先日、さるお方様よりお尋ねを賜り、これまでに書き散らしてきた記事をひっくり返す必要に迫られたのだが、その際、Ameba さんの仕様変更(2024年4月15日)により、無料サーヴィス下で開設している当方のウェブ・サイトも、その主要部分(? 「折形の折り方」及び各種雛形集の型紙を一覧し得るべく整理した「折形尽倶誌」の頁)が閲覧できぬようになっていることに遅まきながら気付いた次第である。近年、収益が見込めぬ等の理由により、ブログのサーヴィスを取りやめる業者さんも相次いでいるものと承る。事情が判らぬワケではないが、早晩、貧乏人はネット社会からも閉め出されてしまうのだろう。
それはさておき、この度は、折りあらばと思いつつも(おそらく)今まで引用/言及する機会のなかった書、『日本教会史・上』(ジョアン・ロドリーゲス著、岩波書店)をご紹介申し上げると共に、これまで少しく気に掛かっておりながら放置していたことどもについても触れておこうと思う。
この本、『教会史』と題されてはいるが、上巻には16世紀末~17世紀初頭頃の「上層社会の風俗・習慣や、礼法・文化などについては、繁雑と思われるほど詳細に書きとめ」られている(西山松之助による同書付属月報より.ちなみに、出版社の内容案内には「通訳として秀吉・家康と耶蘇会との間の交渉に当たり、長崎のポルトガル貿易にも与った〈通事伴天連〉ロドリーゲスの記録。上巻はアジアや中国の概説を始め、日本の地理、衣食住の様式と礼法、特に茶の湯のことなど。」とある)。注解者には風俗史の泰斗・江馬務も名を連ねており、文化史、とりわけ茶道の歴史に関する文献などではしばしば参照/引用されてきた重要資料と位置づけられているようであるが、贈答慣行の文脈で触れられているのを目にしたのは、管見の限りにおいては『なぜ日本人は「のし袋」を使うのか?』(齋藤和胡著、淡交社)くらいのもの・・・であった・・・ろうか。
少しばかり、抜き出してみよう。
*****(引用はじめ)
日本人もシナ人と同様に、進物を贈る方法とうわべの飾りを甚だ重視して、そのことにいろいろな敬意の表わし方があるが、その方法は主として三つのものから成っている。進物を包んで贈る飾りと、進物をのせて差し出す台または縁高盆と、最後に進物を座敷の中に置く場所とがそれである。・・・彼らの習慣と礼法についてすでに述べたように、彼らはこのすべてのことに大いに丹精をこめ、虚飾を重んじる。
贈る物が、金、銀、沈香、伽羅木、各種の香料、絹の反物、扇、帯、その他種々多数の物のように貴重な品であれば、それらを一定の流儀によりきれいに畳んだ一定の種類の紙に包むのが一般の習慣である。・・・この紙の畳み方にはさまざまの作法と、きわめて優美な形式が用いられる。贈る品物に適した畳み方をするので、このことのための規則と技術とを取り扱った彼らの礼法の書物によって、それを学ぶ。というのは、反物を飾る紙はある作法で畳み、香料を贈るのにはまた特別な畳み方をするというように、その他の品も同様にそれぞれちがうからである。品物を包んで行くこれらの紙の上には、それぞれ、模様入りの紙できれいに引き結びにした紐(注:今いう水引のことで・・・)をかける。(455~456頁)
贈物を持参する召使は、口上を聞く前述の玄関番に目録と贈物とを手渡す。その玄関番は家の主人に目録だけを見せ、・・・客人が座敷に入るまでに、前もって、座敷の中か、縁側にある入口か、その品物相当の場所に贈物が置かれる。それがすんでから、後に述べるように客人を室内に招じ入れて、主人が応対する。そして家の主人は贈物の傍を通りすぎる時に、実際に贈物がそこにあっても、それには視線をやらないで、見ないかのようにしなければならない。・・・なぜならば、それを持参した客人よりも、贈物の方を気にしていると思われるからである。(460頁)
*****(引用ここまで)
また、本文ではないが、400頁、「小笠原殿」についての注記には「天文頃には・・・書礼、受取渡し、饗応、婚礼法式など、室内の礼法を指導して、伊勢流を圧迫した。これは鉄砲の進出によって弓馬の礼が顧みられないようになった結果、伊勢の領域に進出したのに起因している。しかし永禄四(一五六一)年武田信玄と戦って敗れたため、小笠原の流派はその門下の小池氏、水島氏の手に移った。この亜流は、伝統の本流に自流を加え、あるいは改竄して、小笠原の名で流布することとなったのである。」と見える。
この件に関わることだが、愚生、かつて折形の来し方を巡り
■ 江戸後期:賑やかな町人たちの中へ
町人たちが次第に経済力をつけ世に台頭し始めた元禄の頃から、下級武士(浪人)たちが口に糊するため、「小笠原流」の看板を掲げて町人の婦女子らを対象に、折形のさまざまを直接に指南することが流行したようです。
されど小笠原流とは言いながら、口伝・秘伝とされてきた “お上” の流儀をそのままに教え伝えることは憚られたようで、少し形を変えたものに仕立てたり、武家の間ではやりとりされることのなかった品物の包を新たに作り出したりしたのでしょう(むしろ、新たに考案された面白い形に適宜な名称をあてがったという方が実情に近いかもしれません)。いつの頃にか、折形の種類は数百とも千を超えるとも言われるほどにまでふくれ上がりました。
との記述をしていたことがある(これは当方のウェブ・サイトに記したところであるが、他にも類似の記述があるやもしれぬ)。
ここに記した「口伝・秘伝とされてきた“お上” の流儀をそのままに教え伝えることは憚られたようで」という箇所は多分に憶測に基づく通説(めいたもの?)に寄りかかったものであり、何ら根拠を有するものとは言えない(事柄の性質上、出典を求めることも無理であろうけれど)。当初からいささか疑念を抱きつつの表記であり、気に掛かっていたのであるが、この機に一旦、この文言を削除しておこうと思う。ここで『教会史』の注記を借りるなら、「されど小笠原流とは言いながら、その跡を襲った水島氏らの流儀に則った手を加えたり、武家の間では・・・」といった表現が、より適切な物言いとなろうか(もっともこの訳本が出版された1967年以降、伊勢家と小笠原家との確執について歴史学上の新たな知見が得られたか否かについて、小生、知るところなきことを告白しておかねばなるまい.なお、包みの姿の変容については、荒木真喜雄『日本の折形集』24頁、また当方雛形集に示した『女子教科』の「短冊・手綱・硯・手拭」や『包結記』の解説記事における「色紙」の項をも参照されたし)。
ついでながら、459頁、「目録の用紙は・・・一定の形に畳んである。」の注記には「厚手上質の楮紙である檀紙(横じわのあるもの)」と明記されていることにも触れておこう(以前、どこかに記しおいたものと記憶するが、愚生、東国の事情に疎いことを重ねて申し添えておく)。このほかにも上層社会に属する人々の社交に纏わるさまざまなことどもについて、甚だ興味深い記述がなされている。同書については、早晩、国会図書館の送信サービスの対象になろうものと期待をしていたのだが、残念ながら(?)岩波書店よりオンデマンドブックスとして販売されている。ご関心のある向きはどうぞ図書館などでお手に取られむことを。
さて、上に見た通り、同書では紙の「畳み方」という言葉(訳語)が用いられている。ここでふと思い及んだのは、『包結記』関連の当方記事にて触れた「美しくたたみたる」との文言。記事には次のように記した。
国会図書館デジタルコレクションで確認できる『伊勢家礼式雑書・第六巻』の『武雑記』・扇の包みについての条には(14コマ:絵図は描かれていない)、「うつくしくだみたるうすやう(美しく染められた薄様)」と書かれているようだ。また、同じく『伊勢家礼式雑書・第二巻』の『包記』筆写本にも「堂 ゙ミたるうすやう」と見える(169コマ、「堂」は「た」の変体仮名)。他の写本も併せ見る必要があろうけれど、『包結記』の版本は「たたみたる」となっているが、もとは「彩みたる(だみたる)=染められた」であった可能性も否定できまい(「それがどないしたんや」の声に清き一票を捧げつつ、古人も崩し字には手こずっていたのかと思えばチト安堵・・・)。
『包結記』版本には「色々にうつくしくたゝみたるうすやうをかさねてそれにて包む」とあるが、ここに書かれている通り、素直に(?)読むなら「<美しく畳んだ薄様>を重ね、その重ねたもので包む」ということになろう。従って、この文言に従うなら「<重ねる前に、すでに畳まれている複数の薄様>を重ね合わせ、その<前もって然るべき形状に仕立てられた複数枚の薄様>を重ね合わせたものにて扇を包む」こととなってしまう。しかも、<前もって畳まれる>「うすやう」は、「色々に」畳まれているのであるから、いかに「うつくしくたゝ」まれていようとも、それらを「かさね」合わせるなら、どうにも珍妙な姿を呈するのではなかろうか。
一方、関連記事に引用した『武雑記補註』の版本に今一度目を遣ると「うつくしくたゝみたるうすやうのかさねたるとは、うすやうの紙を色々に染たるに、切はく、でい絵、などの書たるを七重ばかりもかさねて扇十本をつつむ也」と見える(引用文中の読点は縦書き文字の右下に添えられた小さな「●」印の打たれているところ)。念のため申し添えておくが、これは『補注』“版本”の文章であり、上記引用文中、最初の<うつくしくたたみたるうすやうのかさねたる>の文言が『武雑記』の本文である(『包結記』とは異なり、「色々に」の語は見られない)。貞丈による補註は「・・・とは、うすやうの紙を」以下となるが、「色々に染たるに」と続くゆえ、ここでは<彩(だ)みたるうすやう>を重ねて包むことが示されているものと解されよう。
ところで、同じく関連記事に引いた『武雑記』の筆写本は、既に見たとおり「うつくしくだみたる」と書かれているようだが、今般、新たに確認した国会図書館デジタルコレクション『史籍集覧』第34冊所収の活字版では「うつくしくたゝみたる、うすやうの重ねたるにてつゝみ」と記されている(現時点にて『史籍集覧』の底本は確認できていない.また『武雑記』の版本も未見)。
ご承知の通り、往時の文章には句読点が施されていない。愚生は「うつくしくたゝみたる」は、続く「うすやう」にかかるものと解したのだが、『史籍集覧』の表記に従うなら、この「うつくしくたゝみたる」は、「(うすやうの)重ねたる」を修飾する句と見ることを可能にする・・・のかもしれぬ(小生の感覚にては、なお不自然さが残るように思うけれど・・・)。
さて、この箇所を如何に読むべきか、ご判断は諸賢に委ねるが、『包結記』、『武雑記』双方の筆写本、また『補註』の記事を見併すれば、版本に「たゝみたる」とあるのは誤記/誤読であり、「だみたる」を採るべき、すなわち、「<美しく彩(だ)みたる薄様>を重ね合わせた後に成形し、包む」と受け取るのが妥当であろうと思う(ん?『包結記』の「色々に」の後ろにも句点を置いてみたらどない? ってか・・・)。
なお、愚生の誤読で無い限り、『補註』に「でい絵」とある。「でい絵」=泥絵、であろう。通例、「でい絵」と言えば、「①泥絵具で描いた絵。江戸末期~明治初期、芝居の看板絵や絵馬のほか、眼鏡絵など洋風の画に用いた」(『広辞苑』:「泥絵(どろえ)」)ものを想起しようけれど、『広辞苑』語釈には引き続き「②⇒でいえ」とあり、その「でいえ」の項には「①金泥・銀泥でかいた絵。→金銀泥絵」と記されている。さらに、「金銀泥絵(きんぎんでいえ)」の項には「金泥・銀泥で描いた絵。古代、木工品の装飾や仏画などに用いられ、近世には俵屋宗達が書をかく料紙の下絵に用いた」などと見える。
岩波文庫版『嬉遊笑覧』には、「泥絵は、金泥を刷毛にて隈どり、そのうへに、草花蝶鳥などを金泥・銀泥などしてかき、又、種々の物をもかく也。『新勅撰集』賀歌、「泥絵の屏風、石清水臨時祭、・・・」」(第二巻)との記述があるが、索引(第五巻)では「都廬(とろ)」の次、すなわち「どろえ」と発音すべき語として掲げられていることを付記しておこう。
近藤瓶城 [原編]『史籍集覧』第34冊,臨川書店,昭和42. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3450097






























