万座温泉には、5回ほど行きました。父親が万座温泉の混浴露店風呂が大好き❤なんです。遠くてなかなか行けない。その時は、家にフォルクスワーゲンゴルフがあり。父親と母親と僕の3人で行った。今からどうして万座温泉に行ったのか、忘れてしまったが。たぶん読売新聞をリストラされて、家でぐったりして居たからだと思う。父親は、その点敏感に反応する。確か農協をリストラされた時は、水上温泉の混浴露天風呂に行った。その時は、30代半ば。今回は、50代はじめ。生きていれば、良い事もある。20代には、御荷鉾山に行った。確かゴールデン・ウイーク。その時も独身で長い休みを持て余していた。よくわかるだなぁ。危機になると旅行に誘った。初めて万座に行った時は、まじで秋晴れ。すぐそばに浅間山北斜面。こちらは、白根山中腹。よく見るとくっついているだなぁ。そこからの万座ハイウェイからの景色は、忘れられない。赤や黄色やその他の紅葉🍁が花を咲かせているかのごとく色鮮やか。ハイウェイの途中で景色を見るためにクルマを止めた。言葉に出来ない美しさ。道は、まわりまわり山まで舗装されていた。途中に表万座スキー場を通り。すぐ近くに万座温泉がある。あちらこちらから、白い温泉の煙りが立ち登る。しかし温泉街というものは、無い。働く人達は、とても通えないからみんな寮で寝泊まり。それも、面白いと思い。リストラされてハローワークに通っていたから、働きに来ようと思った。2011年だと思う。ハローワークは、ごったがえしていた。交通警備員の仕事もやっとありつけるような状態。だからここで働くかな。だって家族的でいいじゃないかと思ったが、ちょっと寒さが半端でない所が躊躇した。秋晴れでしたが、頂上は、寒かった。その寒さは、身体の芯まで冷えた。万座高原ロッジは、手前。その上に万座プリンスホテルがある。手前の万座高原ロッジの天下一露店風呂が目的の場所。5階のフロントで券を購入。そこから一階まで降りるとそこに、広々としたお風呂があります。此処は、混浴ですよ。女性たちがいっぱいおりました。でもおばちゃんばかり。僕は、ふるちんで手拭いを持って行ったら、手前のお風呂に女性が見学していたので、その時は、慌てました。コッソリ見られてしまった。わざと男性の着替え室の前のお風呂に浸かっていたんです。そこは、女性は、バスタオル風の水着姿。男性は、タオルだけ。お風呂は、真っ白。硫黄臭があり。お風呂全体が真っ白。いつ行っても快晴でした。お風呂から出るともうすることが無かった。退屈してきた。ロビーで座ったり。パンフレットを見たり。この退屈癌が温泉好きには、耐えられない。だから普段は、日帰り温泉しか行かない。母親の手作りのお握りやウインナーのおかずを食べた。母親は、どこに行くときも必ずお弁当作ってきた。節約しなくちゃという。長い時間。退屈してきたから。見学がてら、万座高原ロッジの内風呂も入った。ここは、また人が居ない。室内掃除のおじさんやおばちゃんに会うだけ。およそ内風呂は、1時間。誰もが入って来なかった。そこは、5階にある。温泉好きな母親は、また行こう!また行こう!と言っていたら。癌で倒れる。あれ?母親が炬燵の座布団に寝転がる日々が続く。顔もげっそりしてきた。父親が母ちゃんは、死ぬなと言っていた、確か。まだ80歳。この時は、慎重に運んだ。なんとか助けようとした。群馬県でも癌手術のレベルが一番高い病院を探した。高崎市山名の内科医院山名医院の先生から、富岡総合病院へ行けば良いと言われた。80歳で緊急手術。大腸癌でお腹にうんこが溜まって出ないらしい。すぐに手術、手術は、成功した。それから、3年あまり。なんとか生きている、

介護施設行ったり。藤岡総合病院へ行ったり。やはり藤岡市の介護施設がまずかった、肝心な時に父親がケチってしまい、安くサービスの悪い介護施設、何ヶ月も入院していたら、なんとか丈夫になった、その時。転倒して頭を打ち脳挫傷で意識不明、これは、がっかり。大腸癌で亡くなるなら、仕方がない、足が弱っての転倒は、辛い。安いから夜間の介護士は、ひとりしかいない、どこかで転倒したのか。その前の日に家に帰ってきていた、あんまりお見舞いにこない言葉を恨んでいた。その様子を見て。また母ちゃんに元気が出たぞ!と思った。その夜。に転倒。帰って来たかっただろうに。今となっては、手遅れ。意識不明は、回復は、無いと言われた。その日から。僕は、どこを歩いても辛い。記憶が蘇るです。この時間は、あそこに。次の時間は、あそこと。一緒にいる時間が長いから尚更。たとえば。今日は、蚊に喰われて眠れない。一晩中痒くていても経ってもいられなかった。仕方なく。吉井町のスーパーベイシアに行った。そしたら突然ですが。うわーと泣きたくなった。ひとりで買い物するのが寂しのでは無い。あれー。いつもの母親が居ない。吉井町ベイシアは、母親のいつも買い物するところ。あれー。いない。いつも買い物する時の母親が居ない。店内を歩きながら。母ちゃんなら、納豆と昆布の佃煮を買うだろう。その場所に行くと。また。もう一緒に買い物に来られないのかと思うとまたわあーと泣きたくなる。いない。不在。もう買い物にも来ないと思うと。無性に孤独感に襲われた。駐車場に戻ると。いつもノタノタしている母親が居ないだ。クルマにも乗った。隣りには、母親がいて。ベイシアで買ったものを摘まみ喰いしてはいた。その母親がもう意識不明。あまりの現実に圧倒されてしまった。それがスーパーベルクでは、起きない。やはり母親は、安いもの好きで、買い物好き。吉井町ベイシアスーパーを好みなのだ。その場所には、毎週来ていて。僕は、欠かさずに買い物帰りには、ダンボールいっぱいのおかずを軽トラックまで運んだ。そうすると安心したかのように。嬉しそうに、話しをしたりした。なんの話しをしたのか。忘れました。その隣りの魚勝スーパーは、物が悪いとか。そんな話し。やっぱりベイシアが一番だ。とか。




僕の家族写真です。母親と父親と妻と娘と僕の5人で藤岡市のファミリーレストランココスに行きました。その父親は、介護施設。朝起きたら。オシッコがでない。膀胱に尿が溜まり、お腹が痛くて苦しんでいた。高崎市の内科山名医院へ連れて行く。この先生は、仲が良くて信頼していた、母親は、藤岡市篠塚病院で意識不明。もう2度と家族が集まる事がありません。娘は、埼玉県川越市まで行ったきり帰って来ない。毎日。娘には、帰って来るように説得しているが帰らない。今日も父親と母親が入院したから。帰って来るように連絡した。休みの日も、あるだろう。もう2度。娘は、外に出さない。仕事は、群馬県にもある。理学療法士の資格があるから。高崎市の黒沢病院で働けば良いと。メールで送る。これも偶然かもしれないが。我が家は、TOYOTA自動車🚗🚘の隣りに農地や宅地がある。病院や介護施設の費用は、莫大。二人で月々20万円。貧しい家ならば、これで終わり。しかしながら我が家は、藤岡市東平井工業団地売却のお金が10月に入る。このお金が有れば、なんとか二人の医療費は、まかなえる。反対ばかりしていたが、嫌々賛成。村中がみんな農地を売ろうと判子を押していた。我が家だけ反対。でも売らざる得なくなった。多額のお金が入る。そのお金でなんとか生きて行ける。コロナウィルスですこし入金が遅れる連絡が藤岡市役所から来ていた。1600年から400年も続いた新井家もお仕舞い。自慢では、無いが戦前は、大地主出身です。田んぼが1ヘクターも工業団地に売れる。また工業団地併設した山林もある。山林は、およそ5反。多分。工事そのものは、重機が入るから同時に行うだろうから、山林のお金も入る。値段は、安く叩かれるだろうが、それも仕方がない。金額の一部は、孫のひとりの埼玉医科大学の学費に持ってがれるだろう。まだ残る。お金が入っても。しかし父親と母親は、健康的な状態に戻ることは、ないだろう。父親は、昭和7年生まれ。母親は、昭和11年間生まれ。二人とも80歳半ば。よく生きた。よく働いた。米麦養蚕農家。貧乏暇なしで働く。父親は、遊び好きで仕事嫌い。母親は、仕事好き。仕事が無いとTOYOTA自動車にパート労働者で働く。お昼は、かけうどんだけ。一皿80円、嬉しそうにしていた、40歳の時にクビになる。TOYOTA自動車は、厳しくて手の動きが悪くなるとクビにされた。母親は、ガッカリ、使って貰えなくなった、と言っていた。その頃。父親は、石屋を始めた。2トントラックで石を積んでは、千葉県まで売りに行った。売れたり売れなかったりした。その内に千葉県の植木屋さんに魅せられて、石屋さんから植木屋さんに転向。もう僕は、大学を、卒業して働いていたから。藤岡市農協に行っていた。なぜかしら。僕は、農協のガソリンスタンドばかり。両親は、ガソリンスタンドにきては、ガッカリ。大学卒業してガソリンスタンドしか働けない息子に情けなさと間違えた所に入れたことを、後悔していた。父親の仕事は、遊び感覚。植木屋さんと石屋さんをやる。その時代は、楽しげでした。お金が世間に溢れていた。三波石が売れると南房総のホテルに泊まり、温泉に入って帰ってきた、帰りには、植木を買ってきた。群馬県から埼玉県の野田市を通り、千葉県東金市まで走った、たまには、石屋さんのトラックの運転手も僕は。やりました。遊び感覚の植木屋さんは、時時は、友達もできて、楽しそうに植木屋さんどおしで話しが弾んだりしていた。植木の市場のセリが好きらしい。その日は、お祭りのようでした。だいたい。僕の20歳から40歳まで。

子供の頃の思い出。米麦養蚕農家は、しんどかった。桑切り。桑くれ。白い芋虫をどの家も飼っていた。仕事の合間には、母親と一緒に買い物も行く。トーエイとか。スーパータカハシとか、そんな日々は、長い事続いた。永遠に続くかと思われた。でもそんな事は、なかった。3年前。母親が癌の手術。富岡総合病院でまさかと思ったが、助かるけど。やはりもう寿命が来た。介護施設で転倒して頭を打った。足が弱っていて、たぶんトイレの帰りに倒れた。バイクで転んでも助かる。しかし今回は、打ち所が悪く。その時に頭の骨を折る。もうすこし。もうすこし。頑張れば。もっと生きられた。介護施設から、もうすこしで家に帰れるぐらいまで。良くなっていたのに。倒れる前の日に実家に一日だけ訪問。その時。あれ。また母親が元気になったと喜んだのに。その夜。もう介護施設に帰りたく無いよう。と泣いていたらしい。それでもトイレがひとりで出来ないから。仕方なく。介護施設に戻る。その夜に転倒した。そこでもう一度生きるぞ!と言う気合が無くなったのだと思う。富岡総合病院で癌も克服した。しかしながら。正直言って。劣悪な介護施設は、耐えられなかった。あれでは、生き地獄。孤独感があり。このままずつと介護施設なら、死んだ方がましだと言っていた。最後のチカラも持ち堪えられなかった。たぶんそこでおしまい。死の世界に入ってしまった。もっと環境の良い介護施設に入れて上げたかった。ここは、父親のセコさだと思う。また、父親は、母親が家に帰りたいと言って居るのを見てもまた介護施設に送って行った事を後悔していた。家に連れてくれば、良かった。と言う。あれが最後。写真でも撮っておけば、良かった。でも村の中では、長生きの部類。イクヨさんは、幸せだよ。子供たちが優秀だから。それに父親の新井道雄(みっちゃん)が優しいから。あんなに幸せに生きられれば充分だよー。と言われている。今日は、田植えも終わったので母親のお見舞い。まったく動かず。寝ていた。意識不明。口癖は、食べ物だよー。おいしいものを食べれば長生き出来る。そればかり言っていた。仕事よりも買い物。白いバイクで、毎日スーパーマーケットまで走って行った。70歳過ぎても白いバイクで走っていた、オートバイが好きな母親でした。買い物したおかずは、バイクの脚のあたりに置いてまた走ってきた。80歳すこし前までバイクに乗っていた。バイクで転倒しても。立ち直りまたバイクに乗る、でも不屈な闘志がありました。でまた怪我が治ったら、バイクに乗った。

長男の僕は、62歳。紆余曲折な人生を送る。けっして平坦ではない。藤岡市農協リストラ。35歳。父親は、かなり堪えた。もともと大地主の家柄。農協に入れば、幹部になれると思われた。でも甘かった。読売新聞群馬工場もリストラ。52歳ごろに、世間に放り出された。よくリストラされる。人柄が良過ぎました、世間様の冷たい北風に身も心も応えた。派遣切りが吹き荒れ、ハローワークは、毎日通う。惨め過ぎて、書けない。僕は、大地主の孫と思ったしたが、なんの効果も無し。戦前なら。遊んで暮らせたのに。生きるのがやっと。イオンモールの施設警備員から草津町の中沢ヴィレッジリゾートホテルの皿洗いとお風呂洗い。コンビニファミリーマートのうどん工場。コンビニセブンイレブンのおにぎり工場。たまに農業。何回も挫折。それでも、這い上がる。悲哀感絶望感は、毎度。

救ってくれる友達もなし。趣味は、無し。唯一の硬式テニスも飽きてしまった。それでも36歳から52歳までは、正社員とし働けた。この時間があるから、耐えられた。だから読売新聞は、悪く言えない。結婚もし。家も建てた。クルマは、TOYOTAカローラ。コンピューター関連でした。仕事は、緊張感とスリリングでいっぱい。建物は、綺麗でした。主に新聞製版。それに大型プリンターからゲラ出し。コンピューターやスマホやノート型パソコンは、今でも得意中の得意。それが。今の自分を支えてくれる。僕の生き方は。楽しい時間をたくさん積み重ねる。これがその後の失敗やどん底から這い上がるチカラになる。

そうだ。家族で千葉県富浦ロイヤルホテルに行った。鴨川シーワールド。シャチやアザラシがいっぱいいた。また清里ロイヤルホテルも行った。八ヶ岳が綺麗。バイキング料理を前に娘たちが大喜びする姿だけが思い出になる。

山梨県甲府市。信玄餅工場に行った。ワイナリーでワインの試飲もした。ピザ🍕の試食もあり。ワインとピザは、合うなあなどと思った。娘たちは、ジュースを飲みワイン🍷のお酒🥃を飲んだ。その娘のひとりは、父親の言う事も聞かなくなる。連絡が無いのは、無事だと思うが。やはり心配。我が家には、現在のところ。僕ひとり。寂しいけど。猫が一匹。色は、茶色。もう一匹。黄色と白の猫もたまに遊びに来る。夜になると猫の飼い主のところに帰って行く。来るたびに猫缶を与えた。家は、昭和48年に建てた。僕が中学生の時。その家に今もひとりで住む。大勢が住み、家族が揃っていた。