新井慶一は
城西大学理学部数学科を退学させられる。。そして東武東上線に乗り川越市駅まで乗り。川越の街を歩いていました。
前橋市の蔦屋書店に来てはサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹先生訳を持ってきては、ゆっくり少しずつ読んでいます。今日で3日目になります。10ページ読み少し休憩して考え込んでからまた少し読む。遅読も重要だと思う。かなり面白い。ホールデンはまるで僕自身。今読んでいるところは、有名な名門校を放校されたホールデンが雪の積もった駅への道をトボトボ歩いてやっと駅までたどり着いたところ。まだ第8章なのに何故かしら凄いと思う。心理描写が正直で飾りもなく事件もないのにグッとくるものがあります。この本は重要だ。このあと電車🚃に乗りニューヨークの繁華街を彷徨するらしいがまるで僕と同じことをしています。ホールデンが街をさ迷い歩きながら電話ボックスに入るが電話をかける友人がまったくいないことに気がつくところなど人ごとでは有りません。ニューヨークを埼玉県川越市に置き換えればまるで僕が書いた小説になります。ペンシー校を城西大学理学部数学科にすればこれは僕だと思う。僕は一生の思い出に一冊の本を書きたいと思っています。其れは大学を辞めさせられた僕が川越市のアーケード街や繁華街を彷徨しながら実家のある群馬県藤岡市に戻ってくる話しです。これではサリンジャーの小説と同じストーリーになってしまうと言われても僕にとっては書いて置く必要があるんですと答えるしかない。文学は架空の話しですがまったくありもしない話しでは読者を感動させることはできない。なんだサリンジャーも僕らと同じ出来の悪い人間じゃないかと思わせることが大切。だからこの本は不屈の名作なんです。今でも本川越駅の前にあるイトーヨーカドーや立ち食い蕎麦屋で天ぷら蕎麦を食べている自分自身を思い出します。僕は高校卒業して大学へ入学した途端に勉強する気力がなくなり学校へはあまり行かずに硬式テニス部の溜まり場になっていた村上さんや山崎さんのアパートに同級生の川口と一緒に入り浸っていた。理学部の必修科目の線形代数学は前期後期とも白紙で提出。微分・積分学は大学へ入学したら完全に忘れてしまう。担任の数学科の教師から「君はこの大学に相応しくないから辞めない!」と教室の中でみんなの前で言われました。あの時もっと勉強しておけば良かったとこの歳になっても思い出します。蔦屋書店に来てはサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」村上春樹先生訳を持ってきては、ゆっくり少しずつ読んでいます。今日で3日目になります。10ページ読み少し休憩して考え込んでからまた少し読む。遅読も重要だと思う。かなり面白い。ホールデンはまるで僕自身。今読んでいるところは、有名な名門校を放校されたホールデンが雪の積もった駅への道をトボトボ歩いてやっと駅までたどり着いたところ。まだ第8章なのに何故かしら凄いと思う。心理描写が正直で飾りもなく事件もないのにグッとくるものがあります。この本は重要だ。このあと電車🚃に乗りニューヨークの繁華街を彷徨するらしいがまるで僕と同じことをしています。ホールデンが街をさ迷い歩きながら電話ボックスに入るが電話をかける友人がまったくいないことに気がつくところなど人ごとでは有りません。ニューヨークを埼玉県川越市に置き換えればまるで僕が書いた小説になります。ペンシー校を城西大学理学部数学科にすればこれは僕だと思う。僕は一生の思い出に一冊の本を書きたいと思っています。其れは大学を辞めさせられた僕が川越市のアーケード街や繁華街を彷徨しながら実家のある群馬県藤岡市に戻ってくる話しです。これではサリンジャーの小説と同じストーリーになってしまうと言われても僕にとっては書いて置く必要があるんですと答えるしかない。文学は架空の話しですがまったくありもしない話しでは読者を感動させることはできない。なんだサリンジャーも僕らと同じ出来の悪い人間じゃないかと思わせることが大切。だからこの本は不屈の名作なんです。今でも本川越駅の前にあるイトーヨーカドーや立ち食い蕎麦屋で天ぷら蕎麦を食べている自分自身を思い出します。僕は高校卒業して大学へ入学した途端に勉強する気力がなくなり学校へはあまり行かずに硬式テニス部の溜まり場になっていた村上さんや山崎さんのアパートに同級生の川口と一緒に入り浸っていた。理学部の必修科目の線形代数学は前期後期とも白紙で提出。微分・積分学は大学へ入学したら完全に忘れてしまう。担任の数学科の教師から「君はこの大学に相応しくないから辞めない!」と教室の中でみんなの前で言われました。あの時もっと勉強しておけば良かったとこの歳になっても思い出します。ここに感動しました。このあとホールデンは学校の寮の部屋から雪が降りしきる駅への道をてくてく歩きニューヨーク行きの列車に乗りみすぼらしいホテルで一夜を過ごしてから実家に帰るまでのあっちこっちとぶつかり合いながら繫華街をうろつくお話です。大したことない。これくらいなら誰でも簡単に書けるかというと絶対に書けない。素晴らしい。僕はここで感動しました。サリンジャーは難しい。読んでも分からないなんてことはありません。サリンジャーはまるで僕自身。ペンシー校を城西大学理学部数学科に置き換えればここの文章はまるで僕のことに思える。東武東上線に乗って埼玉県川越市のアーケード街を歩いていた。あちらこちらから「セプテンバー」アース・ウインド & ファイアーやアラベスクのハロー・ミスタ・モンキーが巷ではかかっていていまでもこの曲を聴くと懐かしいですね。僕は70年代のディスコブームなのに一度もディスコ行ったことが無かった。楽しそうな若者たちの遊びにはまったく無縁でした。昔ながら商店街が1キロも続いていた。高校時代の数学の微分積分をやり直すにはもう気力がなかった。僕は役に立たないダメな人間であるとそのころも思っていました。それから実家に帰り家で農業してましたがやっぱりもう一度やり直して学校へ行くことにしました。理学部数学科は難しいので経済学部に転部して卒業しました。やれやれ。この後は群馬県藤岡市と埼玉県坂戸市をクルマに乗って行ったり来たり。ときには八高線の電車にのって山のなかや田んぼの風景を見ながら学校へ通いました。学校の近くにある福島荘で下宿したりしてました。勉強から解放されると古本屋さんへ行って森村誠一の推理小説を100冊以上読んだりする。40年前のお話しですがまだ昨日のように記憶しております。数ヶ月ぶりに城西大学理学部数学科へ戻った。鉄筋の建物4階で1階と2階が数学科でした。3階と4階が化学科でした。凩が吹いていて枯れ葉がアスファルト舗装上にサラサラと散らばっていた。細い木々が風に揺れていた。学校は休校で学食だけが開いていた。そばには矢張り僕と同じように線形代数学(連立方程式の解法で中学生の数学、2次関数のこと。)が分からなくて大学を辞めるようと言われていた友人もいた。いまだから正直に話ますがその友達からランチ代金の250円を借りてしまう。もちろんですが次ぐ日には返しました。お腹が空いてその日食べるランチのお金がなかったんです。コレだもの満足に大学の教科書も揃えらませんでした。食べるのがやっとなので勉強まで気が回らなかった。親元を離れればそんなもの。文科系のようにアルバイトしては授業は友人の代返していると理科系では落第してしまうのです。言い訳をするわけではありませんが本当うなんです。頭が悪い事は確かです。すべて自己責任である。その日も、もしかしたら授業中だったかもしれないが理学部の教室には入りづらかった。どちらかにしても同じか。出来の悪い学生でしたね?友もいなくて話をするにも風ばかり吹いていた。大学正門前のパン屋さんで缶コーヒーを買ったりしては学校へは出入りしていた。今はセブンイレブンになっています。この俳句の意味は大学の寂しさは冬木だけではなく学ぶ気持ちを持つ学友もいないと解釈出来ます。僕も大学へ入学してから1年の秋には教室に出なくなった。勉強について行けなかった。理学部と学生食堂の間に木立と遊歩道で灰色の路肩に座り込んでこれからどうしようと思い悩んでいたのいまでも思い出します。北側には城西歯科大学の白く長い立派な建物を見上げながら茫然自失としていました。友達がずーっと遠くに進み自分だけ取り残されているという敗北感でいっぱいでした。周りの建物ばかり大きくても僕の居場所は学校の中にはもうなかった。すごすごと図書館で時間を潰しては群馬の実家に帰って来ていた。秋になると歩いている学生も少なく校庭は閑散としていた。勉強しているらしい薬学部の教室の電気だけ夜遅くまで煌々とついていた。ときどき薬学部の女子学生と男子学生のグループと擦れ違うたびに僕には無縁な世界を感じていた。薬学部の校舎から一歩出たブロックの塀がある赤いトタン屋根でクリーム色の建物が僕が住んでいた第一福島荘でした。部屋の中では、寝てばかりいました。あの頃は、夜から昼まで寝ていました。毎日眠くて仕方がなかつたことだけは良く覚えています。アルミスチールの本箱には森村誠一の推理小説が100冊以上持っていた。その頃新宿紀伊国屋書店の4階で井上ひさしサンの「藪原検校」の演劇を一人で見に行ったことがある。怖いストーリーでしたね。財津一郎さんが主演でしたね。たぶんシェイクスピアの「マクベス」を真似たものなのだろう。あまりの怖さで孤独感が癒された覚えがあります。僕はと言えば紺のカーディガンを着てまるで早稲田大学第二文学部の学生のような格好してみた覚えがあります。気取っていたのですよね。頭が悪いのに高橋和巳の「我が心は石にあらず」をわからないのに読んだりしてました。矢張りあまり誇れる学生ではありませんでしたかな!あっと忘れていました。家に帰る途中だけど宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の文庫本をブックオフで購入する。カンパネラとジョバンニの会話が読みたくて!東京と川越市は、雰囲気が同じ。それならば、近くでもいいかと思った。川越市は、駅前からのアーケード街が長くてその通りを歩いた。人々が楽しそうに買い物したり、散歩したりとどこか高崎市の柳川町に似ていた。高崎市のスズランデパートによく似たまるひろ百貨店があった。ちょうどアーケード街の真ん中辺り。その前にミスタードーナッツがあり、まだ新規進出した東京風なお店でした。チョコドリンクとエンゼルクリームのドーナッツを食べた。お洒落な喫茶店に入ってアイスコーヒーを2杯ぐらいは、飲んだりした。あとは、もうする事がなくなった。アーケード街は、1キロメートルもあり、行ったり来たりしていた。本川越駅前にイトーヨーカドーがあった。藤岡市と同じデザインで、中で売っているものも同じなので、懐かしくなり寄る事が多かった。その辺りの路地裏は、風俗店が並んでいた。〇〇サロンが数軒軒を並べていた。キャバクラや綺麗な女性がいるパブが何件かあった。夜になると屋台ラーメン屋さんが出ていた。その時に〇〇居酒屋チェーン店の店先に学生アルバイトの立て看板をひょっと見た。学生アルバイト募集!そうだ此処でアルバイトでもすれは、楽しくなるかもしれないと思った。綺麗な女性店員さんもいるだろう。たまには、残り物の焼き鳥も食べられる。コレは、名案だと思った。まだ午後の陽射し照りつける時間。夕方から夜に掛けてのお店の入口は、まだ真っ暗。人気もなかった。 

川越の街でアルバイトをしていた。

学生時代には、このあたりを良く歩きました。イトーヨーカドーは、懐かしいので、中に入って見学しました。確か本川越駅。ここから川越駅まで行ったり来たりした、城西大学から一番近い都会でした。まだ池袋まで1時間あまりあり。此処で途中下車しました。イトーヨーカドーの近くに地下一階の喫茶店があり。行くあてもない時は、その階段を降りた。まるで。キャバクラの店内のような贅沢なソファーがあり、落ち着けた。この後。毎日通った時に。その喫茶店でアルバイトをしていた女性に好意を持たれた。でも歳上過ぎて困った。好意を持たれても、でも美人でした。まだ最初は、ひとりでコーヒー☕️を飲み、また繁華街までテクテク歩いて行く。学校は、行けなかった。理学部数学科は、難しくてわからなかった。担任の先生から学校を辞めなさいと言われた。どこか遠くに行こうと思った。数学の教科書も無いに等しい。先生は、微分・積分を教えても、頭の中には、勉強する気持ちにもならない。家に帰っても勉強しない。また、微分・積分を基礎からやるのかと思ったら、絶望してしまった。その時。辞めてどこか他の大学に行けば、良かったと思う。学校も行かず。下宿先も友達も出来ず。放蕩ではなく、単に行くあてもないようになってしまった。坂戸市の焼き鳥屋にバイトに入った。一日でクビになる。串に鶏肉が上手く刺さらない。あれは、難しい。それに、僕に愛想も無く。また暗かった。商売人に向かないと思った。そして俺は、焼き鳥屋のバイトも出来ないのかとまた絶望した。それから。川越市の本川越駅前の居酒屋チェーン店でバイト。立看板にアルバイト募集中。またやってみるかと思った。なんにでも挑戦した。それは、続いた。調理もせず。ただビールを運ぶだけ。半年もアルバイト。学校は、忘れました。友人も出来た。水田と言った。もうひとりは、名前を忘れました。適当な人達ばかり。遊んでいるのか仕事をしているのか。やっと大学に来たと感じた。川越市のイトーヨーカドーは大東文化大学の学生さんがいた。居酒屋のバイトの時に行く。そこの女性が好きだった。同じ年代だから関心がありました。そしたら、そのイトーヨーカドーの女の子がある男性と付き合っていた事が判明。驚きました。その男性は、40歳あまり。屋台のラーメン屋。妻子持ち。それは、気持ちが悪くなった。コレが大人の世界かと思った。自転車を軽のクルマに載せて、どこかに行くのも見た。そんなこんなしていても、慶一は学校の単位も取れない。NHK紅白歌合戦も見られない。徐々にやめようと思った。女性たちのクルマの運転手もしていた。だから本川越駅前は、良く知っている。その内。嫌になり家に帰った。川越市の繁華街は、上野アメ横に良く似ていた。もっとスケールがデカいとは言え無いが。川越駅から本川越駅までおよそ2キロがあらゆるお店屋さんでゴチャゴチャしていた。便利で住みやすい。
その時。考えれば、良かった。もう一度。あの時。やり直して。もっと簡単に卒業出来る大学に行けば良かった。当時は、本ばかり読むことが多いので、文学部でも行けば良かった。実家に帰った。農業していた。それでも学校を卒業した方が良いからと父親が学生管理部に行く。そしたら、経済学部なら転部出来ると言われた。父親は、嬉しくて、奨学金も借りられますか?と学生部長に聞いたら、馬鹿に奨学金は、貸せないと言われたとか言っていた。しかしながら経済学部の学費は、安くて。借りる心配は、無かった。
でも一旦入った大学は、やめられない。仕方がなく。この後。城西大学経済学部に転部した。そしたら、勉強が楽しくなる。授業も楽しい。先生の話しも聞いたけど聞かなくても何も言わない。試験は、高度経済成長7パーセントと書けば、単位が貰えた。大教室なので、先生も生徒も誰も知らない人ばかり。暇になると図書室に行っていた。専門の本は、読まず。確か石原慎太郎の化石の森を買って読んでいた。サッパリわからない。そしたら柴田錬三郎の全集が図書館にあり。おもしくて、全部借りて読む。文学とは、ほど遠いものが好きでした、だから文学部も駄目だと思う。

学生時代には、このあたりを良く歩きました。イトーヨーカドーは、懐かしいので、中に入って見学しました。確か本川越駅。ここから川越駅まで行ったり来たりした、城西大学から一番近い都会でした。まだ池袋まで1時間あまりあり。此処で途中下車しました。イトーヨーカドーの近くに地下一階の喫茶店があり。行くあてもない時は、その階段を降りた。まるで。キャバクラの店内のような贅沢なソファーがあり、落ち着けた。この後。毎日通った時に。その喫茶店でアルバイトをしていた女性に好意を持たれた。でも歳上過ぎて困った。好意を持たれても、でも美人でした。まだ最初は、ひとりでコーヒー☕️を飲み、また繁華街までテクテク歩いて行く。学校は、行けなかった。理学部数学科は、難しくてわからなかった。担任の先生から学校を辞めなさいと言われた。どこか遠くに行こうと思った。数学の教科書も無いに等しい。先生は、微分・積分を教えても、頭の中には、勉強する気持ちにもならない。家に帰っても勉強しない。また、微分・積分を基礎からやるのかと思ったら、絶望してしまった。その時。辞めてどこか他の大学に行けば、良かったと思う。学校も行かず。下宿先も友達も出来ず。放蕩ではなく、単に行くあてもないようになってしまった。坂戸市の焼き鳥屋にバイトに入った。一日でクビになる。串に鶏肉が上手く刺さらない。あれは、難しい。それに、僕に愛想も無く。また暗かった。商売人に向かないと思った。そして俺は、焼き鳥屋のバイトも出来ないのかとまた絶望した。それから。川越市の本川越駅前の居酒屋チェーン店でバイト。立看板にアルバイト募集中。またやってみるかと思った。なんにでも挑戦した。居酒屋は楽しかった。勉強しなくてよいし。お金がもらえた。それは、続いた。調理もせず。ただビールを運ぶだけ。半年もアルバイト。学校は、忘れました。友人も出来た。水田と言った。もうひとりは、名前を忘れました。適当な人達ばかり。遊んでいるのか仕事をしているのか。やっと大学に来たと感じた。川越市のイトーヨーカドーは、居酒屋のバイトの時に行く。そこの女性に大学生の女の子がいた。同じ年代だから関心がありました。そしたら、そのイトーヨーカドーの女の子がある男性と付き合っていた事が判明。驚きました。その男性は、30歳あまり。妻子持ち。それは、気持ちが悪くなった。コレが大人の世界かと思った。自転車をクルマに載せて、どこかに行くのも見た。そんなこんなしていても、学校の単位も取れない。NHK紅白歌合戦も見られない。徐々にやめようと思った。女性たちのクルマの運転手もしていた。だから本川越駅前は、良く知っている。その内。嫌になり家に帰った。川越市の繁華街は、上野アメ横に良く似ていた。もっとスケールがデカいとは言え無いが。川越駅から本川越駅までおよそ2キロがあらゆるお店屋さんでゴチャゴチャしていた。便利で住みやすい。
その時。考えれば、良かった。もう一度。あの時。やり直して。もっと簡単に卒業出来る大学に行けば良かった。当時は、本ばかり読むことが多いので、文学部でも行けば良かった。実家に帰った。農業していた。それでも学校を卒業した方が良いからと父親が学生管理部に行く。そしたら、経済学部なら転部出来ると言われた。父親は、嬉しくて、奨学金も借りられますか?と学生部長に聞いたら、馬鹿に奨学金は、貸せないと言われたとか言っていた。しかしながら経済学部の学費は、安くて。借りる心配は、無かった。
でも一旦入った大学は、やめられない。仕方がなく。この後。城西大学経済学部に転部した。そしたら、勉強が楽しくなる。授業も楽しい。先生の話しも聞いたけど聞かなくても何も言わない。試験は、高度経済成長7パーセントと書けば、単位が貰えた。大教室なので、先生も生徒も誰も知らない人ばかり。暇になると図書室に行っていた。専門の本は、読まず。確か石原慎太郎の化石の森を買って読んでいた。サッパリわからない。そしたら柴田錬三郎の全集が図書館にあり。おもしくて、全部借りて読む。文学とは、ほど遠いものが好きでした、だから文学部も駄目だと思う。