと想像するのですが、明治の後期に「本邦に於ける教訓書の嚆矢」(『詳解』緒言)として、あるいは、昭和の初期に「高等学校・専門学校・師範学校専攻科・高等女学校高等科等の教科書又は参考書として」(『詳註新撰』はしがき)編まれた書の語註において、「入内の折りの歌は、薬包みに包まれていた」と記されているのを目にした人たちは、果たしてどのような姿カタチのものを思い浮かべたことであろうかと妄想を巡らせてみる、これまた、「些少の想像も許されない」領域を侵犯する下劣な行いなのかもしれません。
 
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以下、報告のみにて。
 
<人文学オープンデータ共同利用センター>が提供している「日本古典籍データセット」に、下記の資料・記述がありました。

・ 100249319  『当流節用料理大全』(正徳4年:1714年) 16コマ
「御箸   紙に包
 脇に楊枝 紙に包」との記載。

これは、先に『古事類苑』を引きつつ「原本未見」としていた資料で、<私の知る限り>、箸を紙で包んだことを示す最初のもの。
 
・ 100249833  『諸式飾附伝書』(天和2年:1682年)
「水嶋卜也  享和3年筆写」とする積物(献上台に載せた進物の絵図)を描いた一巻。
 
・ 100249861  『故事礼式天地之書』  16コマ (昭和4年:1929年)
「木足(原本ルビ:きそく)は物の留不見を其余りに飾りを用由
して始る是は不足の所木を足に心なり亀
の足と云事亀はきと読む亀元丸くして不
来して不足せり四つ足付てつり合ひ(?)し
故に不足所へ亀足を持故に亀足(原本ルビ:かめあし)と書て亀
足(原本ルビ:きそく)読むと云り亀は元祝の者成故に用
るなるべし四条流にはすべて(?)亀足と
書けり木足と書由なかるべし」との記述。

(私には)いささか意の通じないところも残っておりますが、おおよそ、
 
木足は、何がしかの食品を刺し留めた(串状の)ものが見えにくい場合、その串の余分(刺し込んだ残余の、手に取るところ)に飾りを付したことに始まる。足らざる所に木(=串)を刺し加えたので、「木の足」と言うのである。
「亀の足」とも言うが、これは同じく「き」と発音するためである。
亀はそもそも丸いものであり、(不来して、は?)足が無いように見える。そこで、4本の足を付けることによって釣り合いが取れる。それゆえ、足らざるところあらば、亀に足を取り付ける如くすればよい。だから、「亀の足」と書いて「亀足=きそく」と読むのである。
亀は、もとより祝い事の象徴として位置付けられてきたものでもあるので採用されたのだろう。包丁家である四条流の伝書には、すべて「亀足」と書かれている。木足と書く理由は無いようだ。

となるでしょうか。

何はともあれ(?)、「亀足(きそく)」を「木足」と説き、書く例があったようです。
なお、この書の末尾には「右の一巻は生間出雲守殿直伝の法式にて佐久間旨寅より伝来の書なり・・・」との記載があります。
生間出雲守殿と包丁家・生間流(いかまりゅう)との関連を存じておりませんが、『生間流式法秘書』に「<きそく>は<気の束>なることを知らんのか、愚か者どもよ」との旨、記されていたことにつきましては、すでにどこかで言及いたしました。
まぁ、どーでもええようなハナシですけれど・・・。
 
このほか、国会図書館デジタルコレクションの『伊勢家礼式雑書17巻』の第9巻にては、亀足の類のいくつかの絵を、また、第17巻にては、末尾に「水嶋卜也」の名を記す積物の図を見ることができます。ここには薦(こも)に巻いた「首包」ってのも掲載されてまして・・・。

なお、積物に関しましては、第5巻に収められている『礼格伝授』また、第8巻の『萬台に積様之事』の解読がほぼ最終段階に至っておりますので、幾箇所か、力及ばずの処が残るものとは思いますが、いづれそのうちに・・・。