城西大学経済学部

今から40年前になります。月日が経つのが早いなあ。まだ2〜3年前のような気がします。父親が購入した日産サニーに乗ってました。休みの日の度に埼玉県坂戸市川角駅近くのアパートから毛呂山町によっては中華そばを食べてから群馬の実家に帰っていました。国道254号線を越生町小川町寄居町児玉町を通り帰っできました。道がくねくねして山の中の暗闇を無闇やたらと走った。よく事故もなく通えたもの。ときどき灯りが付いた開けた町を通ったと思うとまた寂しそう村村を通りやっとこさ藤岡市に辿り着きました。学生時代には自動車や八高

線でよく通いました。何しろ理学部数学科を2年留年して経済学部に転部し6年間も大学へ行ってました。大海軒の中華そばは確か1年生のときは330円で食べられた。卒業する頃には400円だった気がする。量が多くて食べごたえが有りました。一週間に3回は食べに行ってました。今でもいままでに食べた中華そばで一番美味しいと思う。土日休みの午前中は店の外迄20分ぐらいは行列のできる地元では大人気のお店です。杉並区永福町系大勝軒の系列。豚骨煮干し醤油で味付け。麺は中太縮れ麺。大勝軒草村商店で麺を製造。だしは醤油ベースに豚骨背脂人参玉ねぎそれに山口県産のイワシの煮干し。麺は290gで2玉。最近でもないけど2年前に食べに行って見ました。やはり頑固そうな店主は亡くなって居なくて跡とりの息子さんに代変わりしていました。僕が昔にお客さんとして行き「ラーメンください。」というと職人気質のおじさんに「うちには中華そばしかありません。」とよく言われました。側のカウンターにはあのころからの叔母さんが変わらずに居たので驚きました。叔母さんは僕のことを覚えているらしく「知ってるひとだね。懐かしいね。」と言ってくれました。

小説「1970年のピンボール」村上春樹が文芸雑誌「群像」に掲載されているのを買って読んだことがあります。1980年でした。ジョンレノンがニューヨークで暗殺された年だからはっきりと覚えています。城西大学経済学部3年生でした。大学の裏手にあった城西堂書店で「群像」購入する。しかし読んでみたものの感動もしなければ、優れている小説であるとは思いもしませんでした。後年になり、村上春樹が自伝的小説でリアリズム文学の「ノルウェイの森」を発表しノーベル文学賞候補の人気作家になるとは、思いもしませんでした。寒くない夕方でしたので、夏から秋にかけてだと思います。汚いジーンズに赤色の半袖のポロシャツを着ていました。何しろ服は、それしかなく2年間同じものを着ていました。下宿先で洗濯するたびに、着替えがなくて困っていたのを覚えています。大学の正面入口を雑誌の「群像」を広げて歩きながら読んだことを微かに記憶する。友達も少なく、勉強もせず、アルバイトもせずに親の仕送りだけで生活。20歳のころは、今以上に不幸。当然のことですが、彼女もいませんでした。そのころは、女性と話しさえできませんでした。女性の前に出ると僕は思考停止状態になってしまう。女性と会話したりすることが、僕には、うまく出来なかった。いまでもそうですが。学生時代は、難しい本も読めず、古典文学は無縁で 退屈しのぎに森村誠一の推理小説ばかり読む。部屋には、「新幹線殺人事件」や「高層の死角」など100冊ぐらい安いスチール製の本箱に並べる。学校だけは、休まずに通っていた。もう2年間も落第していたので、もうこれ以上は親に迷惑を掛けたくないので学校だけは、行ってました。理学部数学科から経済学部に転部していたので、卒業出来る様に新たな必修科目の単位を取る勉強をしていた。城西大学薬学部のすぐ東側にあった第一福島荘に下宿。綺麗な女子の薬学部の生徒と道端で擦れ違うたびに、僕には、無縁の世界を感じていた。下宿先の場所は、東武東上線の川角駅を降りてから1500mぐらい歩いて 城西大学の正門前を高麗川の方角に100mぐらい歩いたところにありました。現在は、コンビニのファミリーマートになっています。下宿先は、四畳半一間でひと月一万円。木造建築2階建てで、お風呂と台所は、共同。トイレが部屋の隣にあった。築10年ぐらいのおんぼろなアパートでした。城西大学は、高麗川がうねうね流れている川の流域にある。欅の木立が鬱蒼と茂った高台にあるので、昔からけやき台とも呼ばれています。西南には、富士山が見える。西側には、秩父の山並みがあり。武蔵野台地の一部です。檀一雄の小説。「火宅の人」のなかで、壇一雄が小学生の頃、夏休みには高麗川へ泳ぎに来ていたことが書いてある。楽しい思い出らしく、大人になってもこの近くに住もうと土地を探したと書いてある。東京にある大学より自然環境だけは、いい所です。緑が多く空気が綺麗。しかし環境が良すぎて勉強するには、刺激の乏しいところかな。学生運動が下火になっては来たとはいえ新宿の紀伊国屋書店には高橋和巳の本が平台に山積みされていたり 大学正面入口の理学部の掲示板には、政治的な注意喚起がなされていたりしていましたが、それでも学生の間には、マルクスのマの字も無かった。隣の大学が城西歯科大学であったり、すぐ近くには埼玉医科大学があったりで、どちらかと言うとお金持ちの家の学生が多かったような気がします。友人には、四方宏敏や新原浩がいました。大学の学生食堂まで歩いて5分ぐらいだったので、お昼と夕飯は日替わりランチを食べることが多かった。値段は、日替わりランチが250円でした。あとは、部屋の中で日清のカップヌードルカレー味をおかずにして、食パン一斤を食べたりしてました。村上春樹の短編小説「パン屋襲撃」は、調べてみると1981年。僕の下宿先の福島荘から100m裏手に、流行らないパン屋さんがありました。お腹が空いたときには、この短編が他人事ではなく、僕にとって切実な実感を伴って読んだ覚えがあります。(続きを検討中)


第一福島荘は、城西大学の東側にあった。現在はコンビニのファミリーマートになっています。建物は木造建築の2階建て築は10年ぐらい。部屋は四畳半一間、トイレは共同で水洗トイレでは無かった。お風呂は、20人もいたのにバスタブは一人暮らしの一人ようの大きさでとても大勢が入れるものではなかった。学生時代はそこの下宿の学生はだれもかれもそうとう汚れていたと思う。僕の部屋は一階で102号室であった。家賃は月一万円。毎月5万円の仕送りで何とかやっていた。101号室隣が茨城県から来ていた横田で103号室が福島県から来ていた尾形。僕は人見知りで勉強嫌い。6年間も大学に行っていたのに勉強した記憶がまったくありません。ほとんどひと付き合いもせずに部屋に閉じこもっていた。食事がついていないので電気炊飯器を購入したがあまり使わなかった。小型の冷蔵庫には何も入ってなかった。日清カップラーメンのカレー味と食パンで毎日過ごしていた。部屋では推理小説ばかり読んでいた。その頃流行っていた森村誠一の本ばかり山のように読んでいた。大学に入学した当時は、硬式テニス部に入ったが夏休み前に止めていた。そのときに仲の良かった薬学部の田口と大学正面の喫茶店でテレビゲームをして遊んでいた。本好きなので話が合う。彼はフランス小説家でバルザックの「ゴリオ爺さん」を読んだりしていたが、僕には今もってどこがいいのかさっぱりわからない。彼はそうとうませていてテニス部の女子部員と付き合っていた。彼女は薬学部で名前が内藤恵美子と言った。家が東京の歯医者さんでお金持ちらしかった。学食でたまには一緒に250円のランチを3人で食べたりしたが、僕は彼女とほとんど喋ったことはなかった。彼女は4年生の時に大学のキャンパスで僕とそっくりな男子学生と仲よさそうに付き合っていた。ふたりとも内気で大人しそうなのがお似合いだなと思った。そのころは僕は理学部数学科から経済学部に転部していた。勉強しなくても学校さえ行っていれば単位が貰えたので出席だけしてその合間は大学の図書館に行って本ばかり読んでいた。古典文学とは無縁で図書館に柴田錬三郎全集の時代劇小説がその頃ただひとつ読めたので片っ端から借りてきて読む。眠狂四郎シリーズは読まないでその他の小説「お江戸日本橋」のほうを読んだ。大学の3年生ぐらいで部屋が107号室に移る。そこには僕と同じようあまりひと付き合いしない四方弘敏と卓球部の新原浩がいてこのふたりとは3年間よく遊んだ。そのころソニーラジカセを川越東口の安売りのロジャースで買って毎日ビリージョエルの「さらばハリウッド」の入ったレコードやサザンオールスターズの「いなせなロコモーション」を聴きながらラジカセに向かって一緒に歌っていた。みんなからうるさい静かにしろと言われたりしたが、部屋が隅っこで隣が納戸なのであまり気にしなかった。実家の父親が畑を一反ばかり売ったせいか3年生の頃から仕送り額が7万円になっていたので部屋では食事をしないで四方弘敏や新原浩と城西歯科大学の裏側にあった「みさお食堂」で夕飯を食べていた。頼むのはみんな同じでチキンカツ定食。ごはんは食べ放題でしたので毎回どんぶり2杯は食べていた。値段は400円。その食堂には大学周辺に住む学生がいつも来ていた。その中には理学部数学科のもと同級生もいた。みんな学校の先生になったり、校長先生になる子もいた。いまでも寝る前や起きたてのときなどもうちょっと勉強を頑張れば良かったと悔やむことがあります。1980年の暮れもやはり相も変わらず部屋でラジカセを聴いたりインスタントコーヒーのネスカフェの大瓶でコーヒーを飲んだりして遊んでいたら、下宿の廊下を地主(苗字)がドタドタと大声をあげて走ってきた。「ジョンレノンが暗殺された。」と言いながら走り回っていた。部屋は107号室でその日は四方の部屋でステレオで音楽を聞いていた。12月の寒い日でした。第一福島荘は、城西大学の東側にあった。現在はコンビニのファミリーマートになっています。建物は木造建築の2階建て築は10年ぐらい。部屋は四畳半一間、トイレは共同で水洗トイレでは無かった。お風呂は、20人もいたのにバスタブは一人暮らしの一人ようの大きさでとても大勢が入れるものではなかった。学生時代はそこの下宿の学生はだれもかれもそうとう汚れていたと思う。僕の部屋は一階で102号室であった。家賃は月一万円。毎月5万円の仕送りで何とかやっていた。101号室隣が茨城県から来ていた横田で103号室が福島県から来ていた尾形。僕は人見知りで勉強嫌い。6年間も大学に行っていたのに勉強した記憶がまったくありません。ほとんどひと付き合いもせずに部屋に閉じこもっていた。食事がついていないので電気炊飯器を購入したがあまり使わなかった。小型の冷蔵庫には何も入ってなかった。日清カップラーメンのカレー味と食パンで毎日過ごしていた。部屋では推理小説ばかり読んでいた。その頃流行っていた森村誠一の本ばかり山のように読んでいた。大学に入学した当時は、硬式テニス部に入ったが夏休み前に止めていた。そのときに仲の良かった薬学部の田口と大学正面の喫茶店でテレビゲームをして遊んでいた。本好きなので話が合う。彼はフランス小説家でバルザックの「ゴリオ爺さん」を読んだりしていたが、僕には今もってどこがいいのかさっぱりわからない。彼はそうとうませていてテニス部の女子部員と付き合っていた。彼女は薬学部で名前が内藤恵美子と言った。家が東京の歯医者さんでお金持ちらしかった。学食でたまには一緒に250円のランチを3人で食べたりしたが、僕は彼女とほとんど喋ったことはなかった。彼女は4年生の時に大学のキャンパスで僕とそっくりな男子学生と仲よさそうに付き合っていた。ふたりとも内気で大人しそうなのがお似合いだなと思った。そのころは僕は理学部数学科から経済学部に転部していた。勉強しなくても学校さえ行っていれば単位が貰えたので出席だけしてその合間は大学の図書館に行って本ばかり読んでいた。古典文学とは無縁で図書館に柴田錬三郎全集の時代劇小説がその頃ただひとつ読めたので片っ端から借りてきて読む。眠狂四郎シリーズは読まないでその他の小説「お江戸日本橋」のほうを読んだ。大学の3年生ぐらいで部屋が107号室に移る。そこには僕と同じようあまりひと付き合いしない四方弘敏と卓球部の新原浩がいてこのふたりとは3年間よく遊んだ。そのころソニーラジカセを川越東口の安売りのロジャースで買って毎日ビリージョエルの「さらばハリウッド」の入ったレコードやサザンオールスターズの「いなせなロコモーション」を聴きながらラジカセに向かって一緒に歌っていた。みんなからうるさい静かにしろと言われたりしたが、部屋が隅っこで隣が納戸なのであまり気にしなかった。実家の父親が畑を一反ばかり売ったせいか3年生の頃から仕送り額が7万円になっていたので部屋では食事をしないで四方弘敏や新原浩と城西歯科大学の裏側にあった「みさお食堂」で夕飯を食べていた。頼むのはみんな同じでチキンカツ定食。ごはんは食べ放題でしたので毎回どんぶり2杯は食べていた。値段は400円。その食堂には大学周辺に住む学生がいつも来ていた。その中には理学部数学科のもと同級生もいた。みんな学校の先生になったり、校長先生になる子もいた。いまでも寝る前や起きたてのときなどもうちょっと勉強を頑張れば良かったと悔やむことがあります。1980年の暮れもやはり相も変わらず部屋でラジカセを聴いたりインスタントコーヒーのネスカフェの大瓶でコーヒーを飲んだりして遊んでいたら、下宿の廊下を地主(苗字)がドタドタと大声をあげて走ってきた。「ジョンレノンが暗殺された。」と言いながら走り回っていた。部屋は107号室でその日は四方の部屋でステレオで音楽を聞いていた。12月の寒い日でした。学校へは行ってましたが勉強もしないで遊んでばかりいました。遊びとは行ってもただたんにアパートの部屋でお昼頃まで寝ているだけでした。それでも単位を取る為に出席表には、名前だけはせっせと書いては提出してテストに出るところだけ周りの同級生に聞いて暗記して単位を取る為だけに真面目に学校へ行き遊び呆けていました。アパートから学校まで歩いて3分でしたので、お昼頃になると腹が減ってきてとても寝てられないので仕方がなく学食まで歩いて行きました。薬学部と理学部の間の道を着た切りのジーンズ👖となぜか赤色の組み合わせの半袖のポロシャツ👚を2年間か3年間も着ていました。学食では250円のランチか150円のカレーライス🍛ばかり食べていました。そのあとは大学の事務所がある背の高いビル🏙の最上階にある図書館で柴田錬三郎全集を読んだり、安岡章太郎の怠けものシリーズの随筆と遠藤周作のぐうたらシリーズばかり読んでいました。第3の新人がの本が大人気の頃でした。吉行淳之介の「夕暮れまで」がベストセラーになっていました。出席表を提出するともうする事が無かった。城西歯科大学の裏手に城西堂書店まで散歩に行った。木が生い茂る薄暗い場所に本屋さんがあり、理学部の教科書はここで購入した。推理小説を山のように読んでいたので芥川賞を取ろうと思い文芸雑誌「群像」を購入する。しかしその頃の純文学は全く理解できないでいました。難しい言葉遣いで何を書いているのかサッパリ分からなかった。その文芸雑誌「群像」のなかに村上春樹の1970年のピンボールがありました。この小説は「群像」に掲載されている小説で最後まで読めた最初の短編。大学の正面玄関にある駄菓子屋さんに寄ってから福島荘の1階の部屋に戻った。下宿先のアパートは木造2階建てで部屋数は20部屋ぐらいあったと思う。部屋の中には坂戸市のトーチクハムで冬季の年末年始のアルバイトしたお金で購入したソニーの大型ラジカセがあった。後は小型冷蔵庫に衣料品を入れておくタンスがありました。理学部数学科から経済学部に転部していた。今度は無為で退屈な毎日の繰り返しが始まる。下宿先の玄関先には靴が山のように散乱していた。ある日突然地主が俺のリーバイスが無くなったと言って大騒ぎになる。僕の部屋まで探しに来ましたが多分アパートに遊びに来た他の学生が新品のリーバイスを履いて帰ったのだろうと思う。同じアパートの中では盗んだりはしないから。夕方から夜になりかける時間が来ると部屋が隣に住んでいた四方宏敏の部屋に行き、城西歯科大学の裏手にある「みさお食堂」に夕飯を食べに行く。四方の部屋の隣り新原宏が住んでいて3人で行くこともありました。みさお食堂ではチキンカツ定食ばかり食べる。ご飯のお替り自由でしたのでいつもどんぶり2杯食べていました。チキンカツはおいしかった。キャベツの千切りにブルドッグソースをいっぱいかけて食べていました。僕が大学生のときは、サザンオールスターズがデビューしたばかり。下宿先では、朝から夕方までどこかの部屋でステレオ太陽族のLPレコードが鳴いていた。福島荘の住人の中に湘南海岸へサーフボードをクルマに積んではサーフィンばかりしている地主の部屋からは、毎日毎晩聴こえてきた。いま流行りの音楽なのかなと思った。僕は、ひとりで部屋にいることが多かった。そのせいかサーフィンに夢中になる友人たちが羨ましかった。大学生になってもう3年は、たっていた。第一福島荘は、大学の正面入り口から高麗川へ行く細い道を100メートルばかり歩いたところにあった。静岡県から来ていた四方と広島県から来ていた新原がいた。二人ともおとなしくて、ひっこみガチでした。やっと城西大学へ入学してから一緒に夕飯食べ世間話をしたまには坂戸市のイトーヨーカドーへ買い物ができる友達でした。大学は寂しい。友達だけが救い。その後からが僕の学生生活が始まったと言っても過言ではない。僕は夕方から夜にかけてひとりで部屋に居ても詰まらないので四方の部屋に遊びに行く。僕も四方もインスタントコーヒーが大好きなのでネスカフェエクセラの大瓶をお互いに買って飲んでいた。今ではスーパーに行ってもデカすぎて買うことがありません。でも時々スーパーで見かけると昔を思い出します。音楽ばかり二人で聴いていた。四方の部屋には珍しくステレオやテレビがあり、いつも小綺麗にしていた。夕飯は大学の裏側にある商店街の中にあった「みさお食堂」でチキンカツ定食を食べた。400円でどんぶりのご飯が食べ放題。僕はいつも2杯は食べた。部屋は4畳半。トイレもお風呂も台所も共同。学食でカレーを食べて夕飯は外食ばかりでした。アルバイトはあまりやりませんでした。仕事がないです。田舎過ぎて。それでも年末に川越市のトーチクハムでバイトをしました。そのお金で川越市の東口のディスカウントストアロジャースでソニーの大型ラジカセを購入する。部屋の中では、スピーカーに耳をあててサザンオールスターズばかり聴いていた。ここは、建物の中では隅っこで誰にも気兼ねなく音量を大きくしても何も言わないだろうと思った。それでも偶には直ぐ上の2階から「うるさい!静かにしろ」と言われた。よく聴いていたのは、「いなせなロコモーション」僕がサザンの中で見つけたノリノリ曲でした。だから僕は、そんな忠告もまっくもって気にしませんでした。その頃が一番楽しかったから。勉強なんかまったくしませんでした。僕は、城西大学理学部数学科から経済学部経済学科へ転部していた。また1年生からやり直してしてました。また新しい環境からスタート。もう留年出来ません。学校へは毎日通う。出席さえしていれば卒業できました。斜めの教室で話を聞いていた。出席だけは、していました。僕は学生時代から図書館に行くのが一番好きなことだけに、城西大学の図書館にはほぼ毎日通っていました。建物の最上階から高麗川や武蔵野丘陵を眺めては、本棚の中を歩いていました。見晴らしが良くて、一人で落ち着いた時間を持つ。読んだ本は、柴田錬三郎の時代劇小説ばかり読んだ。部屋に帰るとその頃ベストセラー小説を書いていた森村誠一ばかり、多分100冊は読んだ。楽しくなければ、読んだことにならないと思っていました。そのほかでは、アガサ・クリスティなど読む。古典的なものは、読めませでした。部屋の中にスチールの本棚には、大衆小説ばかりり並んでいました。

   その年のことは、よく覚えています。1980年の12月でした。大学の2年生でした。僕は、朝から四方の部屋でインスタントコーヒーを飲みながら世間話していたら、突然地主が、部屋から飛び出して「ジョンレノンが殺された。」と大声で下宿の廊下を玄関前まですっ飛んできた。「殺されちゃった。」と嘆いていた。寒い日でした。

  城西大学は、埼玉県坂戸市にあります。池袋駅から東武東上線でおよそ一時間。川越駅から20分。武蔵野丘陵にある。僕が学生時代には東京まで遊びに行くことは稀でした。ほとんど学生は、坂戸市か川越市で買い物やショッピングを間に合わせていた。ココ周辺は、東京都心へのベッドタウンとして栄える。大学のすぐ隣には高麗川が流れていた。浅瀬で水かさが少なく流れも穏やかな清流であると思う。大学は、薬学部と理学部と経済学部でしたが、最近では社会福祉学部や栄養学部などの系列の大学も併設されてきています。最寄り駅は、東武東上線川角駅。ココからよく歩きました。大学に入学した当時は、群馬県藤岡市から八高線で群馬藤岡駅から通った。はじめの頃は、八高線に乗るのさえ嫌な気持ちになる。八高線は単線で途中停車が毎度のこと。乗っている人たちは、おじいちゃんやおばあちゃんばかり。これでは、勉強する気もなくなってしまう。案の定、あまり行かなくなりました。電車は、山の中をくねくね走っていた。慶一は、親からの仕送りだけを頼りにしていた。最初の頃は◯円。卒業する頃には、◯円でした。下宿は、城西大学の正門前。両親が、慶一がまた学校にも行かずに埼玉県川越市の繁華街などの遊び場をほっつき歩かないように、城西大学事務長の自宅の裏側にありました。慶一は、その前年までアルバイトばかりしていて、学校へあまり行かなくてなっていた。その年の3月に理学部から経済学部に転部。数学の線型代数学の必修の単位が取れなかった。前期が0点、後期も0点でした。親が大学の事務局へ行き、なんとか卒業だけは出来るように頼み込んでいた。「薬学部は無理だけど経済学部ならまだ空きがあるから。」と言われた。父親の道雄は、ホットしたのか、ついでにそのとき、奨学金も貸して貰えないかと頼み込んだら、「頭が悪い学生には、奨学金は貸せない。」と言われたという。父親は、わははと笑いながら話していた。城西大学に入学してから、もう3年になっていた。仕送りは、郵便為替で送られてきた。親には何も連絡もせずにいました。有り難くも感じなかった。同じ下宿であった仲の良いSなど銀行の口座に100万円を入れられて使いきれないなどと吹聴していた。実家は、賃貸マンションを経営しているという。あの頃は、商才を発揮できる家も幾らかあり、それでもほとんどみんな貧乏なせいかまだ切実な貧困が到来してはいなかった。城西歯科大学らしい歯科医の家庭は、ドイツ車のフォルクスワーゲンで通っていた。それでもまだその当時は、明るい未来が少しだけど感じられました。なんとかなるさと思っていた。地方から出てきた農家出身の慶一は、家庭が貧乏で父親はケチでかなわない。と思っていましたが、でも家の内情を知っているから、これぐらいが精一杯なのだろうとは思った。慶一は、少ないお金をだいたい半月ぐらいで使ってしまっていた。そのあとは、またかつかつの生活に逆戻りした。アルバイトもせずに下宿で寝ていた。勉強もしないで音楽を聴いたりしていた。その頃流行りのサザンオールスターズのステレオ太陽族のLPを聴いていた。城西大学の思い出。40年前のお話です。

学校へは行ってましたが勉強もしないで遊んでばかりいました。遊びとは行ってもただたんにアパートの部屋でお昼頃まで寝ているだけ。部屋は四畳半一間で家賃は1万円。小さな洋服ダンスとスチールの本箱。それに、小型の冷蔵庫があった。冷蔵庫は、空っぽ。布団を敷くと足の踏み場もないくらい散らかっていた。カップラーメンがあちこちにある。仕送りは最初は5万円でしたが卒業する頃は7万円になる。自炊の用意はしてあってもほとんど外食。父親が畠を一反売ったのでお金がありました。弟も大学に通い始めたので、お金がかかった。それでも農家は、土地を売ればなんとかなった。いまは、農地は二足三文だという。下宿では、勉強はまったくしませんでしたが、学校へは真面目に行ってました。こういのは、ダメな学生なんだろう。勉強しないが本だけはよく読む。面白くなければ、読んだことにはならない。其れのみが、僕の信条。だから大衆小説ばかり読んでいました。その頃は高度経済成長期で年間7パーセントの成長率を上げていて未来は明るい展望でした。経済学部は、前期後期と2回試験があった。作文ばかり書かされました。取り敢えず、なんにやらカニやら書いておけば、単位がもらえました。ただ日米安全保障条約とかは、絶対に答案用紙に書いてはいけないと学友の暗黙のルールは、ありました。連合赤軍の余波がまだ構内のあちこちにあった。京浜安保なんて名前も覚えています。理学部数学科の掲示版には、他校の内ゲバの情報が添付されていました。僕が通っていた城西大学経済学部は、経済学原論や経済統計学とかの試験では、だいたい高度経済成長云々と書いておけば、単位が貰えると言われていました。その割にというかやっぱり卒業しても就職する会社は無かった。今から考えると戦後の荒廃からやっと脱けだそうとしていた時期であったのだろう。僕はと言うとそれでも単位を取る為に出席表には、名前だけはせっせと書いては提出した。もうすでに2年間落第していたので必死でした。テストに出るところだけ周りの同級生に聞いて暗記して卒業できる最小単位を取る。勉強するのではなく、卒業するために学校へ行ってました。就職する前の夏休みでした。アパートから学校まで歩いて3分でしたので、お昼頃になると腹が減ってきてとても寝てられないので仕方がなく学食まで歩いて行きました。薬学部と理学部の間の道を着た切りのジーンズ👖となぜか赤色の組み合わせの半袖のポロシャツ👚を2年間か3年間も着ていました。お洒落な薬学部の女子大学生に笑われた。学食では250円のランチか150円のカレーライス🍛ばかり食べていました。そのあとは大学の事務所がある背の高いビル🏙の最上階にある図書館で柴田錬三郎全集を読んだり、安岡章太郎の怠けものシリーズの随筆と遠藤周作のぐうたらシリーズばかり読んでいました。第3の新人がの本が大人気の頃でした。吉行淳之介の「夕暮れまで」がベストセラーになっていました。僕が通っていた大学は、城西大学です。その時の友人にSがいました。同じ下宿で部屋が隣。生まれは、広島県広島市安佐南区。昭和20年8月6日午前8時過ぎ。アメリカ🇺🇸軍が原子爆弾を投下した。死者は、17万人。(その年に亡くなった人の数。)  Sの自宅は、その数キロ先。Sは、その事実を隠しませんでした。しかしあまり誰も聞かなかった。Sは、その話しを持ちかけると困った顔するだけで、その他の事は何も話さなかった。そのSの家に遊びに行ったことがあります。夏休みが始まる時期でした。Sが、実家に帰省するから、ウチに遊びに来るかいと言われた。何も知らないので、行ってみた。僕には、無鉄砲なところがあった。それにしても、遠かった。片道約1000キロもあった。僕のクルマで行った。自動車は、ポンコツの日産サニー。父親のクルマを借りていた。Sは、助手席に乗り東名高速道路。阪神高速道路。中国高速道路。なんと高速料金が新幹線よりも高かった。帰りの高速料金が無くて、Sに借りました。ちゃんとお金は、返しました。僕は、お金の貸し借りだけは、真面目でした。


     その日、父親がよく来てくれたと喜んでくれた。翌日には、親戚の蜜柑農家に連れて行ってもらう。田舎道を山間の中をクルマで走り、橋を渡った。陸地に近い島になっていた。瀬戸内海が一望できる山肌に蜜柑畑が、緑色の葉を生い茂っていた。山は、急な坂道で、遠くに水色の海が見えた。畑の中には、蜜柑を、下ろす鉄製のトロッコが設置されていた。

帰りは、広島市街地を素通りした。原爆ドームには、行きたくなかったので、正直言って僕は、良かったと思った。広島県の海岸沿いには、三菱造船所とか三菱重工業らしい工場建物があった。その近くの海の中に黒い電信柱が浮いていた。なんだろうと良く見ると、潜水艦が2隻か3隻浮いていた。まだこんなものがあるのかと思い震えた。Sの父親は、男らしく身体付きも良かった。ガラガラ声で太っ腹なイメージでした。何処か身体の具合がよくなげでもあった。Sの母親は、おとなしそうにしていた。まだ若そうでした。「私は、広島県の山のほうから、嫁に来たの。」と言った。確か中国自動車道路🚗の方だなぁと思った。随分と高速道路が山の中で、自動車がまったく走ってなかった。どこかそう言えば、母親は、田舎ぽい感じ。Sは、父親よりも母親に似ているた思った。

Sは、下宿では人柄良くみんなに好かれていた。目立たない。おとなしそう。深く話しは、しない。まあシャイな感じでした。自分から積極的に話し掛けることがなかった。いるのかいないのか、わかりませんでした。だから始めは、お付き合いは、してませんでした。Sは、城西大学卓球部に所属していた。

いまでは、メジャーなスポーツですが、当時はパッとしないスポーツでもあった。Sは、部活が終わるとさっさと風呂に入って寝ていた。4年間真面目に卓球部に所属する。下宿の人とは、麻雀の時以外は、寝ていた。いつも、親が使い切れないほどお金を銀行に振りこんでくれる。と話していた。家が賃貸マンションを経営しているとのこと。それでいて、質素なんだ。毎月5万円もあれば、足りる。という。顔だちは、読売ジャイアンツの上原浩治(うえはら・こうじ)に似ていた。頭は、スポーツ刈りで短くいつも良く笑っていた。シャイな感じでおとなしかつた。だからあまり話しもお付き合いもしてませんでした。もう1人の友達のYは、いつも部屋に居た。Yからは、まだ結婚式の招待状が届いてなかった。卒業後。10年が経ち。Sの結婚式にも行きました。もちろんYも一緒。結婚式には、長渕剛の「 乾杯 」を歌う。その結婚式の日に城西大学卓球部のキャプテンに会った。キャプテンは、礼儀正しく。「Sの結婚式に来てくれて、どうもありがとう。」と言ってくれた。


最近では、もう年賀状のやり取りもなくなった。40年も前ですから。3人とも城西大学経済学部。ほとんど勉強は、しませんでした。だいたい昼間まで寝ていた。夕方から夜にかけて、腹が減るので、よく3人で城西歯科大学の北側にある食堂へ夕飯を食べに行った。

   2月28日は、僕の誕生日でした。まだ寒い冬の夕方。もう少しで、城西大学経済学部の卒業式を控えていた。Sが珍しく学食に夕飯を食べに行こう!と言った。下宿から大学の学食まで歩いて3分。食券機の前でSが「新井さん!今日は、誕生日だろう。」という。「おめでとう㊗️。新井さん?カレーライス奢るよ!」僕は、急なので驚く。正直言って、その時嬉しくって涙が出そうになった。カレーライス🍛を食べながら、いやほんと泣いちゃった。