僕が大学生のときは、サザンオールスターズがデビューしたばかり。下宿先では、朝から夕方までどこかの部屋でステレオ太陽族のLPレコードが鳴いていた。福島荘の住人の中に湘南海岸へサーフボードをクルマに積んではサーフィンばかりしている地主の部屋からは、毎日毎晩聴こえてきた。いま流行りの音楽なのかなと思った。僕は、ひとりで部屋にいることが多かった。そのせいかサーフィンに夢中になる友人たちが羨ましかった。大学生になってもう3年は、たっていた。第一福島荘は、大学の正面入り口から高麗川へ行く細い道を100メートルばかり歩いたところにあった。静岡県から来ていた四方と広島県から来ていた新原がいた。二人ともおとなしくて、ひっこみガチでした。やっと城西大学へ入学してから一緒に夕飯食べ世間話をしたまには坂戸市のイトーヨーカドーへ買い物ができる友達でした。大学は寂しい。友達だけが救い。その後からが僕の学生生活が始まったと言っても過言ではない。僕は夕方から夜にかけてひとりで部屋に居ても詰まらないので四方の部屋に遊びに行く。僕も四方もインスタントコーヒーが大好きなのでネスカフェエクセラの大瓶をお互いに買って飲んでいた。今ではスーパーに行ってもデカすぎて買うことがありません。でも時々スーパーで見かけると昔を思い出します。音楽ばかり二人で聴いていた。四方の部屋には珍しくステレオやテレビがあり、いつも小綺麗にしていた。夕飯は大学の裏側にある商店街の中にあった「みさお食堂」でチキンカツ定食を食べた。400円でどんぶりのご飯が食べ放題。僕はいつも2杯は食べた。部屋は4畳半。トイレもお風呂も台所も共同。学食でカレーを食べて夕飯は外食ばかりでした。アルバイトはあまりやりませんでした。仕事がないです。田舎過ぎて。それでも年末に川越市のトーチクハムでバイトをしました。そのお金で川越市の東口のディスカウントストアロジャースでソニーの大型ラジカセを購入する。部屋の中では、スピーカーに耳をあててサザンオールスターズばかり聴いていた。ここは、建物の中では隅っこで誰にも気兼ねなく音量を大きくしても何も言わないだろうと思った。それでも偶には直ぐ上の2階から「うるさい!静かにしろ」と言われた。よく聴いていたのは、「いなせなロコモーション」僕がサザンの中で見つけたノリノリ曲でした。だから僕は、そんな忠告もまっくもって気にしませんでした。その頃が一番楽しかったから。勉強なんかまったくしませんでした。僕は、城西大学理学部数学科から経済学部経済学科へ転部していた。また1年生からやり直してしてました。また新しい環境からスタート。もう留年出来ません。学校へは毎日通う。出席さえしていれば卒業できました。斜めの教室で話を聞いていた。出席だけは、していました。僕は学生時代から図書館に行くのが一番好きなことだけに、城西大学の図書館にはほぼ毎日通っていました。建物の最上階から高麗川や武蔵野丘陵を眺めては、本棚の中を歩いていました。見晴らしが良くて、一人で落ち着いた時間を持つ。読んだ本は、柴田錬三郎の時代劇小説ばかり読んだ。部屋に帰るとその頃ベストセラー小説を書いていた森村誠一ばかり、多分100冊は読んだ。楽しくなければ、読んだことにならないと思っていました。そのほかでは、アガサ・クリスティなど読む。古典的なものは、読めませでした。部屋の中にスチールの本棚には、大衆小説ばかりり並んでいました。
   その年のことは、よく覚えています。1980年の12月でした。大学の2年生でした。僕は、朝から四方の部屋でインスタントコーヒーを飲みながら世間話していたら、突然地主が、部屋から飛び出して「ジョンレノンが殺された。」と大声で下宿の廊下を玄関前まですっ飛んできた。「殺されちゃった。」と嘆いていた。寒い日でした。
  城西大学は、埼玉県坂戸市にあります。池袋駅から東武東上線でおよそ一時間。川越駅から20分。武蔵野丘陵にある。僕が学生時代には東京まで遊びに行くことは稀でした。ほとんど学生は、坂戸市か川越市で買い物やショッピングを間に合わせていた。ココ周辺は、東京都心へのベッドタウンとして栄える。大学のすぐ隣には高麗川が流れていた。浅瀬で水かさが少なく流れも穏やかな清流であると思う。大学は、薬学部と理学部と経済学部でしたが、最近では社会福祉学部や栄養学部などの系列の大学も併設されてきています。最寄り駅は、東武東上線川角駅。ココからよく歩きました。大学に入学した当時は、群馬県藤岡市から八高線で群馬藤岡駅から通った。はじめの頃は、八高線に乗るのさえ嫌な気持ちになる。八高線は単線で途中停車が毎度のこと。乗っている人たちは、おじいちゃんやおばあちゃんばかり。これでは、勉強する気もなくなってしまう。案の定、あまり行かなくなりました。電車は、山の中をくねくね走っていた。