ロシアを知る③ペテルブルグ | あらかんスクラップブック

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60代の哀歓こもごも

 

イヴァン雷帝の息子、イヴァン4世の死後、ロシアでは内乱が続き、

1670年に、貴族間の選出で、ミハイル=ロマノフが皇帝につき、これから250年間、ロマノフ王朝の時代。

ロシアの近代は、1682年に即位したピョートル大帝の時代に始まる。

ロシアは北の国である。常に西方に栄えた中心があり、それらの国に滅ぼされるのではないかという恐れとコンプレックスがあった。そのために西欧に追いつけ追い越せで、ピョートル大帝の治世のほとんどは戦争に明け暮れた。とくにスウェーデンとの大北方戦争は22年の長きにわたった。

その結果、バルト海沿岸に領土を獲得し、ピョートルはネヴァ川の河口に新首都ペテルブルグ(サンクトペテルブルク)を建設する。

建設地は海抜1~2mの沼地と密林地帯で、国内外から、5千人の職人、4万人の農奴が徴用され、不健康な土地のため伝染病や食糧不足で多くの犠牲者がでた。10年間の建設中も毎年洪水に見舞われた。投入された大量の石の間に多くの骨が埋まり、骨の上の都市といわれる無謀な計画は、ピョートル大帝がこれまで700年のロシアの伝統と決別するという強い決意の表れであった。3万人もの貴族や商人、職人を移住させ、10年後には人口は7万人に膨れ上がる。その都市は、ロシアの民族的な伝説や聖人もなく、沼地に建てられた家は壁がひび割れ傾きがひどく、修理や立て直しが必要であったという。 日本でも辺野古で同じような軟弱地盤での国策建設を実行中。

1712年、ペテルブルグが首都デビューしたが、モスクワのクレムリンなど政務的な機能はずっと維持したまま、ペテルブルグ(ピョートルの都)は、ロシア革命後レニングラード(レーニンの都)となり、ソ連時代はモスクワが単独の首都となる。

 

ピョートルは海軍を創設し、内政では、貴族に対しては爵位制度をつくり、官僚制度も整え、徴兵制や人頭税。 すべての権力が皇帝にあるという絶対王政。ロシア正教会まで国家の管理下に置いた。

ピョートルは、ロシア的なものはすべて退け、貴族のひげから服装、マナーまで、西欧風にするように命令を出し、国王に逆らえない貴族は、すぐに改めたという。日本の断髪令みたいだね。

ピョートルの働きで、ロシアは18世紀以降、ヨーロッパの大国になるが、これはロシアの近代化にとって必要悪だったのか?

ロシアの伝統を不自然にねじ曲げたという反発がおき、「スラブ派」という今日までつづく反発勢力が存在する。ピョートルに対して肯定的なのは「西欧派」と呼ばれる。

 

ロシアは女帝が多いが、18世紀は4人もいた。

ペテルブルグは「北のヴェネツィア」と呼ばれ、ロシアは栄えた。有名なのはエカチェリーナ2世

どうよ。この貫禄。ドイツ人でルター派の洗礼を受けたが、ピョートル3世と結婚しロシアにきてから改宗した。夫の死後、1762年に即位し、在位40年弱。基本的にはピョートル1世の専制主義政策を受け継ぎ、オスマン帝国と開戦して、黒海北岸やクリミア半島を獲得した。ポーランドを滅ぼし、ポーランドの東半分をゲットし、ウクライナとリトアニアがロシア領になった。

文化面でも、啓蒙主義の観点からポリショイ劇場やエルミタージュ美術館を創設し、一般市民にも公開した

子どもは3人生まれたが、成長したのは1人だけ。愛人は公認だけで12人もいたという。ゴシップ的な面白さから、映画やTVで脚色され 取り上げられることも多い。

 

ロシアの農奴制は、エカチェリーナ2世の下で整備され、地主貴族の農民に対する支配は強化された。

ロシアの貴族などエリート層は、西欧との文化的つながりこそが生きがいで、その特権的地位は、大多数を占めるナロード(民衆。ほとんど農民)によって支えられていた。

農民は自分たちのことを「チョームヌィ(暗い)」と称していた。かつては自由の民であったのに、国の発展で「農奴」という奴隷にされてしまった。モンゴルという異教徒に支配されていた時代でも、もっと自由であった。

コサック(ロシア語でカザーク)は、民族的には寄せ集め。ロシアの農民が自由を求めて逃亡し、狩猟や漁業などをして生計を立て自治協同体をつくっていたが、17世紀にはロシアに従い農耕に転じた。

政府は、コサックを国境守備はシベリア開拓に利用し、免税などの特権を与えたが、元は自由の民。

コサックによる農民反乱がおきる。有名なのは、1670年「ステンカラージンの反乱」と、100年後の1773年「ブカチョフの乱」。

前者は、「ステンカ・ラージン」という民謡で有名だね。

 

 

後者のブガチョフの乱は、エカチェリーナの時代。大規模なもので、政府は鎮圧に1年かかった。

 ブガチョフ コサック出身

トルストイの「コサック」という小説は、トルストイ自身がモデルとなっている。モスクワという都会から田舎のコサック村に帰って来た青年士官が、自然や素朴な生活のなかで、自己犠牲や他人のために生きる幸福を実感する。

ロシア的なもの。 広大な自然と風土のなかでの、つつましく飾らない生活。 そこから少しずつ近代化という道もあったと思われるが、ピョートルはロシア的なものを意味のないものとして手あたり次第に追い払い、西欧文化の上に皇帝の絶対権力で、強大なロシア帝国をつくりあげる。

その改革は、日本の明治維新と似ている。富国強兵で、日清戦争から日露戦争という道をたどった。

革命は民衆からではなく、上から強権的に行われたのは、次のロシア革命も同じである。ソビエト社会主義は、スターリンという独裁者を生み出した。 マルクスが予想した先進工業国ではなく、資本主義が遅れたロシアで実験され、入れものだけの形式的なものに終り、主役だったはずの農民は、伝統的な農村を全部コルホーズやソフホーズにしてしまった。集団化に抵抗する農民は、富農階級であると階級的な弾圧を受け、1千万人もの農民が強制収容所に送られてシベリアなどで強制労働させられた。

特権階級の共産党幹部だけがぬくぬくとしている間に、ロシアはまたしても、世界の科学技術革命に立ち遅れ、産業は育たず、ソ連は崩壊した。

しかし、ロシアはそれでも市民が中心となる政治には転換せず、今でも共産党支配で、KGB(秘密警察)や軍や軍産複合体がロシアを支配している。プーチンの執務室にピョートル大帝の肖像画が飾ってあるという。共産党で育ったエリートのプーチンには、自然と風土が育んできたロシアなるもの。多民族とその意思。それらを暴力的に従わせ、上から「これがロシアだ」というのは、ちがうだろうということがわからない。

 

現在のウクライナの爆撃にやられて廃墟になった街は目をそむけたくなるが、かつて300年以上も前、ピョートル大帝のピカピカのペテルブルグをみた詩人のプーシキンは、この都市を「廃墟」だといった。プーシキンにとって廃墟は人々が存在していない空中都市みたいな町のこと。

ロシアの詩人、作家、画家などのアーティストは、権力者の上からの改革に対して、いつの時代も「ロシアとは何か」を表現してきた。

その文化の豊かさがある限り、ロシアは立ち上がると思う。

 

日本では、ウクライナ問題でロシアヒステリーと言われるほど、ロシアに対する攻撃ばかりだが、私はロシアを心配している。

次は、ロシアの近代の芸術や文化をざっと紹介したい。

 

文化や芸術や宗教は、世界共通の財産で、国や民族が違っても、人を結びつける。そして、大事なのはどんな国でも民族でも、周辺の国と混じり合ってるということだ。 排除や追放、差別。まして戦争なんて必要だろうか。敵なんて思わないで、分かり合えない相手とは何十年でも、何百年でも対話を重ねればいい。

プーチンさんよ。自分が生きているうちにどうにかしようと思うな。

「オレが黒い眼のうちは…」というバカがいるが、黒い眼はあっという間に閉じられて、腐っていく。

 

かのピョートル大帝は、川の砂洲に乗り上げた船を助けるために真冬の海に飛び込み、それが原因で亡くなった。

奴隷を助けるために、皇帝が身を投げ出す。 人間は自分でもわからない行動をとるものだね。 

歴史をたどれば、ヒステリーに巻き込まれることはない。 

今日は雨なので、夏野菜の計画を立てよう。タネをまく時期だ。