読売新聞群馬工場から警備員まで


毎日過去を思い出しながら、僕の生きてきた体験を全力で書いています。間違った事は、書きたくありません。本当のことを恥じも外聞もなく書いてみます。一行書いては止まり、また後で一行書く。といった具合。

37歳のときに読売新聞群馬工場に入社。JAたのふじをリストラされたばかりで、途方に暮れていた。新婚生活の天国からがあっと言う間に地獄に落ちた。アパートで拒食症になる。体重が72キロから66キロまで落ちた。食べたものをすぐに吐きだした。部屋に2日3日と同じ場所に座っていた。大好きなテニス🎾もしなくなる。社会からまったく離れた気がした。新婚生活どころでは、なくなる。げっそりしていた。妻の父親からは、騙されたようなものだ。と言っていたと聞く。そのあと、妻の父親は、ガンで亡くなった。妻は、黙って会社に行く。家に帰ると話しもせずに本を読んでいた。何の本だろと思い、題名を見てみた。田辺聖子の「お母さん、疲れたよ」と書いてあった。悪いことしてしまったなぁと思った。僕の家では、朝日新聞と読売新聞を交互にとっていた。確か読売新聞をとっていた時に、読売新聞群馬工場の求人広告が入った。最初は、僕が見た。家で農業していても、お金にならないし。ハローワーク藤岡の求人にもたまには行っていた。仕事は、あまりなかった。新聞の印刷工場は、藤岡市には日刊スポーツの工場もあり。あの感じかなと思った。

長野冬季オリンピックを控えていた。藤岡市は、関越道と上越道の分岐点である。新潟県と長野県の新聞を印刷していた。
配属先は刷版課。読売本社から送られてきたフィルムをアルミの板に転写するのが主な仕事。プロッターから夕方の5時過ぎから翌日の読売新聞の朝刊の編集記事が次から次へと送られてきました。その前に日曜版のフイルムや自動車の広告のフイルムが届いていました。読売新聞用に3台。報知新聞が2台。製版機が4台。その他には大型のプリンターから新聞用の色ゲラが送られてきていた。モノクロの広告が夕方5時ころから。この時間に夜勤者が毎日出勤する。作業員は製版が3人検番1人の4人体制。2年か3年に一度は号外もありました。最初がイギリスのダイアナ姫の交通事故死。そのあとがアフガニスタンの空爆。連続してイラク空爆。悪いことばかりでした。最後の方では東北大震災もありました。凡そ夜の12時まで製版していました。最後に送られてくるのが1面の編集カラーでした。夜の10時前後に長野県と新潟県の新聞用フィルムが送られてきてすぐに印刷課の輪転機に装着して印刷。群馬県は11時過ぎてから送られてきました。最後に送られてくるのが1面の編集カラーでした。朝刊が印刷が始まると刷版課は休憩。午前1時からはこんどは翌日の広告の張り込みが始まる。二連番の広告のフイルムや二連番の下5段の広告など複雑でした。頭を捻ったのが英字新聞の広告でした。日本の新聞と上下が逆になり微妙に位置がずれていて張り込みは苦痛でした。小さなルーペで中腰姿勢のまま3時間もテーブルに向かうと腰が痛くなった。家に帰るのが午前3時から午前4時でした。入社したては慣れない夜間勤務でコンビニでビールを2本買い家に帰るとやすい料理用ワインを冷蔵庫から出してはお酒ばかり飲んで妻に怒られたりしていました。
僕は、キッチンドリンカーになったと思った。その頃村上春樹訳のレイモンド カーヴァー の短編小説を読んでいたので僕と似ていると思った。職を転々とするところも似ていた。お終いには身体を壊すかと思われた。その時に救われたのが岩波新書の「ガンとは何か」という本でした。いまでは当たり前のことですがお酒🥃にはアセトアルデヒドという発ガン性部質が含まれていることを初めて知る。またタバコを吸う人はサリンと同じ部質のダイオキシンがタバコには含まれているのでガンになりやすいという事を知りました。その当時は、本を読んのが一番楽しみ。群馬県立図書館へ行って、山ほど本を借りては、17号バイパス沿いのマクドナルドで読んだ。ホットコーヒーがお代わりし放題でした。その時は、コーヒー☕️に入れるグラニュー糖が糖尿病になる可能性があることさえ知りませんでした。いまは、ミルクとコーヒーだけで、砂糖は入れないようにこころがけております。

37歳のときに読売新聞群馬工場に入社。配属先は刷版課。読売本社から送られてきたフィルムをアルミの板に転写するのが主な仕事。プロッターから夕方の5時過ぎから翌日の読売新聞の朝刊の編集記事が次から次へと送られてきました。その前に日曜版のフイルムや自動車の広告のフイルムが届いていました。読売新聞用に3台。報知新聞が2台。製版機が4台。その他には大型のプリンターから新聞用の色ゲラが送られてきていた。モノクロの広告が夕方5時ころから。この時間に夜勤者が毎日出勤する。作業員は製版が3人検番1人の4人体制。2年か3年に一度は号外もありました。最初がイギリスのダイアナ姫の交通事故死。そのあとがアフガニスタンの空爆。連続してイラク空爆。悪いことばかりでした。最後の方では東北大震災もありました。凡そ夜の12時まで製版していました。最後に送られてくるのが1面の編集カラーでした。夜の10時前後に長野県と新潟県の新聞用フィルムが送られてきてすぐに印刷課の輪転機に装着して印刷。群馬県は11時過ぎてから送られてきました。最後に送られてくるのが1面の編集カラーでした。朝刊が印刷が始まると刷版課は休憩。午前1時からはこんどは翌日の広告の張り込みが始まる。二連番の広告のフイルムや二連番の下5段の広告など複雑でした。頭を捻ったのが英字新聞の広告でした。日本の新聞と上下が逆になり微妙に位置がずれていて張り込みは苦痛でした。小さなルーペで中腰姿勢のまま3時間もテーブルに向かうと腰が痛くなった。家に帰るのが午前3時から午前4時でした。入社したては慣れない夜間勤務でコンビニでビールを2本買い家に帰るとやすい料理用ワインを冷蔵庫から出してはお酒ばかり飲んで妻に怒られたりしていました。僕は、キッチンドリンカーになったと思った。その頃村上春樹訳のレイモンド カーヴァー の短編小説を読んでいたので僕と似ていると思った。お終いには身体を壊すかと思われた。その時に救われたのが岩波新書の「ガンとは何か」という本でした。いまでは当たり前のことですがお酒🥃にはアセトアルデヒドという発ガン性部質が含まれていることを初めて知る。またタバコを吸う人はサリンと同じ部質のダイオキシンがタバコには含まれているのでガンになりやすいという事を知りました。



僕は1959年2月生まれ。来年の2019年2月で満60歳になります。僕もついに年金が支給される年齢になりました。藤岡市市役所の年金課で話しを聞いてきました。以前から高崎市にあるビックカメラの隣りの群馬県年金事務所にお邪魔しては僕の職歴を調べており。J Aたのふじに14年間。読売新聞群馬工場15年間も働きました。それ以外には高崎弁当に1年。イオンモールの警備員を1年。最初は、高崎イオンモール。次は、新橋駅東口のソフトバンク本社の警備員。巨大なビル🏙が建っていた。東京は発展していた。新橋駅で降りて、ソフトバンク本社まで歩いた。周りが、背広姿なのに僕ら警備員は、警備員服。情けなかった。それでも、東京で働けるのが、少しだけ嬉しかった。
新橋駅がまたお洒落だ。駅前で立ち食い蕎麦がまた美味い。繁華街も散策。まだ一歩歩くと昔ながらのごちゃごちゃした街並があった。ここで、風俗店にも寄る。たった一人で新橋までくると、遊びたくなります。夜の案内所でパンフレットも貰う。また新橋駅の西口でした。新橋駅西口では矢張り駅蕎麦を食べた。美味しかった。競争が激しいから安くても手抜きしてない。イオンモールの警備員時代では、横浜にあるイオン本社にも行く。横浜駅のそごうへ1人で行ったり横浜駅西口のビブレ1階のスタバへ行ったりする。いたらところに値段が高い珈琲屋で1人で時間を過ごす。群馬県には無いドトールコーヒーが横浜駅にあり出勤前に寄っては会社へ行っていた。休みの日でも横浜駅の近く🚉に行っていた。何故か横浜駅西口ばかりで今思うと何も無いけれども行っていた。スタバの近くにおでんの屋台村があり近くまで行った。中は楽しそうでしたが中に入る自信がなかった。相鉄線沿線を散歩。大和市まで行った。矢張りドトールコーヒーがあり駅周辺を散策する。昔ながらの高崎駅のようでした。新横浜駅からバスに乗って野毛の神奈川県立図書館に行ったり、新富町の夜の街をぶらぶらしてました。ホテル中沢ビィレッジに1年。洗い場で働く。現在は食品加工会社でパート社員。まあよく転職してばかりで情け無いやら恥ずかしいやら。下積みの生活を40年間続けました。しかし結婚して2人の娘がいます。仕事は人生の外部のでき事。こればかりは本人が自己で左右することなど出来るものではない。ファイティング🇺🇸スピリットです。シルベスタ・スターロンの「ロッキー」や「ランボー」のように。僕は五木寛之のゴキブリのように。 ある人に言わせると「新井さんは100点満点💯だよ。」オセイジでなくそれだけ出来れば立派だと言われました。今は30代40代で結婚もしない働かない人達がいっぱいいるとの事。やっとこさ来年から年金暮らしが始まります。3割減額してしまうけれども仕方がない。それでも嬉しい。小学校の同級生で4月に生また人達はみんな今月から年金支給されているはずです。羨ましい!2月に生まれてまた損をしてしまう。なにかと早生まれは損な気がします。

まえがき。

男性ばかりの職場です。女性がひとりもいません。夕方の6時から翌日の朝の5時まで。はっきりと言います。陸上自衛隊よりもキツい。365日夜勤と偶に昼勤務がある。油やインクで顔もカラダも真っ黒になる。入社した時は、20代。いつのまにか40代になっていた。「 新井さん。もうお爺さんになっちゃったよ!」とぼやいていました。そんな職場です。読売新聞というの名ばかり。その下請けのまた下請けでした。

読売新聞に勤めていた。しかしながら50代でリストラされた。その思い出が頭の中にフラッシュバックする。新聞の印刷所は、夜中である。その夢を見ました。その夢の中の話し。目の前は、20代から30代の若い子たち。元気発剌。こちらは。ヨボヨボ。白髪頭。慶一は、製版課の責任者。もう定年退職まじか。みんなの前で製版のやり方を話していた。具体的な話しは、出来ない。間違えないように。からなず日付だけどは、確認する様に。こころの中は、良く頑張ったなぁ!30年間だ!女性との間違いもなし。だいいちひとりもいないから。間違いようがない。もうバトンタッチだ!
以前昨日の新聞の日付になっていて。誰も気が付かないで全部印刷してしまった。それを気がついた時には、すでに輪転したが1時間も回っていた。新聞を運送するトラックも出た。日付だけでも。これだけのコトが起きる。間違えないように気をつけて仕事をしなさい!この時は、読売新聞本社から手違いの連絡がすぐに来たから。間違って昨日の原稿を送ってしまいました。記事も昨日の記事でした。外Aだから。外Aとは、国際記事が掲載されているページ。シリア内戦。ニュース速報をとって出し。だから慌てたのだろう。こちらも。記事がラストに校了。時間は、瞬時。12時に印刷開始。その直前まで待たされた。戦争や空爆などが掲載されていた。誰も昨日の記事である事が分からなかった。それは。こちらの手違いではないから良かったけれども。それだって。日付だけでも。製版課で見つけられるようにしなさい!昨日の新聞をまた読者が見たら。怒られるだろう。
最近では、昼勤作業員が現像液交換をした。その日の夜。その汚れた手に液体が手に付いていただけでも。それが製版用のアルミ製の板に指紋が付いたりするから。それは。輪転機を回したら。すぐにわかった。指紋が新聞に付いている。すぐに止めろ。と放送があり。原因は、昼勤が残業したのが原因か。昼勤で現像液交換したら。すぐに帰宅するようになる。残業したから。こんなことになるんだ!とそんな話もした。
かならず現像液交換したら。手を良く洗う。また製版用のアルミの板は、手袋をする様にしなさい!と話した。夢の中の話しです。慶一は、大声を出せない。でも。言っておかなければならないと思った。目の前には、自分の子どもぐらいの若い子たち。心配な点ばかり話しても。前途多難だと思うから。少しはたまになる話しもしないといけないと思った。まずは。ここは。冷暖房完備。パソコンは、最新式の富士通と日本電気NEC。それを毎日使えるだけでも。嬉しいと思いなさい。最新式パソコンが数年おきに変わる。変化に耐えること。新しくなったら。できませんと言わない。
また。新聞が印刷がはじまれば。すぐに検紙。確かにたいへん無い作業だが。毎日毎日。新聞が日本一早く読めるのだから。それも楽しみ。それに毎日毎日。検紙していれば。自然に活字に強くなる。新聞を10分で読めるようになるから。速読術も自然にマスターできる。と話した。また休みは、取れない。と最後に話す。僅か5人か多くても7人とか。休んだら変わりがいない。だから絶対に休めない職場だと話した。あとは、おしまい。実はもっと恐ろしさもある。その頃は、広告は、手作業。全広告ならば簡単ですが。下5段カラーで上がモノクロ10段。その時など。心配で心配で。確かにカラー広告が罫線内に収まるか?心配した。また二連版広告が偶にある。見開きのカラー。それもたいへんな想いで製版した。そんな事を突然だけど。思い出した。しかしながら。その日の挨拶では。言わない。そんな精神的なプレッシャーがある事を話せない。あまりのプレッシャーで胃が悪くなるから。またタバコを吸い始めたりするから。しかし慶一は、プレッシャーに弱いから。毎晩というか毎朝。
仕事が朝まで拘束されるから。セブンイレブンでお酒を買って家で飲んだ。そんな過去の記憶が蘇る。



読売新聞に勤めていた。毎日夜勤なので昼間寝ていた。時差ボケしていて。休みの日の昼間は、寝ていることが多かった。たまに休みの日に家族で出かける事もある。その時は、眠くて眠くて。どこに行っても楽しめない。また慶一は、神経質。些細な事でも気に病む。また当時。家を新築したりで。借金はあるわ。仕事は、綱渡りのような仕事。一歩先は、奈落の底。加藤さんは、間違えたら。クビだからと言っていた。その言葉に目の前が真っ暗。先の無い会社だと思った。だいいち。新聞には、山のように広告が入ってくる。日付だって間違えるだろう。また全員がそんなに優秀では、ない。みんな近くに住む。藤岡高等学校レベルかまたそれ以下の高等学校なのだから。だいいち。夜勤専門の会社に間違いをしないような。そんなに頭が良い人が集める訳ないし。ほとんどが藤岡工業高校が大半。万場高校の吉川君もいたし。慶一は、35歳で新入社員として採用されました。面接では、パソコンは得意とか言ってしまった。実はパソコンは、得意なのですが。〇〇関係ばっかり得意であまり一般的には、得意では、無かった。毎年毎年パソコンが新しいなる。これにもプレッシャーでした。最初は。ブラウン管のような。Windows98。それが薄型のパソコンに変わる。またノートパソコンは、アメリカ製のDELL。その頃は、トップ企業でした。だいいち履歴の消し方を覚えるのが、やっと。また大型プリンターは、参った。紙詰まりばかり。紙詰まりしたまま、次のゲラの印刷をすると。もうパンクした。外部出力端子は、難しい。だってプリントアウトするだけだろう!でもこれに時間がかかる。
しかしながら。慶一は、勉強好きなので。資格をたくさん持っていた。毒物劇物取扱者と危険物取扱者。この二つ。同時に持っている人は、あまりいない。だから採用されました。
たとえば。下5段の広告の罫線が左右均等でない。とか。数ミリの世界で話し合いがある。これにも参った。また赤。青。黄色。黒色。この4色で色が作られる。でもルーペで見ると。ズレたりした。またなにかと話し合いがある。もうすこし精度をあげろ!と上役の加藤さんに言われる。もし万が一。広告を翌日の新聞に間に合わなかったら。またTOYOTA自動車の広告を別の日の広告を入れてしまったり。確かにありました。慶一ではなく。同僚でしたが。広告に入れる車種を同じTOYOTAなのですが。別のクルマを印刷する直前までいく。この時は、ゲラの車種と印刷の車種が違うから。すぐに輪転機が停められた。たとえば。TOYOTAカローラとHONDAフィット。まだ技術進歩してなくて。広告は、バイク便で関越自動車道を走って持ってきていました。10年も経つと。全自動配信。光ケーブルに代わっていきました。初めの頃は。みんな手作業でした。だから。一日が終わると。休憩して。夜中なので。おにぎりなどのご飯関係よりは、胃が受け付けない。だからカップラーメンばっかり食べていた。
翌日やその翌日の新聞の準備をしていました。だから。夜は、2回あるように思った。
この先どうしようかと思ったりした。ふたりの子どもにも恵まれた。しかしながら家に馴染めない。もともと田舎育ちなので。街の中の建て売り住宅は、気持ちが悪くなる。慶一の家は、農家。廻は、田んぼや畑や山林に囲まれていた。その中で。35年も生きていると市街化区域内での生活は、居心地が悪かった。仕事は、慣れない。毎日毎日夜勤。また慶一は、人付き合いが苦手。それは、むかしからの性格でもありました。仕事が終わると。お酒を飲んだ。緊張感から解き放されると。安堵した。そして。寝る。また翌日から、緊張感と背中合わせ。その繰り返しでした。いつのまにか。お酒の量が増えた。最盛期は、毎日ビールを1リットルは、飲んだ。アルミ缶2本。お金が無いから。コンビニ店で買って。家の前にクルマが着くと。すぐに飲んだ。確か40歳を過ぎた頃だと思う。

その頃は、いつのまにか活字中毒になる。本ばかり読んだ。1990年代は、中野孝次が流行っていた。欠かさず読む。それも職業病だと思う。毎日毎日。プロッターから出力される原稿を確認したり。新聞が刷り上がれば検紙をした。活字を読んで無いと落ち着かなくなる。


読売新聞新聞印刷工場には、お風呂がありました。大きいお風呂で20人が同時に入れる。よく入りました。




人間は、一生懸命に生きている。辛い事や悲しい事もたくさん起きてくる。それでも人間は、必死に生きて行く。それだから、そんな姿そのものが崇高なのだと思う。ケンカも有れば。裏切りもある。それが人間なんだと思う。それを耐えて生きる事がほんとうの生き方である。
弦楽四重奏曲ラズモフスキーを聴きながら。
ベートーベンが弦楽四重奏曲ラズモフスキーで、いちばん言いたかった事である。素晴らしい。
ますますベートーベンが好きになりました。



朝早く起きて。ガスト藤岡店で執筆してます。午前中しか書けない。だから毎日毎日毎朝来て、Wifiを繋げてスマホで音楽を聴きながら書いてます。午前8時のガストは、混んでました。モーニングサービスがお目当てだと思う。でも10時になるとお客様は、疎ら。ここは、コーヒー飲み放題なのが嬉しい。音楽は、ミスター・ポストマンをよく聴く。
 下の写真は、読売新聞のインターネットで借りてきました。読売系列の社員なのだろう。マスクをしながらヘルメットを被っています。まだ最近撮影されたものだと思う、あそこは。検紙台といって。神聖な場所。あの上に座ると。怒られます。漫才師の舞台みたいなもの。土足で上がると怒られる。そんな感じなところ。輪転機が4台。各機械に4人。人の気配無し。あそこは、コロナ禍には、罹らないだろう。騒音が凄くて。あの騒音を聴いているだけで。慶一は、ノイローゼになった。夜勤には、頭がガンガン鳴り響く。毎日寝ずに働いていました。身体だけは、壊さないように。そればかり考えてました。父親から。そこは、身体壊すよ!と言われた。だから尚更。病気になるものかと思った。


読売新聞群馬工場に勤めていました。よい思い出は、ありません。嫌な思い出ばっかり。それでも30代半ばから50代初めまで勤めあげた。何かしら痕跡を残して置きたい。また。朝起きると。かならず。読売新聞群馬工場の思い出が夢の中に出てくる。その思い出を変えることは、出来ない。でも記憶を少しでも悪く考えたく無い。だから書きます。簡単に言うと忘れるために書きます。書けば夢に出て来ないのではないかと思えるから。15年間も働いた。夜勤ばっかり。現場ばっかり。総務課というものがあるようなないようところ。新聞の印刷工場だから。現場一筋でした。また。35歳の時にJA藤岡市をリストラされた。風俗で遊び過ぎたのか?または、職場の女性と結婚しなかったのか?定かではない。言っときますが警察には、捕まっていません。酒気帯び運転とか。あまりお酒を飲まなかった。高崎へ遊びに行っても飲まずに帰ってきていたから。リストラされてから半年あまり遊んでいた。アルバイトをしたり農業したり。覚えているは、高崎弁当。なんとなく。高崎駅に同級生の塩崎が国鉄職員で働いていた。高崎弁当では、数ヶ月間。立ち食い蕎麦を作っていました。しかしながら辛い。すぐに辞めました。その頃は、もう結婚していた。その時に読売新聞の群馬県版に新聞印刷工場の採用の募集広告が出ていた。場所は、藤岡市本動堂。ずいぶんと慶一の家の近くである。またJA美土里支所でも働いていた。上越自動車道の脇道に出来るらしい。建物も無い。それでもたまには、近くまで出かけた。やっと鉄骨の骨組みが出来ていた。仕事が無く。路頭に迷っていたので。すぐに募集広告に書いてある住所に履歴書を送った。採用面接会場は、音楽ホールなどのイベント会場である。藤岡みかぼ未来館。なんと集まったのは。200人以上。多分ですが。間違いなく落ちると思った。多分。父親が裏で手を回していた。父親は、藤岡市の自由民主党幹部。県会議員山口清の選対本部長でもありました。だから自由民主党の働きかけで採用されたのだと思う。嘘は、書きたく無い。嘘で過去を美化したく無いから。新入社員といっても。35歳。申し訳ないと思った。初めの頃は、下を向いていた。読売新聞に社員代表として新井慶一という名前が出た。その頃から。埼玉県川越市までマイクロバスで研修が始まる。川越市には、読売新聞埼玉工場がありました。民間企業で光村印刷と言った。最初から、パソコン💻室に入った。たまには、刷版室にも行く。工場は、最新式でした。そこには、40代後半のお爺さんがいた。毎日。説明を受けた。そのお爺さんの名前は、今井さんといった。加藤さんもいた。加藤さんは、新米に出来るのかなぁと?疑問を言っていた。今井さんは、なんとかなるだろう。とか言った。それにしても。みんな歳よりも10歳老けていた。工場は、輪転機が10台もあり。恐ろしさを感じた。慶一は、最初から。パソコン室なので、助かったと思った。毎日。マイクロバスは、よく頑張った。でもよく考えてみたら。城西大学で川越市は、よく知っていました。光村印刷では、食堂もあり。夜勤は、弁当も出た。朝方には、菓子パンも貰った。腹が減っていたので、助かりました。給与は、最初は、忘れました。だいいちに仕事があるだけでも良かった。途中から給与は、良くなった。新聞印刷所は、今でも給与が良いと思う。でも働きに行くことは、お勧めできません。結婚出来ないし。毎日夜勤は、歳を取り。顔が見ているだけで老けて行く。20代30代の青年期の楽しみがまったく無くなります。何故か。クルマだけは、良いクルマには、乗れます。またパチンコが流行っていた。サラ金で借りて。全員がパチンコをしてました。何故か。風俗は禁止でした。おんな遊びは、クビと噂されていた。刷版室の高橋君は、給与は、おんなとパチンコでみんな使った。とコッソリと慶一に、言っていた。ワハハ!と笑った。正直言って。その方が普通だと思う。だいいち伊勢崎市の風俗街が実家近くにあるらしい。慶一は、おんな好きでしたが、結婚したばかりなので。それほどお金は、使わないでもいられた。でも。みんな仲が悪かった。なんであれだけ。仲間割ればかりしているのか?そんなものか?どこの会社も仲間同士でリストラしていました。男というものは、ケンカ早いくて。他人の足を引っ張るものであると思った。NHKのプロジェクトXは、嘘っぽいと思った。もっと会社の現場は、汚い。人間も汚い。苦労などするものでは無い。夜勤などするものでは無い。読売新聞が良い会社なんて。今更。言えない。読売新聞と言えば、悪いと書いときます。嘘は、この際。絶対に書かない。お世話になったのだから、嘘を書きなさい!と言われても。書けないものは、書けない。お互い庇いあって。仲の良い会社でした。それは、恥ずかしく。無い無い。また。馬鹿っぽい男達ばっかり。意外と陽気なところもある。新井さんが。冷蔵庫の他人の弁当を食べた!そんな悪い噂もたつ。他人のコンビニ弁当食べるほど。慶一は、腐って無い!と思った。また職場のパソコンでどこかに出会い系に電話しているとか?まさか。職場のパソコンを私用で使うほど。慶一は、駄目な人間では無い。そんなウワサが何故起きたか。それは。仕事がみんな辛いから。新井さんを傷にすれば、加藤さんをコケに出来る。それが面白くてみんなウワサ話しを流していたのだろう。と思います。でも慶一は、パソコン室なので。そんなに深く現場の人達と話しもしなかった。それは、最初は、助かった。見たりしていたら。もっと現場で働きたかった。と思う。また変な噂も流れた。男と男が恋愛している。冗談だろう?と思ったら。ほんとうらしい。男と男がどんな風に恋愛するのか?それは不思議な話しだと思った。そっとウワサが流れた。男性ばかりの会社でしたから。
この次生まれたら、絶対に読売新聞には、入らない。気の毒で。気の毒で。陸上自衛隊の方がマシだと思った。本音と建前がある。全て本音で書いています。




現在では。読売新聞の工場は。あらゆるものが無人化されたらしい。少ない人員で印刷された。
それが原因でリストラされたのだろう。今でも覚えているのは。ある社員がレジスタマークと広告カラーの色を間違えた時。レジスタマークは、輪転機で色を拾う。しかしながら広告の色とマークの色が違っていれば、広告がズレてしまうという事が起きた。何故起きたか。レジスタマークと広告カラーを、製版機で二重焼きをしたらしい。出来るようになっているが。危険なので。やらなくなる。レジスタマークを単独で焼いて。仮集積して。それから広告カラーを焼くようになる。試行錯誤してました。また各種の新聞が仕事に入ってきた。日曜日版が入り。タブロイドが入り。同じ人数に仕事ばかり増えた。それも楽しい思い出でもあるが。






こんにちわ!新井慶一です!!4月12日(木曜日)

37歳のときに読売新聞群馬工場に入社。配属先は刷版課。読売本社から送られてきたフィルムをアルミの板に転写するのが主な仕事。プロッターから夕方の5時過ぎから翌日の読売新聞の朝刊の編集記事が次から次へと送られてきました。その前に日曜版のフイルムや自動車の広告のフイルムが届いていました。読売新聞用に3台。報知新聞が2台。製版機が4台。その他には大型のプリンターから新聞用の色ゲラが送られてきていた。モノクロの広告が夕方5時ころから。この時間に夜勤者が毎日出勤する。作業員は製版が3人検番1人の4人体制。2年か3年に一度は号外もありました。最初がイギリスのダイアナ姫の交通事故死。そのあとがアフガニスタンの空爆。連続してイラク空爆。悪いことばかりでした。最後の方では東北大震災もありました。凡そ夜の12時まで製版していました。最後に送られてくるのが1面の編集カラーでした。夜の10時前後に長野県と新潟県の新聞用フィルムが送られてきてすぐに印刷課の輪転機に装着して印刷。群馬県は11時過ぎてから送られてきました。最後に送られてくるのが1面の編集カラーでした。朝刊が印刷が始まると刷版課は休憩。午前1時からはこんどは翌日の広告の張り込みが始まる。二連番の広告のフイルムや二連番の下5段の広告など複雑でした。頭を捻ったのが英字新聞の広告でした。日本の新聞と上下が逆になり微妙に位置がずれていて張り込みは苦痛でした。小さなルーペで中腰姿勢のまま3時間もテーブルに向かうと腰が痛くなった。家に帰るのが午前3時から午前4時でした。入社したては慣れない夜間勤務でコンビニでビールを2本買い家に帰るとやすい料理用ワインを冷蔵庫から出してはお酒ばかり飲んで妻に怒られたりしていました。僕は、キッチンドリンカーになったと思った。その頃村上春樹訳のレイモンド カーヴァー の短編小説を読んでいたので僕と似ていると思った。お終いには身体を壊すかと思われた。その時に救われたのが岩波新書の「ガンとは何か」という本でした。いまでは当たり前のことですがお酒🥃にはアセトアルデヒドという発ガン性部質が含まれていることを初めて知る。またタバコを吸う人はサリンと同じ部質のダイオキシンがタバコには含まれているのでガンになりやすいという事を知りました。