こんにちは。粗方海子です。

 

 

今日は昨日のLGBTに関する話題についての続きを書きます。

 

 

 

 

 

前回は、多様な性の存在が認められる社会になってきたことで、特別な(あえて「特別」という言葉を使います)性傾向を持つ人々へのとらえ方が変わってきたことを話しました。

 

 

 

 

 

これまでは、異質な他者に対する嫌悪感や不快感を持っていた人々が、その存在を受け容れ、彼らを傷つけることが少なくなった。

 

彼らは迫害されるべき存在ではないことを理解したからです。

 

 

 

 

その反対側で、自分の身近な人々が特別な性的傾向を持つことが、怖くなってしまう人が出てきました。

 

 

この子が同性を愛してしまったらどうしよう、それでこの子は幸せになれるの?

 

こんな母親や、

 

妹が同性愛者で、それで周りの友達にいじめられたりしたらどうしよう

 

こんな兄です。

 

 

 

 

相手の幸せを願うが故の心配の気持ち。

 

この心配からくる、「特別と呼ばれる性的傾向」に対するなんとなく嫌な気持ちというものが今、社会に新しく生まれてきているような気がするのです。

 

 

 

 

これまでは、「まさか私の子が」と思えていたのが、現在の社会では思えないということです。そこまで多様な性の在り方という概念が社会に広まった。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、頭で理解をするということと、実際にそれに触れて、その実態が分かる、ということは全く違います。

 

天と地ほどの差がある。

 

 

 

 

頭では、多様な性の存在を理解し、受け入れているつもりでも、実際にそんな友人に出会うとやはり怖気づいてしまうものです。

 

 

私自身もそうでした。

 

 

今の社会は、ここにギャップがあることを認識していない。

 

 

 

 

多様な性を報道し、互いを尊重しようと言う。あ、そういうのが今の社会のトレンドなんだ、こういうことを理解していないとダメなんだと、ひとびとは思う。

 

 

しかし、実際は、そういう人に接して、話を聞いて初めて少しその本質がみえるわけです。

 

ニュースや教科書には書いていないことが沢山ある。

 

 

 

 

それなのに、報道は更に多様な性に対する理解が広まってきたという。

これを、例えば同性愛者が信じてしまうとどうでしょう。現実とのギャップに驚くことになります。

 

 

結局自分たちを異質者として見つめる人々がそこにいるわけです。

 

 

 

 

当たり前です。頭でわかったつもりの人々は、実際に彼らに出会うと、あたふたしてしまう。

 

 

話が途中からずれてしまいましたが、これが、最近私が考えていることです。

 

 

・多様な性の在り方がより身近な概念になったことで恐れを抱く人々

・多様な性の在り方を受け容れたつもりになっている人々

 

 

こういった問題が現代社会にうまれつつあるのではないでしょうか。

 

 

これも、社会が変わっていくうえで、乗り越えざるを得ないステップなのでしょうか。

 

 

とにかく私は、人が人を傷つけない社会を望みます。

 

 

また明日、更新します。