毎日過去を思い出しながら、僕の生きてきた体験を全力で書いています。間違った事は、書きたくありません。本当のことを恥じも外聞もなく書いてみます。一行書いては止まり、また後で一行書く。といった具合。

37歳のときに読売新聞群馬工場に入社。JAたのふじをリストラされたばかりで、途方に暮れていた。新婚生活の天国からがあっと言う間に地獄に落ちた。アパートで拒食症になる。体重が72キロから66キロまで落ちた。食べたものをすぐに吐きだした。部屋に2日3日と同じ場所に座っていた。大好きなテニス🎾もしなくなる。社会からまったく離れた気がした。新婚生活どころでは、なくなる。げっそりしていた。妻の父親からは、騙されたようなものだ。と言っていたと聞く。そのあと、妻の父親は、ガンで亡くなった。妻は、黙って会社に行く。家に帰ると話しもせずに本を読んでいた。何の本だろと思い、題名を見てみた。田辺聖子の「お母さん、疲れたよ」と書いてあった。悪いことしてしまったなぁと思った。僕の家では、朝日新聞と読売新聞を交互にとっていた。確か読売新聞をとっていた時に、読売新聞群馬工場の求人広告が入った。最初は、僕が見た。家で農業していても、お金にならないし。ハローワーク藤岡の求人にもたまには行っていた。仕事は、あまりなかった。新聞の印刷工場は、藤岡市には日刊スポーツの工場もあり。あの感じかなと思った。
長野冬季オリンピックを控えていた。藤岡市は、関越道と上越道の分岐点である。新潟県と長野県の新聞を印刷していた。
配属先は刷版課。読売本社から送られてきたフィルムをアルミの板に転写するのが主な仕事。プロッターから夕方の5時過ぎから翌日の読売新聞の朝刊の編集記事が次から次へと送られてきました。その前に日曜版のフイルムや自動車の広告のフイルムが届いていました。読売新聞用に3台。報知新聞が2台。製版機が4台。その他には大型のプリンターから新聞用の色ゲラが送られてきていた。モノクロの広告が夕方5時ころから。この時間に夜勤者が毎日出勤する。作業員は製版が3人検番1人の4人体制。2年か3年に一度は号外もありました。最初がイギリスのダイアナ姫の交通事故死。そのあとがアフガニスタンの空爆。連続してイラク空爆。悪いことばかりでした。最後の方では東北大震災もありました。凡そ夜の12時まで製版していました。最後に送られてくるのが1面の編集カラーでした。夜の10時前後に長野県と新潟県の新聞用フィルムが送られてきてすぐに印刷課の輪転機に装着して印刷。群馬県は11時過ぎてから送られてきました。最後に送られてくるのが1面の編集カラーでした。朝刊が印刷が始まると刷版課は休憩。午前1時からはこんどは翌日の広告の張り込みが始まる。二連番の広告のフイルムや二連番の下5段の広告など複雑でした。頭を捻ったのが英字新聞の広告でした。日本の新聞と上下が逆になり微妙に位置がずれていて張り込みは苦痛でした。小さなルーペで中腰姿勢のまま3時間もテーブルに向かうと腰が痛くなった。家に帰るのが午前3時から午前4時でした。入社したては慣れない夜間勤務でコンビニでビールを2本買い家に帰るとやすい料理用ワインを冷蔵庫から出してはお酒ばかり飲んで妻に怒られたりしていました。
僕は、キッチンドリンカーになったと思った。その頃村上春樹訳のレイモンド カーヴァー の短編小説を読んでいたので僕と似ていると思った。職を転々とするところも似ていた。お終いには身体を壊すかと思われた。その時に救われたのが岩波新書の「ガンとは何か」という本でした。いまでは当たり前のことですがお酒🥃にはアセトアルデヒドという発ガン性部質が含まれていることを初めて知る。またタバコを吸う人はサリンと同じ部質のダイオキシンがタバコには含まれているのでガンになりやすいという事を知りました。その当時は、本を読んのが一番楽しみ。群馬県立図書館へ行って、山ほど本を借りては、17号バイパス沿いのマクドナルドで読んだ。ホットコーヒーがお代わりし放題でした。その時は、コーヒー☕️に入れるグラニュー糖が糖尿病になる可能性があることさえ知りませんでした。いまは、ミルクとコーヒーだけで、砂糖は入れないようにこころがけております。