10代から20代にかけて。思い出が錯綜してしまい。時系列的とは、行きません。それは。ごちゃごちゃに思い出されるから。浮かんでは、消える。そんな慶一の記憶を拾い出しみた。それは。どう生きたか?が大切である。どんな風に文学に近づいたか?それを書きたい!政治批判は、無意味だから書きたく無い!

今でも思い出すのは、家の二階で外を眺めている自分自身である。休みの日なのに、遊びに行くところがない。そっとカーテンの隙間から外を眺めては、今日も一日が過ぎてしまう。またどこかに行こうにも行き先が無い。たったひとり取り残されていると感じた。たとえばスキーに行った時には、その時は楽しかったのに。よく考えみたら
女性と話しもしなかった。なんであの時にアタックしなかったのだろうかと思ったり。女性がそばにいると避けてしまう。そんなことをしていたら。いつのまにか36歳になっていました。

農協では、鮎川の橋本さんから。慶一ちやんは。アスペルガー症候群だなぁ!と言われた。その時分は、自分でも他者との交流の不得意さを感じてきた。先祖の血族結婚が尾を引いた。ひいお爺さんが黒沢家と結婚してしまった。そこから生まれたお爺さんが障害者でした。お爺さんは、生活するのがやっと。毎日毎日。家に居るだけ。我が家の負の連鎖である。だから身内は、似ていました。真面目過ぎ。周りと交流出来ない。話しができない。すぐに怒りっぽい。仲間外れになりやすい。異口同音で全員が結婚が遅れた。慶一は、障害者かもしれない。と強く感じた。
慶一がそれを意識的に感じたのが。農協に勤めて。確か5年ぐらい経ってから。ふと。誰かが漏らした言葉に反応した。机に座っていた。伝票を書いていた。単純な仕事でした。しかしながらその当時は。バブルが弾けて。農協は、危険な時でした。「 こんなに危ない時期に何やってんだ。!」と言っていた。だからよく覚えてます。1990年ぐらいだと思う。慶一は、30歳。遊びは、ひとりでストリップに行ったりしていた。「 新井慶ちゃんは、発達障害かもしれないね!」「 周りからは、シーンと鼻に人差し指を縦にして。あまり言わないこと!」とそんなジェスチャーを20代から30代まで。たまにですが。されました。親切にしてくれるのではなく。言っては、イケナイこと。真実が隠されていました。それは、自分でも感じた。慶一は、目の前には、壁があると感じた。その壁を打ち破ることは、出来ないと思った。ますます。部屋に閉じこもった。ますます内に潜った。本を読んだり。音楽を聴いたりした。他者との交流不全は、苦しかった。20代前半のゴールデンウィークは、途方もなく長く感じた。家族でドライブに行くことが。夢の夢に感じた。クルマは、TOYOTAカリーナを乗っていた。でも出かける先がなかった。中里の口癖は、「 新井は、一生。結婚出来ない!」と言われた。

そんな慶一は、小学生の頃は
小児喘息を患う。それも慶一の暗い思い出にも繋がる。ほとんど一年間の三分の一は、学校を休んだ。岸君がパンを届けてくれた。お座敷で寝ていた。毎晩。起きていた。お座敷の欄間に富士山が飾ってあった。その絵を毎晩数時間は、見た。また天井の染みを飽きずに見ていた。クスリの飲み過ぎ。は。成長期には、致命的な精神不安定感を生んだ。小児喘息は、呼吸不全になる。コロナウイルス対策の呼吸器のクスリを吸った。メジヘラーと言った。
楽しかったことは、ドッヂボールの時間は大好きでした。外で飛んで回るのが嬉しかった。また家の中で苦しんでることを忘れた。そんな時期に。
慶一は、夢中で恋をしました。小学生の頃です。名前は、由美子ちゃんと言った。でも。その後は。会うことがだんだんなくなる。ボクの進んだ高校は、男子校。城西大学も男子校と同じ感じ。そのうちに女性を恋することが出来なくなっていった。まったく知らない女性には、気持ちが冷めた。生まれや育ちが違うと。もう恋が出来ないのかもしれない。
結婚も遅れがちになる。女性と会っても。話しもできない。好きにもなれない。どうしたのだろう。ボクも思った。周りの同級生も。慶ちゃんは、変わった。慶一は、むかしながらの直情的な傾向がなくなっていった。友達も出来なかった。恋は。もうすでに始まっていて。もう終わっていた。その頃。村上春樹の「ノルウェーの森」が発売された。池袋駅周辺でポッカリと虚に歩き回る主人公に共感した。そして村上春樹も高校時代に付き合っていた女の子ばかり気持ちが行った。慶一と同じだ!村上春樹は、慶一と同じように池袋駅の西武デパートを彷徨いた。慶一は、ときどき。新宿駅や池袋駅を歩いた。その時もひとり。ひとりで立ち食い蕎麦を食べたりした。毎月の給与は、本とCDで終わった。たまに東京巡りもした。疲れ果てて家に帰ってきた。新宿の紀伊国屋書店は、ゾクゾクした。群馬県には、最新刊は、ありましたが。その他の希少価値の本が紀伊国屋書店には、ありました。赤帯の岩波文庫も群馬県には、置いて無いことが多かった。文学に浸っていた。その頃は、紺色のセーターや紺色のカーディガンに灰色のズボンを履いていた。季節は。6月か7月なのだろう。8月ならば。真夏日出し。5月ならば、まだ寒かっただろうから。わざと文学っぽい格好にしていた。文庫本の間の空間を歩いた。開高健の分厚い「白いページ」を、読んだ。どこからでも読めた。
大江健三郎の「厳粛な綱渡り」は、読めなかった。たぶん政治的なところが合わなかった。開高健さんの食と性は、わかりやすい。一日中新宿駅を歩いた。周りは。サラリーマンがごった返していた。日曜日ならば。カップルが楽しそうしていた。慶一は、そんな人達をただ眺めていた。慶一には、どちらも無縁に感じた。劇団とかにも関心があった。がどこに行ったら劇団員がいるのかもわからなかった。それでまたすごすごと家路を急いだ。
農協では。配達員をしてました。それ以外は、やらせてもらえなかった。ひどい会社でした。夕方から。
もうすることがなかった。そんな時に仕事が終わると。パチンコ屋のニューロングに通った。
パチンコ屋で偶然にも中里と出会う。少しだけ海底から海の上に頭を覗かせた。でも生まれながらの性癖は、直らない。中里や茂原とステーキのドンでランチを食べたりすること。それも最初は、ひと月に一回。またそれが楽しみ。でも宙に浮いていると感じた。まだ女性と話しも出来ない。それは、変わらない。テニス大会で中学校の時の校長先生に会う。ボクの顔を嫌げに見た。知っているけど。お互いに不快な気持ちになる。まるでその時も。あのアスペルガー症候群の出来の悪いのにあったとそんな顔をしていた。

小学生の頃に話しが戻る。
あれだけ夢中になったことは、今も昔も。まったくない。その女の子と慶一は、話しをしたことが無かった。学校帰りやクラスの中でも毎日毎日会っていました。それなのに。いくら思い出しても話しの内容がなかった。由美子ちゃんの家は、慶一の家の近くでした。小学校から二人だけで帰ったこともある。でも由美子ちゃんは、そっと後ろ歩くだけでした。
由美子ちゃんの父親は、学校の先生をしていた。あの頃。サッポロ冬季オリンピックが開催された。笠谷選出が金メダルを取る。ジャネット・リンが華々しい活躍をしていました。由美子ちゃんは、ジャネット・リンにそっくりでした。由美子ちゃんが好きになったのは、小学5年生から小学6年生の時でした。その当時は、思い出しても何も記憶が無い。ただ。由美子ちゃんが小説を書いて。学校に持ってきた。ボクに読んでみて!と手渡された!でもボクは、なんで小説を渡すのだろう。と思った。その原稿用紙は、50枚は、ありました。なんの話しなのだろう。と思っていたら。大人になったら。家族でゴルフに行く話しでした。しかしながら。自筆の文章は、恥ずかしさを感じた。その中に意図的な恋文だったのかもしれません。ということは、慶一は、ラブレターを貰ったことになりました。でもラブレターを貰うと。不思議に男の子は、さめた。もっともっと歳を取れば。美女と出会えると思った。でもそれから20年ぐらいは、美女どころか女性とも縁が遠ざかる。。だから慶一は、初恋が一回あるだけで。あとにも先にも。もう何も起こらなかった。20代で恋が終わったと感じた。もう18歳から。慶一の人生は、終わったと思った。それは。同級生の八木君と由美子ちゃんの会話からでした。なんと二人は。付き合っていた。別に付き合っているところを見たわけではありません。付き合っていることを慶一の前で由美子ちゃんが話していました。またその時は、絶望感がいっぱいで。それがどんな意味があらかはわかりません。もしかして。今では。慶一への当て付けだったのかもしれませんが。

シャワー浴びていた。お風呂は、嫌いだから入らない。ボクは、夜はシャワーを浴びない。昼間のうちにシャワーを浴びて。良い気持ちになるのが好きなので。その日は、朝から夕方まで。珍しく働いた。春から夏にかけて。陽気が良かった。空は、青空。麦は、緑に輝く。スコップで田んぼの排水路の泥を掻き出した。
やはり排水溝が大切だと思う。また泥を馬入れに使えました。春先に馬入れを作ることも必要なんです。馬入れとは、トラクターや田植え機を道路から田んぼに入れる畦のようなもの。
はじめてみたら。チカラ仕事は、疲れた。そして家に戻り。シャワー浴びてていた。股の間が膨らんでいました。アレ。ナンダ!ナンダ!その瞬間。もう死ぬな!と思った。陰部の隣りに卵大のしこりがありました。癌だと思った。早い人生だった。冷静でした。死とは、こんなものか?と思った。長い間。高脂血症とコレステロールが高いから。野菜を食べても。コレステロールは、下がらない。たまには。病院に通っていた。クスリを飲んだりしたけど改善しない。そのまま。最近では、忘れてしまっていた。クスリが効かないし。仕事を辞めてから。会社の健康診断も無くなるし。また母親の兄弟が癌で亡くなったりしていたから。余計に癌を意識した。母親の親戚は、早死の家系なのを思い出した。母親の弟が腹に固いしこりが出来ていたのを発見した。すぐに入院した。癌の手術になり。やはり手遅れで亡くなる。その記憶が甦った。あー!そうだ!慶一は、これは同じだと思った。
すぐに藤岡総合病院の緊急外来に行く。その日は、土曜日なので。夜間なので割高とか言われました。でもそんなことを言って場合では無い。
時間外でも受け付けてくれました。すぐに外科の医師二人に診てもらった。股の間を見せた。恥ずかしいとか。もうそんなことは、気にしません。若い医師にあそこを触られました。すぐに。癌では無い。と言われた。皮膚が炎症を起こして膨らんだ。と言われた。またその箇所は、癌にはならないところだそうです。ホットしました。すぐに入院して、癌の手術することになると思っていたので。少し安心したがまだ膨らみは変わらない。その時は、死ぬと思ったので。それからは。ちょっとだけ気持ちが楽になる。抗生物質の塗り薬と痒み止めを貰った。
名前は、ルリクールVG軟膏。
別名。リンデロンVG軟膏。

細菌による湿疹や皮膚の炎症を抑える塗り薬です。ききめが強いタイプのステロイドと抗生物質を含みます。と書いてありました。あとは。飲み薬。フェキソフェナジン塩酸塩錠。そのあとは。一日3回を一日4回も塗り薬を塗った。そしたら。月曜日には、治った。助かった。月曜日に藤岡総合病院の皮膚科に行きました。やはり同じでした。癌では無い。皮膚炎です。クスリも同じで大丈夫と言われました。良かった。
その瞬間に。もし死ぬことになったら。慶一は、書き残した事がまだたくさんある。それを書くことにしました。それは。小児喘息とアスペルガー症候群で長い間。苦しんできた記憶を書かないといけないと思った。

慶一は、36歳まで女性と付き合った事が無い。素人童貞というものでした。慶一は、女性と二人だけで映画に行ったこともない。慶一は、女性と一緒に食事に行った事もない。これでは。結婚出来る訳がない。先日。60歳になり。吉田さんに出会う。慶ちゃんさ!農協の女の子と〇〇をしたことがあるかい!と聞かれた。無いよと答えた。慶ちゃん!〇〇をしなければ。女の子は、結婚してくれないよ!と言われました。そんなものか。確かに歳を取れば。そのことがやっとわかった。
慶一は、
36歳まで何をしていたのかわからない。書きようがない。23歳から30歳ぐらいまでは。休みの日だけ。新宿や池袋を彷徨した。平日は、高崎市の新星堂に行った。ほとんどひとりでした。あとは。ほとんど。
仕事ばっかりしていた。また職場には、女性が居なかった。いても金融関係に限られていた。それでもスキーに一緒に行った女性がいました。もちろん数人が一緒。その女性をたまに夢の中で思い出す。夢の中では、女性は独身を貫いていた。名前は、設楽さんと言った。そしてなんでわたしと結婚してくれなかったのか!と言われる。そして設楽さんは。側の机に泣き崩れた。そして目が覚めた。その時。お付き合いする仕方がわからなかった!と言おうとした。また慶一は、アスペルガー症候群で。何か言おうとしても壁みたいなものがあって。その壁に阻まれたんだよ!と言おうとした。壁を突き破って。話しかけてくれ!と言おうとした。女性と慶一の前に隙間がなく。隙間がないから。そこは話しが続かないと感じた。
そんな隙間があるというか。壁が無いと感じる女性もいました。
品川さんと言った。何故か品川さんは、壁が無くなると思った。その品川さんは、橋本君と結婚しました。それも驚きました。周囲は、知らなかった。だって設楽さんとも付き合ってたはずなのに。いつのまにか橋本君は、品川さんと結婚してました。慶一は、誰とも付き合ってないのに。橋本君は、自由自在だと思った。慶一は、それが出来なかった。慶一は、テニス倶楽部の年配の女性から二股かけていると言われた。慶一は、誰とも付き合ってないのに。二人の女性と付き合っている訳ないと思った。そんなに手が早ければ。テニスは、してないよ。だってデート❤️の方が100倍も楽しいだろうに。なんで土曜日日曜日にテニスしていて。女性がいる訳ないし。
男女の仲は未知だと思う。

また心が優しくなかった。慶一は、こころが冷たくなっていた。慶一は、ひどい虐待を受けていたと思っていた。会社の上役は、仕事をしないでみんな慶一にやらせていると錯覚していた。またみんなが金融機関なのに。慶一は、ガソリンスタンドばかり働かされていました。あとは、配達員ばかり働かされていた。たぶんそんな時に職場とか周りとか不満があり過ぎたと思う。それが一番かもと思うこともある。がやはりアスペルガー症候群のせいか?とどちらかだと思った。

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