①城西大学理学部数学科に入学しました。
城西大学理学部数学科の思い出。記憶の片隅を掘り起こしてみます。
八高線にはよく乗りました。あたりは殺風景な田園風景が続き来る日も来る日も同じ風景を見ていました。座っている人たちも田舎風なおばちゃんが退屈そうにしていたり自動車に乗れないおじいちゃんばかりが電車内にちらりといるだけでした。朝には大東文化大学の学生も幾人かいました。僕は五木寛之の文庫本を固い紙の四角いカバンに入れて群馬藤岡駅から越生駅まで乗りそこから東武東上線に乗り換えて川角駅で降りて大学まで歩いて行きました。どうして五木寛之を覚えているのかというと僕が内藤恵美子さんに学食で本の話をしたら「私は五木ひろしの大ファンよ。」と言われたのを覚えているから。その時は田口君もいました。二人は硬式テニス部で知り合いになりました。僕は、夏休み前に辞めていました。「珍しいね演歌が好きなのは。」その時はこころの中で思った。田口がその時にそばで「恵美ちゃんは五木ひろし演歌全集をアパートで聴いている」あの時内藤さんが私は毎日高校の数学の勉強しているわ。昨日の夜は3時間も微分積分も勉強した。そんなことを僕に言っていた。あれは暗に僕に大学1年生は高校の再勉強なのよと言ってくれたのかもしれない。もっと勉強しなさいと言いたかったのだろうか。田口も勉強は大嫌いでバルザックばかり読んでいた。僕は、森村誠一小説ばかり。サスペンスものが好きでした。田口君ふたりで城西大学前の喫茶店でインベーダーゲームをしては遊んでいた。こんなことばかりしていてこの先どうなるのだろうと思ってはいました。それからふたりとは疎遠になり大学の4年生の時に内藤さんが僕と似ている男の子と一緒に見掛けました。学食で250円のランチを食べて授業に出はしましたが話も聞かずに午後の3時過ぎにはまた八高線で群馬県まで帰って来ました。最初はお昼を食べに行くだけで一日が終わりました。教科書は城西堂で購入しました。それをお洒落な紐で十字に結んでいた。理学部数学科は正門前を潜ると左手にありました。鉄筋コンクリートの4階建てで部屋には黒板と机しかありませんでした。広さはやはり高校の時と同じ。大学1年生の授業は微分積分学と線形代数学が必修科目でした。しかしその線形代数学がまったくわからない。教科書を読んでもわからない。焦るは焦る。でもわからないものはわからない。どうにもしょうがない。それでも2年生には自動的に進級しましたが、もう学校を辞めようと思いながらも出席だけはしていました。学校の担当の先生は何も教えないで全員が基礎数学が出来ると思い授業が始まった。教科書は微分積分学の本ですが高校の教科書のような丁寧な書き方でなく内容が不親切で難しく感じた。もう勉強する気が無くなっていたので高校の教科書も無くなっていた。第一、数学はもう忘れてしまった。また前期後期の試験がありましたがもともと大学は家で勉強するのが当たり前なのでテストは零点でした。白い紙に問題が2問あるだけで何を書いていいのか分からなかった。勉強に付いて行けなくなりました。僕も数学の勉強が嫌になり、授業に出席しなくなり学校にも行かなくなりました。ひとりで八王子方面の電車に乗らないで高崎駅で降りてぶらぶらするようになった。たまには上越線の電車で新潟県まで行ってそのまま改札口を出ないでまた群馬県に帰って来たりしてました。お腹が空いて人が食べ残した駅弁を食べたこともある。僕のような学校の勉強に付いていけない友人もいた。学食の前でこれからどうしようと話しをした事も有る。あの時高校の教科書を引っ張り出してもう一度やり直して数学をやり直せば良かったと今は後悔しています。あの頃は愚かでひとと話ができず誰かに聞いていれば良かった。大学は基本的には数学が出来るひとが集まるので、先生が手取り足取り教える所ではないということさえ分かりませんでした。(追伸) 線形代数学とは中学2年生で勉強した連立方程式の2次関数を解く事でした。計算するときにxとyを省いて行列式でする事なんです。そのスピードの速さがパソコンのCPUの性能になる。そのころ数学科の教室では頭のいい同級生の間でいま学んでいることがパソコンのインターネット検索の原理に利用されることになると誰と言わずに全員が薄々感じてはいた。教室の中でパソコンという未来の機器はどんなものなのか何かしら凄いものらしいと言い合っていました。もう40年前の話で年代は1978年から1980年の頃の事です。城西大学は、医療系なのが良かった。自然がいっぱいで、武蔵野台地の天辺付近に広がった。周りの学生は、お金持ち風でした。城西歯科大学も同じ場所でした。そのせいかとも思う。外車が道端に置いてあった。此処は、いい。楽しそうだ。加山雄三さんの映画の若大将シリーズに出てくる学園風でした。それに僕は、物理は苦手で生物や化学が好きでした。しかし城西大学理学部数学科は、受かったのは、良かったが、授業が難しくて困った。数学の教科書も難解でした。高校生の時とは、まったく違っていた。例題がない。答えの本もなし。それに勉強などもうする気がなかった。女の子とテニスすることだけが、楽しみ。美人とデートが夢でした。1年生の春に硬式テニス部の坂戸市民大会に応援しに行く。主将の村上さんが朝早くから坂戸駅でケーキを食べていた。景気ずけて行こうとひとりで苺のショートケーキを食べていたのを思い出します。もう一人の主将の菅野さんが何かしら言っていたのを思い出します。村上は、「 朝っぱらから変なもの食う」とか。僕はカッコイイと思った。明るい。元気があった。テニス部主将が2人いたんだな。歳は、同じだけど村上さんは、1年か2年浪人していた。テニス部は、全員が電車で坂戸駅で降りた。僕は球拾いでしたのでただ付いていくだけでした。坂戸駅からテニスコートまでは歩いていく。まだ僕が1年生に入学したばかりの時。市民大会なので、負ける事がなかった。シングルスは、山崎君が優勝。高校から硬式テニスしていたらしい。勝っても嬉しげではなかった。

慶一は城西大学理学部数学科に入学しても推理小説ばかり読んでいた。森村誠一。アガサ・クリスティ。そしていつもなにしにきたのだろう。微分積分を忘れてしまった。線型代数学の意味がわからなくなった。今考えると。2つの二次関数を解く方程式でした。線型代数学という学問が高校生で勉強して来なかった。それは中学生の数学でした。学校にいかないし。クラスには溶け込めない。勉強はもうついていけなくなった。どうしようか?これから先が心配していた。それは今思い出しても辛い記憶でした。数学科の友達から線型代数学がパソコンの基礎だよ。と言われて。一生懸命に勉強するように言われた。でももうやる気がなくなっていた。
アルバイトもやる。東松山の東洋製缶とか。コカコーラの缶を製造するライン作業。川角から電車に乗り坂戸市で乗り変えて。東松山の駅で降りた。もう真っ暗なのに。数人の労働者がバス停で待っていた。そこから東洋製缶のバスで工場まで乗せて行ってくれた。話しを聞くと。池袋駅から来ているそうだ。背広姿で革靴を履いているが。工場に着くと作業着に着替えた。でも革靴は履き替えがないのでそのまま。革靴で働いている仲間が居た。そうしたら。サラリーマン風の人達は。一晩中働いて9000円なのに。手配師に1000円もピンハネされていた。慶一は18歳で社会の実体を見た。そして若い男性から驚く話しをした。数人の池袋駅から来ていた若者達は週末になると池袋のディスコに行くらしい。そこで女の子をナンパするためにお金を稼いでいると言っていた。ラブホテルの話しやセックスの話しを永遠と話していた。女の子とあれをやるのは最高だねー!とかそんな話しをしてました。慶一は別の世界を覗いた気がした。
たまには坂戸市の学生ローンでお金を借りたりした。また坂戸市の南口のピンクサロンに行ったりした。また。そのうちにストリップ劇場に出入りするようになる。だからテニス部でしたがたまには文学好きな部室にも出入りした。その中に文章を書いている仲間達がいた。その時。季節も忘れた。その友人の顔は髪の毛を長くして。ちょっとだけ。俺は文学通だよ!!と。言わんばかり。
そんな時。その文芸部の友人がいた。正直言って。あんまり期待してなかった。そして今思うと驚くことを話していた。

「 今の文学部の学生は大江健三郎ばかり読んでいるが。僕はそれよりも古井由吉の方が優れているし、ずっと上だよ!」と自慢げに話した。

誰だろう!古井由吉って!!慶一は、群像の月刊誌買って。いつかは芥川賞とるぞ!!と思っていただけに。そんな知らない作家の名前の名前が出たので。へえーと思った。確か数年前に芥川賞受賞した人だなぁ!!ぐらいしか知りません。だからショックだったなぁ。今でもその友人の顔を覚えている。大江健三郎は僕も知っていた。だからそれは驚かない。でも古井由吉の名前には驚いた。誰だろう!マイナーの作家だろう。それが天下一品の大江健三郎よりも上だ!!という言葉には衝撃的でした。しかしながら。古井由吉を僕が理解してのは。大学を卒業して。20年余り経ってから。確か40歳余り。県立前橋図書館で見つけた。古井由吉が金澤大学の助教授として赴任した時の思い出話しを読んで。良い作家だなぁと思った。確か冬の季節に下宿先の民間に大雪が降り。学生たちと雪降ろしをする話でした。この作家は事実をそのまま書いている。と思った。
また慶一の18歳の頃に戻ります。
その頃は。慶一は今でも孤独ですがこの頃も孤独でした。ホカホカ弁当が誕生した年で。たまに坂戸市南口に行くと。のり弁当を食べたりした。お腹空いてばかりなので。ほんとうにおいしかった。サカナのフライは熱くて。のりが乗っかっていて。めくると昆布の佃煮とカツオ節がありました。実家に帰ったかのようにおいしかった。数回は食べに行く。たぶん学生ローンを借りたりしたからその合間に行ったのだろう。

武州長瀬駅近くのアパートに帰っても友達がいない。学校から遠くて。歩いて行くと30分はかかりました。その時が一番寂しかった。夏目漱石の三四郎や森鴎外の青年を読むと。東京大学は楽しくて羨ましい。また女性にもモテる。城西大学に入学しても。何にもなくてつまらなかった。あの頃も珈琲が好きで。アパートの前に長瀬霊園があり。その坂道を登ると。もう名前を忘れてしまったが。城西大学薬学部で硬式テニス部でいっしょだった友達のアパートがありました。夕方から夜にかけて慶一は坂道を登って。そのアパートに行った。距離は1キロぐらいか?通ったのは確か1ヶ月ぐらいかなぁ!20回は通った。なんの話しをしてのか忘れてしまったが。珈琲を入れてくれた。それは感謝しかない。大学に入って一番嬉しかった。なんとその友達は珈琲豆からガラガラと砕いて。一杯ずつ入れてくれた。音楽が好きらしく。ムード音楽をかけてくれた。家はお金持ちだと言っていた。その当時。城西大学薬学部は授業料が高く。みんなお金持ちばかりでした。その友達は。行くと何にも言わずに。部屋に入れてくれた。2人でタバコを吸った。彼は友達が多くて。羨ましく感じた。なんの話しをしたのか忘れた。内藤さんの話しだろう。慶一は内藤さんが好きだったから。でももうその友達の名前もどこからきたのか?それも忘れた。確か。栃木県だと思った。親が製薬問屋の会社を経営しているとかその取締役だから。とか。そんな話しをした。別に嘘ではないだろう。家賃は毎月5万円ぐらいするだろう。その頃はだいたい一万円のアパートが普通だから。間取りが広くて高そうだし。ベットやステレオが置いてありました。その友達には何人も薬学部の友達がいて。またその友達はおしゃべりで。コミニュケーションがうまくて。慶一が部屋に入っていると。薬学部の人たちが数人きたりした。部屋が広くて。快適なところだから。溜まり場になっていた。慶一は薬学部だとかそんなの関係なく。いっしょにいたが。もともと話し下手なので。長い時間。いつも黙っていた。その友達は慶一が薬学部の友達と話しをしないし。いつも黙っていた。そしたら。新井!!俺の友達が来たのに挨拶もしないのか?と問い詰められた。それはショックでした。あ!そうか!そういう常識なルールさえわからなかった。それきりそのアパートには行かなくなった。ある日学食でその友達に会ったら。新井!!俺がちょっとだけ大きな声で詰問しただけで。もう一緒に珈琲を飲みに来ないのか?と言われた。慶一はその当時。おとなしかったので。当然。挨拶がどうのこうの言われたから。と言った。そしたら。あーそうかい!と言って別れた。あの友達も良いひとだったなぁ!なにをしているのか?たまに思い出す。


そのころ坂戸駅近くの居酒屋でテニス部新入生歓迎会があった。何故かしらジーンズが禁止でスラックスで行った覚えがあります。仲の良い確か練馬区石神井から東武東上線で通っていた田口がオペラを歌っていた。みんながしらけて聴いていたのを思い出します。確かイタリアのオペラか椿姫の乾杯の歌かそれともベスビオ火山に登ろうとか言うオペラというよりイタリア語のカンツォーネだったか忘れて仕舞いました。それにしても場違いな歌でした。みんながクラシック音楽を歌うなよと言っていた。硬式テニス部ですから女子の先輩部員もたくさんいてなかには綺麗なおねえさんがいましたがおくてでまだ子どもであった僕は話しさえできませんでした。一年先輩の女子の中には綺麗な女性がいました。女子は薬学部薬学科の学生なのでみんな実家が裕福らしかった。そのころは城西大学理学部数学科に入り始めでどこかに行くことがないので3年生の村上さんともう一人の1年生の山崎さんの部屋によく遊びに行っていました。城西歯科大学の裏手にありテニス部の部室から歩いて行った。部室はプレハブでぼろかった。とても長い時間を過ごせるところではなかった。その中には僕もその他の部員も好きになる女性がいました。いまどうしているのかもう知りません。内藤さんと言った。テニス部の部室は今の学生には考えられないぐらいの建物でしたので学校の近くのアパートに遊びに行くことが多かった。その村上さんのアパートで村上さんが今日はご馳走するといい大きなフライパンに玉葱とウインナーを山のように入れてサラダ油をひいてガスコンロで炒めその上からケチャップを沢山入れてくれた料理を食べさせてもらった事があります。本当に美味かった。この場ですがありがとうございます。ウインナーソーセージはデカくてフランクフルトのやや短いの豪快に袋ごと入れたのを食べた思い出があります。その時には川口もいたと思う。フランクフルトソーセージは山崎さんが買いに行ったのかよく覚えていません。村上さんの部屋はアパートの一階の一番手前でその部屋で食べました。ごちゃごちゃした部屋はテニス部のたまり場になっており昼休みにも行きました。村上さんが「栄養があるんだ。」「俺の得意料理だよ。」と嬉しそう喋っていました。川口はトヨタセリカに乗っていてドライブに連れていってもらった。大東文化大学の周りの山道を走った。クルマのカセットテープからはチューリップの曲がたくさん入っていてよく聴く。川口は城西大学経済学部で家が川越駅の先だと言っていた。「城西大学は日本で一番バカな大学だよ。」よくそんなことを喋っていた。たしかになと思いながらも薬学部は頭がいいと思った。だいいちあの当時薬学部薬学科を選ぶだけで凄い。それから僕がますます勉強しなくなると自然に学校にちかずくこともなくなりました。はじめて喫茶店に入ったのは、大学の1年生。テニス🎾部の友達の田口と入った。城西大学の正門前にあった。入り口が狭く店内は、真っ暗。店の名前は、覚えていません。午前中でモーニングサービスを注文。コーヒーと☕️トーストとゆで卵が付いて250円でした。都会の人は、ずいぶんと変わったものを食べると驚いた。トーストは、厚切りで、焼き立て。ゆで卵の殻を剥いて塩🧂をかけて食べた。田口は、遊び慣れていた。家は、東京板橋区石神井。慶一は、あまりにも田舎者なのが恥ずかしかった。隣りの店は、雑貨屋兼パン屋でした。理学部数学科のテニス部の同級生に、大室がいた。ハキハキした好青年だった。元気良くて、ウラオモテのない潔癖なところがあった。僕の性格とは、まるで正反対。僕は、優柔不断で悪い事と良い事の区別が出来なかった。大室は、今は、中学校の数学の先生をしているのだろう。地元の学校の校長先生にでも、なっているかもしれない。今思うと、大室が一番先頭を切っていたと思う。あとは、どこかみんな勉強嫌いで遊び好きの友達ばかりでした。大室は、いつも雑貨屋でアンパン🍞🥖をかじっていた。どら声で話すが、目が優しそうだった。ニッコリした顔を慶一の顔に向けた。確か大宮市から通っていました。テニス🎾も上手いし、勉強も出来た。大室のテニスは、バックハンドのフラット系スライス中心で素早い走りと守りの姿勢に徹していた。多分ジミー・コナーズやケン・ローズオールの真似をしていました。低い姿勢でコートを右左に動いた。どちらかというとフラット系のネットの上をギリギリ通過するボールを打った。フアハンドストロークもフラット。僕は、大室に付いて行けなかった。全てにおいて。頭が悪過ぎた。スポーツは、オンチでした。試合があっても、玉拾いしていた。学校には、行っていたが、だんだんと行かなくなっていた。もう微分積分も忘れた。線型代数学は、前期後期とも、0点。落第してしまいました。学校へは、学食を食べてまた実家に帰っていた。その頃。田口は、テニス部の女友達の同級生と付き合っていた。内藤さんと言った。大人しくて、賢しこそうでした。僕もたびたび一緒に話しをした。今でも、思い出します。僕も内藤さんが好きでした。二人は、城西大学薬学部の学生でした。いまは、どうしているのか、サッパリわかりません。話しをしたのも、ほんのちょっとだけ。五木寛之のファンなんだと慶一が内藤さんに話しかけたら、私は、五木ひろしが好き。と言った。そのあと。内藤さんは、「わたしは、部屋に帰ると高等学校の化学や生物の教科書をもう一度勉強しているわ?」そんな事を喋った。案に慶一に微分積分を高校の時から勉強し直しなさいと言われたような気がした。田口は、普段から筑摩書房の世界文学全集を小脇に抱えて、読み耽っていた。話しは、クラシック音楽やバルザックばかり。凄いなぁ!などと思った。慶一も読書好きでした。がしかしながら慶一は、娯楽的要素の強い推理小説ばかり読んでいた。森村誠一の「人間の証明」がベストセラーでした。あとは、慶一は、椎名誠の「気分は、ダボダボソース」とか「哀愁の街に霧が吹くのだ」などの小説風エッセイ風な本を読んでいた。理学部数学科に入ったのに、数学の勉強をしなかった。何しろ、大学の教科書も開かず。教室にもだんだんと疎遠になっていった。大学の教科書は、皆目検討もつかなあった。それからというもの慶一は、まるで糸の切れた凧のようでした。じっと腰を下ろして勉強すれどころか、あっちこっちへ出かけては、時間を潰していた。あの時に、腰を据えて勉強すれば良かったといまは後悔しています。フラフラしては、勉強もテニスもせずに田口と一緒にいた。田口も似たようでした。田口とは、毎日のように正門前の喫茶店に入った。田口は、喫茶店の中にあったインベーダーゲームに夢中になっていた。もう一人。城西大学薬学部のテニス部の友達に広瀬がいた。岐阜県から来ていた。大人しくて今頃、病院の薬局で真面目に働いているだろう。勉強家でした。一度だけアパートに遊びに行った。広瀬は、東武東上線沿線の川越駅の近くに住んでいた。部屋代が高そうでした。健康だけは、気をつけていると言う。カップラーメンは、食べないと言っていた。部屋は、広瀬の性格を表しているのか、ごちゃごちゃでした。どこで寝るのかと心配するほど散らかっていた。俺は、こんなのが一番好きなだ。汚いところが落ち着くと言っていた。慶一と同じタイプでした。いま思うと、広瀬の部屋の近くに住んでいれば、もっと勉強したような気がします。広瀬は、城西大学の周りは、田舎だから住みたくない。川越の街ではなけりゃ住みたくないなどと言っていた。電車代などかかるだろうと思ったが、家は、呉服屋さんだか岐阜県の着物屋さんでお金があるから大丈夫なんだと言っていた。岐阜銘仙の反物を扱っていると言う。名古屋弁で喋っていた。クイズダービーの竹下景子さんと同じ話しかたでした。「きゃ」という語尾を言葉のうしろにもってきた。広瀬には、お姉さんがいた。同じく城西大学薬学部に通っていた。顔も似ていた。お姉さんは、テニス部キャプテンの名前は、忘れたがそのキャプテンと付き合っていた。広瀬は、それが気に要らないようでした。お姉さんが遊ばれていると思っていたらしい。確かに結婚は、してないと思う。どうしてかというと、なにかの機会にテニス部キャプテンと出会ったら、別の女性とクルマに乗っていたから。広瀬のお姉さんの方が美人で尚且つ薬剤師だから、多分テニス部キャプテンが振られたのだろう。城西大学経済学部の男子学生は、ほぼ薬学部の女子学生さんには、振られるのが当たり前でした。目的意識がゼロの経済学部の学生さんは、薬剤師になる女性から見ると物足りなく感じたのだろう。テニス部キャプテンは、慶一と良く似ていた。一か八かの勝負で生きているようなところがあった。なんとかなるだろう。高度経済成長真っ最中でした。経済学部の試験も高度経済成長云々書けば、通りました。まさかこんなに世界経済が経済学者を必要とするほど、社会が悪くなるなんて思いもしませんでした。慶一や周りの友達は、駄目でも勉強も出来なくても夢だけは、持っていた。最初に書いて出てきた数学科の大室とは、正反対の生き方をしていた。テニス部キャプテンは、あまりいい人生は、なさそうな気がします。やはりというか。レールの上を向いてしっかりと歩いていたのは、理学部数学科大室だけだった。あとは、薬学部の広瀬。二人は、卒業してからの人生設計を既に考えていた、大室は、学校の先生になるんだと言っていた。あとのテニス部の友達は、卒業してもみんな苦労しているだろう。大学は、手に職を付けるところ。世の中を渡って行くには、国家資格が必要なんです。あともう一人、山崎がいた。やはりというか、遊び好きでテニス好きで麻雀好きなので、どうしているのだろう。大学一年生の時に下宿にたびたび遊びに行ってました。城西歯科大学の裏に下宿先があった。多分苦労したと思う。


城西大学に合格したあと、幼馴染み数人と平井中学校の担任の先生であった斎藤先生を招いて藤岡市日野の民宿で合格祝いをしたことがあります。みんな頭が良くて名門大学に合格してました。僕は、その中でただひとり名前も知らない出来たばかりの新興大学であったため恥ずかしくて出席するのが嫌で堪らないのに生まれてこのかた自分でハッキリと意思表示をすることができない性格のため辛いのを我慢して参加する。その中のひとりの女の子は小学校から中学校まで同じ村で学校の行き帰りも一緒でした。その子は札幌冬季オリンピックのフィギュアスケートで大人気のジャネット・リンにそっくり。スポーツ万能で成績も飛び抜けて良かった。その女の子がもう一人の幼馴染みで頭が良くて上智大学に合格した男の子と一緒に東京の渋谷で映画を観に行ったことを僕やみんなの前で楽しそうに話していた。僕はその女の子に密かに恋ごころをもっといたので彼女の話に打ちのめされた思いをしてしまう。僕などひとりで映画館ばかり行っていて女の子と話さえ出来ないでいた。とても女の子と一緒になんて不可能なことと思い諦めていました。僕は妬みや羨望感で頭がいっぱいになりひとり取り残された想いだけでガッカリして家に帰って来たことがあります。僕は大学を卒業したら大海軒の中華そば屋さんを始めたいと思った。そのくらいこの中華そば屋の味に惚れてしまました。20代の頃は就職してからも1年に一度は行った。いつのまにかお店が直ぐ隣に移転していた。頑固なおじさんが見えなくてなり、息子さんが跡を次いでいた。お客様はそのころも今も行列が絶えません。国道254幹線道路へ出ても美味しくてクルマを止めて食べる店が無かった。値段が高くて不味い店ばかりあった。僕はこのくらいお客様が来てくれて値段もリーズナブル、アジは最高。これなら成功すると思えた。城西大学に通っていたときは週3回は食べました。年末にはお得意様としてカレンダーまで貰ってしまう。週末の土曜日が来ると下宿先に居ても詰まらないしだからといって坂戸市や川越市まで行く予算もなかった。お腹が空いて仕方がないので毛呂山町の大海軒ばかり行く。午前中の10時にはお店の前に2人か3人のお待ちのお客さんがいました。テーブルが3つか4つにカウンター席には8人ぐらい座れる。量が多くてお腹が空いてないと食べきれないほどありました。箸でつついても麵が下に沈まないほどごってり入っていました。味はいたってシンプル。東京の醬油ラーメンによく似ています。醬油ベースに豚骨スープをまぜ山口県の煮干しのだしで味付け。そこに入間市で採れるゆずが香る。本元は東京の永福町が本部でたぶんですがそこで修行して来た職人さんが出したお店らしい。材料の麵も本部で製麵して運ばれてきているらしい。場所は埼玉県毛呂山町にあります。八高線で毛呂山駅を降りて5分ぐらい線路沿いに歩くと道の左側にあります。駅からの距離は200メートルぐらい。一度食べると病みつきになります。特にチャーシューがたくさん入っているわけでも、こってりした豚骨ラーメンでもありません。スープは透明で味わいは薄味ですがスープを一口飲み干すだけでこれはもう完璧に美味いと感じます。中華そばを食べてからは武州長瀬駅の北側にある古本屋さんに本を買いに行きました。ギッシリと本が山積になり以外にもハイレベルな古本屋さんで、福永武彦の随筆「枕頭の書」を購入した。近くにパチンコ屋さんや居酒屋がある。暇な時はそれらの店に何回か行った。卒業後はJAたのふじに勤めているころは神流支店の金融係をしていた野村君と一緒に「大海軒」に食べに行きました。野村君も「これは美味い。プロの職人技だ。」と言って絶賛してくれました。そのあと中里君や茂原君も連れていく。僕の両親も場所を教えて見ました。町田市に母親の妹がいるので帰りには大海軒に寄ることがあると言う。ケーキを食べて景気がいい。(詰まらない洒落)むかし城西大学1年生の時に硬式テニス部の坂戸市民大会で主将の村上さんが朝早くから坂戸駅でケーキを食べて景気ずけて行こうとひとりで苺のショートケーキを食べていたのを思い出します。もう一人の主将の菅野さんが何かしら言っていたのを思い出します。僕はカッコイイと思った。何故かしら主将が2人いたんだな。僕は球拾いでしたのでただ付いていくだけでした。坂戸駅からは歩いていく。まだ僕が1年生の時。今でも坂戸市に坂戸市民テニスコートがあるのかな。懐かしのでそばまで行ってみようかな。埼玉県は東京に近いせいか硬式テニスが人気がある。群馬県はスキー場があるのであまりテニスは人気がありませんでした。そのころ坂戸駅近くの居酒屋でテニス部新入生歓迎会があった。何故かしらジーンズが禁止でスラックスで行った覚えがあります。仲の良い確か練馬区石神井から東武東上線で通っていた田口がオペラを歌っていたのをみんながしらけて聴いていたのを思い出します。確かイタリアのオペラか椿姫の乾杯の歌かそれともベスビオ火山に登ろうとか言うオペラというよりイタリア語のカンツォーネだったか忘れて仕舞いました。それにしても場違いな歌でした。みんながクラシック音楽を歌うなよと言っていた。硬式テニス部ですから女子の先輩部員もたくさんいてなかには綺麗なおねえさんがいましたがおくてでまだ子どもであった僕は話しさえできませんでした。一年先輩の女子の中には綺麗な女性がいました。女子は薬学部薬学科の学生なのでみんな実家が裕福らしかった。そのころは城西大学理学部数学科に入り始めでどこかに行くことがないので3年生の村上さんともう一人の1年生の山崎さんの部屋によく遊びに行っていました。城西歯科大学の裏手にありテニス部の部室から歩いて行った。部室はプレハブでぼろかった。とても長い時間を過ごせるところではなかった。その中には僕もその他の部員も好きになる女性がいました。いまどうしているのかもう知りません。内藤さんと言った。テニス部の部室は今の学生には考えられないぐらいの建物でしたので学校の近くのアパートに遊びに行くことが多かった。その村上さんのアパートで村上さんが今日はご馳走するといい大きなフライパンに玉葱とウインナーを山のように入れてサラダ油をひいてガスコンロで炒めその上からケチャップを沢山入れてくれた料理を食べさせてもらった事があります。本当に美味かった。この場ですがありがとうございます。ウインナーソーセージはデカくてフランクフルトのやや短いの豪快に袋ごと入れたのを食べた思い出があります。その時には川口もいたと思う。フランクフルトソーセージは山崎さんが買いに行ったのかよく覚えていません。村上さんの部屋はアパートの一階の一番手前でその部屋で食べました。ごちゃごちゃした部屋はテニス部のたまり場になっており昼休みにも行きました。村上さんが「栄養があるんだ。」「俺の得意料理だよ。」と嬉しそう喋っていました。川口はトヨタセリカに乗っていてドライブに連れていってもらった。大東文化大学の周りの山道を走った。クルマのカセットテープからはチューリップの曲がたくさん入っていてよく聴く。川口は城西大学経済学部で家が川越駅の先だと言っていた。「城西大学は日本で一番バカな大学だよ。」よくそんなことを喋っていた。たしかになと思いながらも薬学部は頭がいいと思った。だいいちあの当時薬学部薬学科を選ぶだけで凄い。それから僕がますます勉強しなくなると自然に学校にちかずくこともなくなりました。


川越市で遊んだりしたあとに実家に戻る。

川越市の居酒屋チェーンでアルバイト。

学生時代には、このあたりを良く歩きました。イトーヨーカドーは、懐かしいので、中に入って見学しました。確か本川越駅。ここから川越駅まで行ったり来たりした、城西大学から一番近い都会でした。まだ池袋まで1時間あまりあり。此処で途中下車しました。イトーヨーカドーの近くに地下一階の喫茶店があり。行くあてもない時は、その階段を降りた。まるで。キャバクラの店内のような贅沢なソファーがあり、落ち着けた。この後。毎日通った時に。その喫茶店でアルバイトをしていた女性に好意を持たれた。でも歳上過ぎて困った。好意を持たれても、でも美人でした。まだ最初は、ひとりでコーヒー☕️を飲み、また繁華街までテクテク歩いて行く。学校は、行けなかった。理学部数学科は、難しくてわからなかった。担任の先生から学校を辞めなさいと言われた。どこか遠くに行こうと思った。数学の教科書も無いに等しい。先生は、微分・積分を教えても、頭の中には、勉強する気持ちにもならない。家に帰っても勉強しない。また、微分・積分を基礎からやるのかと思ったら、絶望してしまった。その時。辞めてどこか他の大学に行けば、良かったと思う。学校も行かず。下宿先も友達も出来ず。放蕩ではなく、単に行くあてもないようになってしまった。坂戸市の焼き鳥屋にバイトに入った。一日でクビになる。串に鶏肉が上手く刺さらない。あれは、難しい。それに、僕に愛想も無く。また暗かった。商売人に向かないと思った。そして俺は、焼き鳥屋のバイトも出来ないのかとまた絶望した。う一度。あの時。やり直して。もっと簡単に卒業出来る大学に行けば良かった。当時は、本ばかり読むことが多いので、文学部でも行けば良かった。たびたび実家に帰った。農業していた。それでも学校を卒業した方が良いからと父親が学生管理部に行く。そしたら、経済学部なら転部出来ると言われた。父親は、嬉しくて、奨学金も借りられますか?と学生部長に聞いたら、馬鹿に奨学金は、貸せないと言われたとか言っていた。しかしながら経済学部の学費は、安くて。借りる心配は、無かった。
でも一旦入った大学は、やめられない。仕方がなく。この後。城西大学経済学部に転部した。そしたら、勉強が楽しくなる。授業も楽しい。先生の話しも聞いたけど聞かなくても何も言わない。試験は、高度経済成長7パーセントと書けば、単位が貰えた。大教室なので、先生も生徒も誰も知らない人ばかり。暇になると図書室に行っていた。専門の本は、読まず。確か石原慎太郎の化石の森を買って読んでいた。サッパリわからない。そしたら柴田錬三郎の全集が図書館にあり。おもしくて、全部借りて読む。文学とは、ほど遠いものが好きでした、だから文学部も駄目だと思う。

ときどき。実家に帰って農業してました。

40年前のお話しですがまだ昨日のように記憶しております。数ヶ月ぶりに城西大学理学部数学科へ戻った。鉄筋の建物4階で1階と2階が数学科でした。3階と4階が化学科でした。凩が吹いていて枯れ葉がアスファルト舗装上にサラサラと散らばっていた。細い木々が風に揺れていた。学校は休校で学食だけが開いていた。そばには矢張り僕と同じように線形代数学(連立方程式の解法で中学生の数学、2次関数のこと。)が分からなくて大学を辞めるようと言われていた友人もいた。いまだから正直に話ますがその友達からランチ代金の250円を借りてしまう。もちろんですが次ぐ日には返しました。お腹が空いてその日食べるランチのお金がなかったんです。コレだもの満足に大学の教科書も揃えらませんでした。食べるのがやっとなので勉強まで気が回らなかった。親元を離れればそんなもの。文科系のようにアルバイトしては授業は友人の代返していると理科系では落第してしまうのです。言い訳をするわけではありませんが本当うなんです。頭が悪い事は確かです。すべて自己責任である。その日も、もしかしたら授業中だったかもしれないが理学部の教室には入りづらかった。どちらかにしても同じか。出来の悪い学生でしたね?友もいなくて話をするにも風ばかり吹いていた。大学正門前のパン屋さんで缶コーヒーを買ったりしては学校へは出入りしていた。今はセブンイレブンになっています。この俳句の意味は大学の寂しさは冬木だけではなく学ぶ気持ちを持つ学友もいないと解釈出来ます。僕も大学へ入学してから1年の秋には教室に出なくなった。勉強について行けなかった。理学部と学生食堂の間に木立と遊歩道で灰色の路肩に座り込んでこれからどうしようと思い悩んでいたのいまでも思い出します。北側には城西歯科大学の白く長い立派な建物を見上げながら茫然自失としていました。友達がずーっと遠くに進み自分だけ取り残されているという敗北感でいっぱいでした。周りの建物ばかり大きくても僕の居場所は学校の中にはもうなかった。すごすごと図書館で時間を潰しては群馬の実家に帰って来ていた。秋になると歩いている学生も少なく校庭は閑散としていた。勉強しているらしい薬学部の教室の電気だけ夜遅くまで煌々とついていた。ときどき薬学部の女子学生と男子学生のグループと擦れ違うたびに僕には無縁な世界を感じていた。薬学部の校舎から一歩出たブロックの塀がある赤いトタン屋根でクリーム色の建物が僕が住んでいた第一福島荘でした。部屋の中では、寝てばかりいました。あの頃は、夜から昼まで寝ていました。毎日眠くて仕方がなかつたことだけは良く覚えています。アルミスチールの本箱には森村誠一の推理小説が100冊以上持っていた。その頃新宿紀伊国屋書店の4階で井上ひさしサンの「藪原検校」の演劇を一人で見に行ったことがある。怖いストーリーでしたね。財津一郎さんが主演でしたね。たぶんシェイクスピアの「マクベス」を真似たものなのだろう。あまりの怖さで孤独感が癒された覚えがあります。僕はと言えば紺のカーディガンを着てまるで早稲田大学第二文学部の学生のような格好してみた覚えがあります。気取っていたのですよね。頭が悪いのに高橋和巳の「我が心は石にあらず」をわからないのに読んだりしてました。矢張りあまり誇れる学生ではありませんでしたかな!僕の大学時代は侘し日々を過ごしていました。家族から離れると人との暖かさも失いがちになる。それが学ぶ気持ちを無くしてしまった原因だと思う。学問を学ぶことは、コミニケーションも必要かと思います。城西大学時代には駅弁同好会や日帰り温泉同好会やファミレスのドリンクバー同好会でも入れば良かったと今になると思う。僕はそんな面白いだけの人間関係があればもっと勉強していたかと思っています。学生はただ遊んでいればいいだよね。遊びが学びに繋がる。そして少し下宿帰って勉強する。あとは教職課程の単位を取りヘボな中学校の数学の先生にでもなる。そんな安定着実なコースを選べば良かった。僕のクラスメイトはみんなそうして学校の数学の先生になり現在では学校の校長先生をしておられる。彼らは矢張り理学部数学科だけに頭がシャープでした。今学べは将来が開ける事を理解していたんだなぁ!人生の生き方とかも誰かに教えられずに知っていた。それは城西大学薬学部の学生さんたちにも言えます。僕は数学が出来ないだけでなくコミニケーション能力さえわからない頭が悪い学生だったと思う。城西大学の同窓会広報が送られてくるたびにしみじみ痛感する。今現在城西大学理学部数学科で学んでいる学生さん!に僕の失敗したことをマイナスの教訓にしてもらいたい。大学の数学とは、高校の微分積分学が中心です。線形代数学とは中学校で習う連立方程式の2次関数のこと。これが数学科の1年生の必修科目です。行列の計算を速く解くこと。グーグルの検索の基礎知識でもある。パソコンの原理💻は数学なんです。行列の計算が出来ないと大学の数学科は卒業できません。落第しても気を落とさずにもう一度高校の数学に戻ること。友達と一緒に学んで単位を取る。難しい単位取得も仲間との雑談から話しを聞くことから始めよう!僕は友達から離れクラスからも硬式テニス部からも離れて学校も退学してしまう。失敗と挫折の人生を歩んでしまった。五木寛之先生の「青年は荒野をめざす」を生き方の手本にしたのが失敗だった。40年前ですが五木寛之全集を買い揃えて読んでいたんです。豪華版と軽装版と2種類出ていたんです。その僕はいつの間にか60歳のシルバー人材センター予備軍になってしまいました。人生の荒野は悲惨でした。「砂漠」と言う伊坂幸太郎の小説並のしんどさでしたね。これも身から出た錆かと思う。なんとか切り抜けた。真面目な生活を目指しなさい。これが僕のアドバイスでもある。角田光代さんの新刊本「私はあなたの記憶のなかに」(2018出版)があったので何気なく読み始めました。角田さんは小学生の頃から横浜から電車に乗って都内の学習塾通っていたらしい。頭が良く勉強家でクラスメイトからメガネ👓猿🐒と呼ばれていたという。複雑な家系のせいか母親と母親と同年代の女性も出てくる。小学校の帰りには母親ではなく父親の愛人の女性が迎えに来ることもあり、その日はたこ焼きを買い食いして帰ってたらしい。僕は、愛人の女性が産みの母親なのではないかと思えます。血が通っているから、学校の帰りにたこ焼き屋さんに寄るもの。猫や犬のような動物的なカンですが。推理小説の読み過ぎかもしれませんが。角田さんの父親が癌で亡くなったときには母親と父親の愛人が一緒に泣いていた。角田さんはあまり自分の過去を書かないので少し驚いた。早稲田大学の頃男友達がいてデートしたり❤️一緒に寝たりしていたのに何故かその男友達が学校に来なくなる。山の手線乗って窓の外の公園を眺めていたら男友達がぼんやり空を見上げているのを目撃しただけでその後は行方が分からなくなる。同じゼミの友達に言わせると「弱い人」なんだという。誘えば付いてくるが自分からは何も出来ないる人なんだ。12月に入り角田さんとゼミの友達と心配になりクリスマスケーキ🎂を買ってアパートに行っても誰も居ないので寒い冬の玄関先で手づかみでケーキを食べたそうです。(小説の中のお話しです。)それでもなんとなく僕には分かる。その男友達の気持ちや雰囲気が。大学生は楽しくもない。寂しい生活なんだな。僕も城西大学1年生のときに蒸発する。幾ばくかのお金を持ち北海道まで一人で行った。大学が詰まらなくて北海道で別の人になって生きようと思った。北海道の札幌にある快楽街ススキノで?を見たり風俗店で遊んだいたら楽しくなってそれでもまた家に仕方がなく帰る。東北本線から高崎駅西口に電車から降りて高崎髙島屋を見た時はやはり群馬県に帰ってきて良かったなあと思った。いまも愚かですが18歳の若い頃はもっと愚かで高崎市柳川町の風俗店にたびたび通った。パンチグループという?に数回行く。40年前なので勘弁してください。いまは寂れたアーケード街ですが昔は毎日お祭り騒ぎの賑わいでした。ひとの波で歩けないぐらいごった返していました。映画館がオリオン座と松竹座と東映と日活もありました。18歳の頃オリオン座でスターウォーズを見たときは2回見た。五月みどり主演の日活ロマンポルノも見た覚えがあります。大学生の下宿屋さんシリーズでしたが詰まらなくて途中から映画館から出ようと思った。15歳の頃は幼馴染の同級生10人ぐらいで小さな恋のメロディを松竹座でみた。あのころは柳川町は天国に来たように楽しかった。軟式テニス部の試合の帰りにスズランデパートの5階レストランで同級生10人ぐらいでカツカレーを食べたらあまりの旨さにこの世にこんなうまいモノがあるのかと思った。母ちゃんが作ったまずいカレーしか食ったことが無かった。新宿駅東口🚉のアルタ周辺にはよくひとりで行く。紀伊国屋書店で本を買って帰る。井上ひさしの演劇を紀伊国屋ホールで観た。「薮原検校」と「イーハトボの劇列車」の2本。主役はさみしーというギャグの財津一郎さんでした。そしてまた東武東上線に乗って川越駅🚉方面に向かう。途中で駅の立ち食いそばを食べていた。坂戸駅でイトーヨーカ堂を見ながら乗り換え川角駅で降りた。アパートにはあまり話しが合いそうな友達もなく部屋に入ってもつまらなかつた。月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。松尾芭蕉。