書家の出番です | あらかんスクラップブック

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60代の哀歓こもごも

 

いきなりですが、

官邸支配の醜さが一発でわかる筆文字看板をごらんくださいまし。

内閣人事局

稚拙で品位に欠け、かといって、勢いもなく、びくびくとした筆運び。

こんな字は、ちまたに見られる筆文字、たとえば、学校の卒業式看板、清酒のラベル、そこらあたりの居酒屋の看板としても全く失格だ。

 

これは、安倍さんと看板を掲げている稲田朋美衆議院議員の揮ごう。

将来の女性総裁候補のひとり。

これでも、指導者をつけて、手本を真似して書いた。 そして、書かれたものは、長さ、角度、配置を組みなおし、修正した。

手本もよくない。 まねした字も良くない。 それをさらにバラバラにしては、気脈もなくなり、もう見るに耐えない。

それまでして、書きたいか? 読めればいいというものではない。

 

この看板は不評で、当時、書家の石川九楊さんは、こんなコメントを寄せている。

「こんな表札を掲げ続けていたら、東アジアの漢字圏の要人に日本が軽蔑され、官僚の士気も低下しかねない」

「権力者が身を修めることや詩文書の教養、作法を欠いたまま、看板を書くという形だけ残っているのは、悪しき慣習」

「書は自らをさらけ出す『自己暴露装置』だ。 素養のない政治家が容易に筆をとるべきではない」

 

書道の達人、故宮沢喜一元首相は、「私ごときが書くものではない」と決して看板の類は書かなかった。 私は、宮沢さんの書を譲り受けて、所有しているが、能書で人柄がしのばれて好きだ。 

宮沢さんは、ただの謙遜ではなく、おそらく書に造詣が深く、過去の中国や日本の政治家の書から、強い感慨を持たれたのだろう。 

太宗の字が書けるか? 勝海舟や西郷隆盛の書が書けるか? 副島種臣の字が…、犬養毅の字が…。 書くには覚悟がいる。とても恐くて書けないというのはよく理解できる。

 

省庁の看板は、国の格式に関わる。 品格のない字を晒してはならぬ。誰それが書いたのかではない。鍛錬された書家が、仕事としてきちんとした楷書で書くべき類のもの。 

そうでなければ、活字のフォントでいい。 

菅新総理は、「データ庁」や「災害庁」を新設すると言ってたが、看板は初代長官ではなく、日本にあまたいる書家に委託してほしい。

 

私が、新首相に期待するものといえば、それだけかな?

看板だけでも、恥ずかしくないものをお願いしたい。

 

さすが、文部省~文部科学省は、書家に書いてもらっている。

豊道春海 (文部省時代)      今井浚雪      成瀬映山

 

どうでしょ?上手いなんてつくづく見るものじゃないけど、何気なく確認して落ち着く。 そんな気持ちで見てもらうために書く。見るほうの立場に立って書く。 自己顕示欲や国家権力が感じられるように気概をこめて書いているのではない。 

今井浚雪さんのは、豊道春海に準じたのか、顔真卿風。顔真卿は、

唐時代、殺害されるまで信念を曲げなかった立派な政治家であり書家。 漢字圏の外国の要人が見れば、うれしくなるにちがいない。

 

「文化庁」の文字は、「看板の字じゃない」「下手」「アートっぽい…」と、決して評判は良くないが、文化庁は多様な文化を応援するところ。 筆耕という立場で、なにかのアピールがあったのかも…。 私は文字と文字の空間や筆運びなど、うまいと思う。 

これから、楷書でない看板も、文字の歴史や多様性を理解している書家に書かせれば、どんなに変わった字でも失敗はない。

 

筆文字は、書家の出番です。 

でも、文化庁は、2018年に、宮田亮平長官揮ごうの文字に変えてしまった。 京都移転でイノベーションだそうだ。

典型的な隷書で、内閣人事局みたいに下手ではないが、パソコンのフォントみたい。文字に力がない。

これからだんだん、政治家ではなく、デザイン会社に委託するようになるのかもしれないが、看板くらいは当代の書家に書いてもらうほうがいい。

 

居酒屋のメニューの手書き文字、カフェの黒板アート。 デモ隊の段ボールに書かれたマーカーの文字。 応援席のカラフルな文字…。

 

書は、アートではなく、その時代に生きた人間の思いや心がこもっている。 だから、人を惹きつけるし、人を結びつける。

 

くどいけど、大事な看板は、書家の出番です。