書人仲間の友人から電話がきた。 コロナでこの春に予定していたグループ展は中止になり、正直、ずっとコロナでじっくり筆をもつことができなかった。
「なんか、古典を書きたい気分なのよね。 〇〇さんに連絡とったら、日本の古典の創作をやりたいと言ってる。 どう?」
私もそんな気分になっている。
「何を書くつもり?」
「○○さんは「平家物語」。わたしは「歎異抄」。」
「ほぉ~。それじゃ、それじゃ…、うーん、私は「方丈記」だ」
「よし、がんばろ! じゃぁね」
即答したものの、「方丈記」なんて、高校の古典で最初のさわりを読んだくらいだ。50年ぶり。
古典を題材にした書の創作というのは、かなりの準備が必要だ。 もとより古典文学(漢文や和歌も)の素養がないので、著者のキャラクターと個人史、時代背景などを調べ、それに参考書を何冊かざっと読む。
本文も、できれば全文を現代語訳で読んで(平家物語とか源氏物語は無理だけど…)、どの箇所を書くか? 自分と向きあう。
本人の真筆があれば調べるし、なければ写本を見る。
「方丈記」は、国宝の「大福光寺本」が自筆とされている。
巻物で、漢字とカタカナのかな混じり本。
カタカナではなく、ひらがなで書くことにし、
まず、全文を「日本古典文学全集」(小学館)で、図書館で借りてきて読む。有難いことに、カタカナはひらがなに改めて、常用漢字以外にはルビがふってある。 句読点をつけてあるし、これで音読できる。
とにかく、声に出して読む。
それから、読み下し文と現代語訳と注をみながら読む。声はださない。
この「日本古典文学全集」は、頭注が丁寧だし、イラストや地図など、とてもわかりやすい。
でも、これだけで終わらない。
さらに、現代語訳を図書館で2冊ほど借りてきた。 学者でなく、作家のうちから、永井路子と高橋源一郎。
永井路子は、学者にアドバイスを受けながら書いたらしくて、古典文学全集とそれほど違わないが、高橋源一郎は、超訳。
ぶっちゃけたハナシというような感じで、思わず笑ってしまう。
高橋訳「まず、友だちを選ぶのは、金を持っているやつだ。次は口先のうまいやつだ。ほんとうのところ、友情とか、素直な人柄だからとか、そんな理由で友だちを選ぶ人間は少ない。馬鹿みたいだ。それくらいなら友だちはいらない。楽器や季節を友だちにしているほうがずっとましだ。」
原文「人の友とあるものは富めるをたふとみ、ねむごろなるを先とす。必ずしもなさけあると、すなほなるとをば愛せず。 ただ糸竹花月を友とせんにはしかじ。」
「方丈記」、古典の教科書には「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」のところしか載ってなくて、それ以上は勉強しない。
そのせいか、無常観とか隠遁者文学という固定概念があるが、全部読んでみると、全然悟りきっていない。 でも、ときどき、どうでもいいやという無常観が顔をだす。
鴨長明。カモノ・ナガアキラの人生は、将来が約束されたボンボンだったが、18歳で父が死ぬと、青年時代の蹉跌から始まって、20代後半には、都の大火、竜巻、飢饉、地震など、これでもかの大災害を経験し、50歳で出家して、山の中の3m四方の庵(方丈)に住んだ。
上は、庵の復元。下賀茂神社内にあって公開されている。
今でいえばモバイルハウスで、屋根、壁、床はパネルで、牛車2台で運んで、組み立てた。
場所は山の中腹。 現地は伏見区醍醐日野にある。この大きな岩を利用して、水は湧き水を引いて岩のくぼみに溜めたらしい。
鴨長明は54歳で1人でこんな山の中に引きこもり、ミニマリストの生活を送りながら、あまり経を読まず(お坊さんなのだ)、琴や琵琶をひいて暮らした。
1117年生まれ、1180年没。平安末期の貴族の世から鎌倉時代の武士の世の、激動の時代を生きた。
「方丈記」は全1巻。原稿用紙にすれば、20枚そこらの短さ。
(このブログはだいたい4枚分くらいだから、5日分くらいだね)
わたしは、現代語訳も含めると4回読んだが、災害の記述は現在の東日本大震災やコロナと重なり、ナガアキラさん(鴨長明)は、自分の過去を振り返り(自伝だね)。庵で最小限の生活で満足する生活様式を実践し、自然を再発見し、達観して生きるということまで凝縮して書いてある。
その鴨長明の生き方は、800年以上の昔とおもえないほど、示唆に富む。
コロナ禍でストレスの重なっている方はぜひ読んでみてください。
現在、東日本大震災から10年もたたないうちに、世間は忘れてしまい、浮かれていると、新コロナという自分にも降りかかる災厄が降りかかる。
ナガアキラさんは、遷都で神戸にも行くが、それも失敗で、荒れ果てた都に戻ってくる。天皇は昔は「仁」であったと嘆く。 なんか現在の政権交代と重ならないか。
アフターコロナをどう生きるか? 人生うまくいかないからと不満を言っても始まらない。 心配してもしようがないと、ナガアキラさんは言う。
そして、古典だから、さっぱりと、「さびしき住まひ、一間の庵、みづからこれを愛す」と。
東京を捨てて、地方に移住する人と重ならないか?
なんか、日本の古典に目覚めてしまった。 そして、筆をもつエネルギーを注入してもらった。 どこを選んで書こうか。 最初のよく知られているところは、名文が一人歩きしているからやめよう。
大福光寺本のカタカナが混じった筆致は早書きに近い。ナガアキラさんが、たぶん一気呵成にこの文章を書いたように、私もあまり練習しないで書こう。 この疫病禍のこの時代を書くのだ。
「平家物語」、「歎異抄」…。 他の2人はどんな字を書こうとしているのか? 愉しみだなぁ。
秋の夜長。 古典を読み、古典を書く。
人は、コロナで引きこもり、うつっぽいんじゃないかと思っているかも知れないが、めちゃ、ギラギラしてるんだよ。