芸術の自由 | あらかんスクラップブック

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60代の哀歓こもごも

日本歌人クラブ(3000名)と現代歌人協会(770名)が、日本学術会議の任命拒否問題に対して、抗議声明を出した。

その中に、次のような一文がある。

「…私たち、短歌という日本古来の言語芸術に関わる表現者は、こうした言葉を看過できません。物事の道理に立った言葉を尊重する政治を、私たちは切実にもとめてきました。…」

 

日本学術会議同様、戦前、戦後に発足した日本ペンクラブやその他文芸に関する団体も、抗議している。

自民党は、「国民の批判は拡がっていない」と、このまま「逃げ切る」方向だが、学問の世界も、芸術に関する人たちも、「しかたない」ではなく、あがない続けると思う。

 

戦争は、私的な領域に公的権力が侵入してくる。 表現者は内面の自由をさらけだすことができない。そんな表現活動は自死みたいなものだ。

1930年代の日本もこんな感じだったかもしれないね。 大正デモクラシーから、大不況。 そして、日本は経済的にも政治的にもどんづまりになって、「戦争のできる国」へと変貌していった。 そして敗戦。

 

葛原妙子は、こんな時代を経た後、戦後になって、表現者として立つ決心をするが、短歌は、伝統的な写実から、五七五七七を解体してしまう前衛短歌が誕生する。

もう、日常を写実的に描写する良妻賢母型の短歌でなく、日常にモチーフをおきながら、抽象的、哲学的なのだ。

こんど、かなの書作をする短歌を選んだ。

また、勝手な妄想気味の鑑賞をしてみました。

 

雁を食せばかりかりと雁のこゑ 毀れる雁はきこえるものを

かりかりという雁の声は、食べられてしまう雁の悲嘆か、鉄砲で撃たれて落ちていく雁の声か。 毀れるのはその肉か、それとも、群れから落ちていくときの声か? それとも、病んで渡りについていけなくなったのか? 幻視は渡る雁の姿だ。

 

いまわれはうつくしきところをよぎるべし 星の斑のある鰈を下げて

鰈には、まるで星のような斑点がある。 夕食のために鰈を買って帰る。 うつくしいというのは、夕餉の風景ではない。 歌を作ることこそ、美と向き合ううつくしいところ。 家事をする手に、浮かぶ短歌の世界。

 

郭公の啼く聲きこえ 晩年のヘンデル盲目バッハ盲目

郭公は、「カッコー」と鳴いて、一拍おいてまた「カッコー」。

ヘンデルやバッハの音楽の旋律は、バロックの典雅なもの。 盲目になった二人の作曲家は、内面では郭公の声を聴く。 静かな中で心穏やかに鳥の声を聴く。気持ちは大作曲家ではない。

 

他界より眺めてあらばしづかなる 的となるべきゆふぐれの水

具体的な事物はでてこない。 これは、本人がエッセイで、「フライパンを近くの窓ガラスに透かしたら、フライパンの底をとおして遠い水がみえた」と書いている。

フライパンに穴があいてたと言ってない。 これは幻視。 

他界から眺めると、遠くにはまだ暮れていない水たまりがみえる。 他界とは歌よみが住んでいる場所。 

 

葛原妙子は、1984年、療養のため、短歌の活動を中止し、翌年多発性脳梗塞で亡くなる。 死の5か月前に受洗し、告別式は教会で行われた。

妙子は、「幻視の女王」以外にも、「魔女」、「黒聖母」「ミュータント(突然変異体)」と呼ばれた。 前衛短歌の人たちからも、理解されなかったのは、ひとつの勲章。

こんどは、キリスト教との関わりから読み解きたい。

 

コロナのあとは、学問も芸術も花開くだろう。 その自由が残っていることを切に願う。 邪悪な苦労人を早く、追い落としたい。