僕の中学校2年の時を思い出しながら書いてみます。何故か?僕にとっては、人生の分岐点のような気がするから。この前迄は、幼少期。中学2年生から大人の仲間に入ったと感じた。
中学2年生の担任の先生は、斎藤先生でした。頭が禿げていた。いつもニコニコしていた。クルマがTOYOTAコロナに乗って来た。その当時。最高のクルマでした。四角い箱型。色は、灰色。社会科が専門だった。メガネを掛けていた。背広にネクタイ締めて。 僕は、社会が得意でした。通信簿で唯一5を貰いました。

特に京浜工業地帯とか京葉工業地帯とかの言葉に感動していた。群馬県には、工業地帯なんか無かった。高度経済成長していた。大阪では、万国博覧会が開催されていた。僕は、軟式テニス部に入っていた。スポーツが好きでした。毎朝。朝練習がある。ソフトテニスの顧問は、吉田先生と言った。朝の6時から8時まで。女の子も一緒なので、楽しかった。それでもお昼休みになると上級生の一部は、怖かった。あの当時。一歳上の先輩方々は、かなり年配者に感じた。その中で一番怖いのは、堀越まさゆき。と折茂とみしげ。あの二人が校庭にあらわれると殴られるような気持ちになった。それが平井小学校から続いていたから、あの二人だけは、そばに行かない事にしていた。いじめみたいなもの。平井中学校には、部活動と言っても、テニス部とバレー部しか。他は、クラスの人数が少なく無いに等しかった。僕は、テニスだけは、夢中になる。中学2年生の時に、バックハンドもやっと打てました。吉田先生は、中学1年生の時の担任でした。真面目な先生で、正しいことを話しいた。僕は、ひねくれものなので、ちょっと合わないと感じた。吉田先生は、国語が専門らしかった。日本語の書き方とか。日本語の接続詞など。事細かく教えてもらった。かなの使い方まで教わる。ずいぶんと丁寧に教えてくれたけれど、生徒の誰も聞いてなかった。いや。僕だけ良く聞いていた。簡単な授業は、飽きていたから。難しいから、分からないから、良く聞くものなんだ。そこがまた、僕流でもあった。吉田先生は、白いTOYOTAカリーナに乗っていた。国語が好きになる。特に俳句は、たとえば寒さかな。さむさかなと読む。僕は、カンザカナと読んでいた。教室でみんなに笑われた。俳句の時間になると眼が覚めた。俳句には、魚の鮭が出てくるのかと思った。クルマの車種を良く覚えているのは、僕が大のクルマ好きだから。クルマ博士を自認していた。あの当時も、日本経済イコール=クルマでした。勉強は、出来ない。通信簿は、3と4ばかりでしたが、実際には、もっと下だったと思う。平井小学校のときは、2と3ばかりだったから。同級生は、頭が良かった。ほとんど友達は、上智大学。慶應大学、東北大学、ばかり、その中に同級生の高橋由実ちゃんがいました、父親が平井中学校の数学の先生をしていた。身体の具合が悪そうでした。お酒ばかり飲んでいたらしい。噂では、アル中とか。この後。数ヶ月後に入院して、その後。亡くなる。授業中に高橋由実ちゃんが退出したときも覚えている。お父さんが亡くなった。そっと担任の先生に呼ばれて病院に急いで行った。まだ高橋先生は、40歳から50歳の間だと思う。今の僕が62歳だから。若くして亡くなった。愕然とした事を覚えている。英語の先生は、まだ22歳の瀬下先生といった。青山学院大学英文科卒で、学校の先生になったばかり、若くて綺麗だと思った、髪の毛をパーマ風にしていた。その先生は、軽自動車だったのか、良く覚えていない。年齢も10歳ぐらい上だから、まだどこかでいるでしょう、僕は、瀬下先生の動作とか顔とかを見惚れていて、英語の授業をまったく聞いて無かった。英語の先生が美人だと男の子は、ボーとしちゃうよね。第一にその頃が一番女性に興味深々なのだから。家に帰っても。学校でも。女性の事で頭がいっぱいでした、その頃読んだのが、五木寛之先生の青春の門(筑豊編)。高崎市のオリオン座では、エマニエル夫人が大ヒット。僕は、小さな恋のメロディを見た覚えがある。マーク・レスターが同性なのに憧れました。女性は、名前も知らない女優さんでしたが、やはり同じ歳だと女性のほうがませていると感じた。
吉田先生は、丈夫な身体らしく。藤岡図書館で何回か会う。話しもしないけど。歳を取っていた。あの当時の先生は、勉強を良く教えてくれた。僕は、もう学校が嫌になっていた。1月期には、中間テストがあり。すぐに期末テストがある。家に帰ると夜中まで起きて勉強していた。でもそんなに勉強好きでは、無いから。アイワのラジカセで文化放送の土居まさるのセイヤングや落合恵子のパックイン・ミュージックばかり聴いていた。吉田拓郎の大ファンで、シングル盤の結婚しようよ。とかLPレコードの元気です。を良く聴く。
平井中学校の入学式の日は、良く覚えている。新井千恵子ちゃんの母親が写真を撮ってくれたから。その写真は、大切にアルバムにしまってあります。黒い詰襟の学生服に、黒い水兵帽を被って、嬉しそうに立っていた。1年生は、平ら家の西側でした。その間にトイレがあり。その前の部屋が職員室でした。校長先生は、小暮汐先生といった。その部屋の東側が中学2年生と中学3年生の教室でした。教室の前には、運動場があり。その周りに桜🌸の木があり。樹齢が古く桜が満開になると壮快な景色が現れた。また散るのも早く。すぐに緑色の葉桜になる。中学校の2年生の時。転校生が来ました。今井君と言った。ちょっとぼんやりしている子でした。担任の先生に怒られていても、あんまり気にする風が無かった。中学校卒業しても高校も行かずにどこか働きに行ったらしい。藤岡生コン株式会社近くの小さな家に住んでいた。学校の行き帰りも別別。なんか学校でも登下校でも、みんな余所者扱いしていました。先日。同級生の宮沢から、今井は、死んだよ!と、教えられた。えー。だってまだ60歳前だろう。宮沢の話し方から、自己死とか自殺らしい。覚醒剤取締法違反で実刑判決を受け、新聞沙汰にもなっていた。暴力団組員らしかった。卒業してから、まったく音沙汰も無かった。またもうひとりの同級生の水道屋の春山も死んだ。春山は、ガソリン被って火を付けての自殺らしい。春山は、僕の家に良く来ていた。宮沢の話しでは、借金苦らしい。でも奥さんが看護師だから、そのお金で充分食べていけるだろうに。僕がJA
に勤めている時は、景気が良さそうで、毎週土曜日日曜日には、業者と接待ゴルフ🏌️‍♀️⛳️をしていたものなのに。ちょっと景気が悪くなると耐えられないのかもしれない。僕の家も同じ。借金苦やお金がない苦しみは、毎日。日常茶飯事。この苦しみは、辛い。じっと我慢するしかないと思う。周りが変われば、それに応じて変わって行けないと生き残れない。とは言っても。このコロナ禍についていけない人達がたくさんいると思う。上越新幹線、東海道新幹線は、ガラガラ。JR東日本は、どのようにして給与を払うのだろう。飲食店勤務や飲食店経営者は、路頭に迷う。歌手や芸能人は、?都内のホテルに勤務する従業員は?日雇い派遣の労働者も食べていけなくなるだろう。毎月家賃の支払いも滞るだろう。もう一度10万円を国民全員に支給もすべきだと思う。それも毎月支払ったらどうか?確か10兆円の予備費があるはず。使ってしまいましょう!いのちの方が、大切だから。


髙橋先生が死んだ!!それはたまげた。だって今まで。中学校で数学を教えていた。慶一が中学2年生。だいち確か一学期は連立方程式を教えていた。お酒好きらしく。授業中も手が震えていた。なんでそんなに。お酒を飲むのか?良くわからなかった。みんな髙橋先生は職員室でお酒をちびちび飲むらしいよ!と話していた。慶一はおもしろい先生だと思った。白髪で赤ら顔。実年齢よりも10才は老けていた。まだ50才ぐらいだけだと思う。その髙橋先生は慶一の同じ村で。髙橋先生の娘さんは。髙橋由美。慶一と同級生でした。ある日。たぶん二学期が終わる頃。髙橋先生がいないなぁと思った。髙橋先生は病院に入院したらしい。そんな話しを担任の齋藤先生が話していた。そしたら。ある日。病院で血を吐いた!!と担任の齋藤先生が授業中に話した。齋藤先生はすぐに髙橋由美ちゃんに耳うちした。そしたら髙橋由美ちゃんは。急に顔が白くなって。その場で病院に急いだ。いや。そうではなく。髙橋由美ちゃんに耳打ちしてから。みんなの前で髙橋先生が血を吐いた!!と言ったと思う。







 平井中学校の思い出の中で僕が、いつまでも忘れないものの中に音楽の授業があります。以前も書きましたが、音楽の授業でベートーベンの交響曲第6番を最初から最後まで聴けた事。レコード盤で約40分。これは、嬉しい思い出です。今でも。ベートーベンの交響曲第6番田園は、一番好きである。先生の名前は、忘れました。50歳ぐらいの叔母さんぽい感じ。旦那さんがクルマで迎えに来ていたのを覚えている。ヒステリックな女性でした。僕は、音楽は、成績も悪く、好きで無かった。何しろ僕は、人前で歌を歌うのが大に苦手。音楽の先生がピアノを弾きながら生徒がひとりひとり歌を歌う時など。僕は、絶望していた。声が出てこない。歌うと演歌の森進一風になった。女子生徒も歌うと演歌風なこぶしがついていて、女先生が演歌のこぶしは、入れないようにと声を枯らしていた。ドレミの順番も分からない。なんでドレミなんだろうとか考えたりした。平井小学校の運動会では、笛を吹いたが、ただ音を出していただけ。それに通信簿は、小学校1年生から、毎回 2。評価は、悪い。それ以上の成績の評価は、無し。いつも評価は、2。でもクラシック音楽は、生まれて初めて聴いて感動した。それから20年間。音楽から離れていた。今では、もう30歳を過ぎてからですが、ベートーベンのピアノ協奏曲5番皇帝とベートーベン交響曲第6番田園。世界ナンバーワンであると思う。何回聴いても。新しいピアニストがウイーンフィルと演奏すると、必ず聴く。また人気の指揮者がベートーベンを演奏するとYouTubeから聴いています、まぁそれは、さて置いて。初めてベートーベンを聴いた時の感動は、言葉にできない。多分。ブルーノ・ワルターまたは、カール・ベームだと思う。その当時。レコード盤は、この二人だけだから。僕は、レコードが音を出し初めてから、終わりまで、その音楽を文章にして、書き留めていたのだから。周りの同級生は、みんな寝てました。僕だけ解る。僕は、みんなと違うと思った。勉強は、出来なかったけど、僕は、ゾクゾクゾクする感動で、いっぱいでした。当時から、ビートルズから、デビット・ボーイまで夢中で聴いていたから。最初は、ビートルズのアビーロードのB面に、ベートーベンが似ていると思った。終わるかと思うとまた始まったり。連続しながら続くところとか。この後は、ロックに夢中になり、クラシック音楽に向かう事は、無かったが、最初の印象は、消えることは、無かった。僕がベートーベン交響曲全集を真剣になって聴き始めたのは、35歳を過ぎていた。なんで15歳から35歳まで聴かなかったのだろう。もっと刺激的なものに夢中になっていたとしか、自分でも分からな。

最近では。

ベートーベン交響曲第6番田園とベートーベンピアノ協奏曲第5番皇帝の思い出は!

最近では、群馬交響楽団の演奏会も脚を運ぶ。またみかぼフィルオーケストラがベートーベンの田園を演奏するというと出かけます。何故か?それは、ベートーベンを一回聴くと一年間ぐらい、生きているのが、ちょっとだけ楽しくなるからなんです。だから日本にウイーンフィルオーケストラが来ると、3万円の席がおよそ10分でネット完売してしまうです。3万円で1年間幸せになるのなら、こんなに安いものは、無いから。