1990年代はスキーブームでした。慶一の仲の良い中里とテニスクラブの小暮さんがいっしょにスキーに行ったらしい。どこで知り合ったのか?それは。意外な組み合わせだと思った。あとで中里に聞いたら。青少年センターの料理教室。中里は男性なのに女性がいっぱいいて花嫁修行の女性に混じってクリスマスケーキ作りに参加していた。そこで神流支店金融係で下戸塚の中山さんと知り合いになったらしい。小暮さんのTOYOTAマークⅡにはJA神流支所の中山さんがいた。もうひとりの女性がいたらしいがその女性は知らない。女性2人と男性2人。たぶん苗場スキー場だと思う。中里が派手好きだから。ユーミンの「スキー天国サーファー天国」をよく聴いていたし。慶一はスキーが苦手。どうも楽しくない。それなのでスキー道具を持ってはいたが。中里に誘われても拒否していた。職場では。スキー大好きの中山さんはスキーをしない男性は嫌いだ!!と遠回しに慶一を非難していた。口うるさい女性だった。それに慶一のJA生命保険の勧誘成績が悪いことも職場で話していたらしい。それなのに慶一が農協の仕事をサボってテニスクラブに通っていることも何故か?気にしていた。たぶんテニスクラブに好きな女性がいるのだろう!とだからあんなに毎晩とテニスばかりしているのだろう!と職場で言われた。慶一は中山さんを気が強くて口うるさいと思っていた。でも。慶一は中山さんと同じ神流支所で働いていたら。どうなったかわからない。慶一はおとなしくてM系の男子なので。慶一は気が強い女性が大好きでした。慶一はおとなしい女性は一番嫌いなタイプでしたから。また中山さんは芸能人の中山ビデちゃんの身内でした。だから藤岡市では中山一族を知らない人がいなかった。でも慶一は平井支所だから。まず会うことも無かった。それに慶一はスキーがいくらやっても好きにならないのだから仕方がない。それは農協の橋本くんからも言われていた。また中里からはスキーをしないと結婚できない!!と言われた。

冬場だった。寒い日でも。白い上下ヨネックスのウェアーを着てテニスクラブに毎晩通った。ある日。テニスクラブの叔母さんに言われた。新井さんは二股かけているの?と。まさかウチの娘と中山さんの天秤かけているのだろう!と言われた。山口先生からは。新井慶一はだらしのない人間だ!!と言われた。あっちこっちに女性にちょっかい出しているふざけた男性である。と言われた。でも慶一は何にもしてないし。二股かけているなんて!僕がそんなにプレイボーイではないよ!と思った。その頃から徐々にテニスクラブでの立ち位置が悪くなった。どうしてこういうふうに慶一を悪い方に悪い方に向かわせるのか?誰か。山口先生の奥さんに新井さんが二股かけているよ!と告げ口でもしたらしい。それはまいった。してないのにしていると言われるくらい辛いものは無かった。だって慶一は繰り返し言うけど。女性とデートもしたことが無かった。

その頃だと思う。陶芸家の本多君が。山口先生の娘さんの彼がテニスクラブで叔母さんと話していたよ!と言った。その男性は礼儀正しく背が高くて色白で営業マン風と言っていた。陶芸家の本多君もA子さんが好きだったらしいから。ちょとだけ。ガッカリしていた。慶一は目の前真っ暗になった。恥ずかしさで穴があったら入りたくなった。テニスクラブの叔母さんのお気に入りは藤岡市神田の小暮さんでした。その小暮さんは叔母さんの娘さんのA子さんが一番苦手だと言っていたし。叔母さんから慶一は二股かけていると言われるし。藤岡市小野の縫島さんからは先生の娘を好きになるのは。「 新井さん!おこがましいよ!!」と忠告されたし。やめなさい!!と暗に言われた。ここではっきりと言います。中山さんとは。デートもしてないし。話しもしてないし。何にもない。確か農協のスキー同好会でみつまた・かぐらスキー場でいっしょになったことがあるぐらい。中山さんはその年に結婚した。そしてそのあと少し経ってからテニスクラブの娘のA子さんが結婚した。その時。やっぱりテニスクラブの叔母さんの娘のA子さんが一番好きだったことがその時わかった。だいいち神流支所の中山さんが結婚した話しを聞いても。そんなに動揺もしなかったから。学生時代には、このあたりを良く歩きました。イトー学生時代には、このあたりを良く歩きました。イトーヨーカドーは、懐かしいので、中に入って見学しました。確か本川越駅。ここから川越駅まで行ったり来たりした、城西大学から一番近い都会でした。まだ池袋まで1時間あまりあり。此処で途中下車しました。イトーヨーカドーの近くに地下一階の喫茶店があり。行くあてもない時は、その階段を降りた。まるで。キャバクラの店内のような贅沢なソファーがあり、落ち着けた。この後。毎日通った時に。その喫茶店でアルバイトをしていた女性に好意を持たれた。でも歳上過ぎて困った。好意を持たれても、でも美人でした。まだ最初は、ひとりでコーヒー☕️を飲み、また繁華街までテクテク歩いて行く。学校は、行けなかった。理学部数学科は、難しくてわからなかった。担任の先生から学校を辞めなさいと言われた。どこか遠くに行こうと思った。数学の教科書も無いに等しい。先生は、微分・積分を教えても、頭の中には、勉強する気持ちにもならない。家に帰っても勉強しない。また、微分・積分を基礎からやるのかと思ったら、絶望してしまった。その時。辞めてどこか他の大学に行けば、良かったと思う。学校も行かず。下宿先も友達も出来ず。放蕩ではなく、単に行くあてもないようになってしまった。坂戸市の焼き鳥屋にバイトに入った。一日でクビになる。串に鶏肉が上手く刺さらない。あれは、難しい。それに、僕に愛想も無く。また暗かった。商売人に向かないと思った。そして俺は、焼き鳥屋のバイトも出来ないのかとまた絶望した。それから。川越市の本川越駅前の居酒屋チェーン店でバイト。立看板にアルバイト募集中。またやってみるかと思った。なんにでも挑戦した。それは、続いた。調理もせず。ただビールを運ぶだけ。半年もアルバイト。学校は、忘れました。友人も出来た。水田と言った。もうひとりは、名前を忘れました。適当な人達ばかり。遊んでいるのか仕事をしているのか。やっと大学に来たと感じた。川越市のイトーヨーカドーは、居酒屋のバイトの時に行く。そこの女性に大学生の女の子がいた。同じ年代だから関心がありました。そしたら、そのイトーヨーカドーの女の子がある男性と付き合っていた事が判明。驚きました。その男性は、30歳あまり。妻子持ち。それは、気持ちが悪くなった。コレが大人の世界かと思った。自転車をクルマに載せて、どこかに行くのも見た。そんなこんなしていても、学校の単位も取れない。NHK紅白歌合戦も見られない。徐々にやめようと思った。女性たちのクルマの運転手もしていた。だから本川越駅前は、良く知っている。その内。嫌になり家に帰った。川越市の繁華街は、上野アメ横に良く似ていた。もっとスケールがデカいとは言え無いが。川越駅から本川越駅までおよそ2キロがあらゆるお店屋さんでゴチャゴチャしていた。便利で住みやすい。

その時。考えれば、良かった。もう一度。あの時。やり直して。もっと簡単に卒業出来る大学に行けば良かった。当時は、本ばかり読むことが多いので、文学部でも行けば良かった。実家に帰った。農業していた。それでも学校を卒業した方が良いからと父親が学生管理部に行く。そしたら、経済学部なら転部出来ると言われた。父親は、嬉しくて、奨学金も借りられますか?と学生部長に聞いたら、馬鹿に奨学金は、貸せないと言われたとか言っていた。しかしながら経済学部の学費は、安くて。借りる心配は、無かった。
でも一旦入った大学は、やめられない。仕方がなく。この後。城西大学経済学部に転部した。そしたら、勉強学生時代には、このあたりを良く歩きました。イトーヨーカドーは、懐かしいので、中に入って見学しました。確か本川越駅。ここから川越駅まで行ったり来たりした、城西大学から一番近い都会でした。まだ池袋まで1時間あまりあり。此処で途中下車しました。イトーヨーカドーの近くに地下一階の喫茶店があり。行くあてもない時は、その階段を降りた。まるで。キャバクラの店内のような贅沢なソファーがあり、落ち着けた。この後。毎日通った時に。その喫茶店でアルバイトをしていた女性に好意を持たれた。でも歳上過ぎて困った。好意を持たれても、でも美人でした。まだ最初は、ひとりでコーヒー☕️を飲み、また繁華街までテクテク歩いて行く。学校は、行けなかった。理学部数学科は、難しくてわからなかった。担任の先生から学校を辞めなさいと言われた。どこか遠くに行こうと思った。数学の教科書も無いに等しい。先生は、微分・積分を教えても、頭の中には、勉強する気持ちにもならない。家に帰っても勉強しない。また、微分・積分を基礎からやるのかと思ったら、絶望してしまった。その時。辞めてどこか他の大学に行けば、良かったと思う。学校も行かず。下宿先も友達も出来ず。放蕩ではなく、単に行くあてもないようになってしまった。坂戸市の焼き鳥屋にバイトに入った。一日でクビになる。串に鶏肉が上手く刺さらない。あれは、難しい。それに、僕に愛想も無く。また暗かった。商売人に向かないと思った。そして俺は、焼き鳥屋のバイトも出来ないのかとまた絶望した。それから。川越市の本川越駅前の居酒屋チェーン店でバイト。立看板にアルバイト募集中。またやってみるかと思った。なんにでも挑戦した。それは、続いた。調理もせず。ただビールを運ぶだけ。半年もアルバイト。学校は、忘れました。友人も出来た。水田と言った。もうひとりは、名前を忘れました。適当な人達ばかり。遊んでいるのか仕事をしているのか。やっと大学に来たと感じた。川越市のイトーヨーカドーは、居酒屋のバイトの時に行く。そこの女性に大学生の女の子がいた。同じ年代だから関心がありました。そしたら、そのイトーヨーカドーの女の子がある男性と付き合っていた事が判明。驚きました。その男性は、30歳あまり。妻子持ち。それは、気持ちが悪くなった。コレが大人の世界かと思った。自転車をクルマに載せて、どこかに行くのも見た。そんなこんなしていても、学校の単位も取れない。NHK紅白歌合戦も見られない。徐々にやめようと思った。女性たちのクルマの運転手もしていた。だから本川越駅前は、良く知っている。その内。嫌になり家に帰った。川越市の繁華街は、上野アメ横に良く似ていた。もっとスケールがデカいとは言え無いが。川越駅から本川越駅までおよそ2キロがあらゆるお店屋さんでゴチャゴチャしていた。便利で住みやすい。

その時。考えれば、良かった。もう一度。あの時。やり直して。もっと簡単に卒業出来る大学に行けば良かった。当時は、本ばかり読むことが多いので、文学部でも行けば良かった。実家に帰った。農業していた。それでも学校を卒業した方が良いからと父親が学生管理部に行く。そしたら、経済学部なら転部出来ると言われた。父親は、嬉しくて、奨学金も借りられますか?と学生部長に聞いたら、馬鹿に奨学金は、貸せないと言われたとか言っていた。しかしながら経済学部の学費は、安くて。借りる心配は、無かった。
でも一旦入った大学は、やめられない。仕方がなく。この後。城西大学経済学部に転部した。そしたら、勉強が楽しくなる。授業も楽しい。先生の話しも聞いたけど聞かなくても何も言わない。試験は、高度経済成長7パーセントと書けば、単位が貰えた。大教室なので、先生も生徒も誰も知らない人ばかり。暇になると図書室に行っていた。専門の本は、読まず。確か石原慎太郎の化石の森を買って読んでいた。サッパリわからない。そしたら柴田錬三郎の全集が図書館にあり。おもしくて、全部借りて読む。文学とは、ほど遠いものが好きでした、だから文学部も駄目だと思う。


が楽しくなる。授業も楽しい。先生の話しも聞いたけど聞かなくても何も言わない。試験は、高度経済成長7パーセントと書けば、単位が貰えた。大教室なので、先生も生徒も誰も知らない人ばかり。暇になると図書室に行っていた。専門の本は、読まず。確か石原慎太郎の化石の森を買って読んでいた。サッパリわからない。そしたら柴田錬三郎の全集が図書館にあり。おもしくて、全部借りて読む。文学とは、ほど遠いものが好きでした、だから文学部も駄目だと思う。


ヨーカドーは、懐かしいので、中に入って見学しました。確か本川越駅。ここから川越駅まで行ったり来たりした、城西大学から一番近い都会でした。まだ池袋まで1時間あまりあり。此処で途中下車しました。イトーヨーカドーの近くに地下一階の喫茶店があり。行くあてもない時は、その階段を降りた。まるで。キャバクラの店内のような贅沢なソファーがあり、落ち着けた。この後。毎日通った時に。その喫茶店でアルバイトをしていた女性に好意を持たれた。でも歳上過ぎて困った。好意を持たれても、でも美人でした。まだ最初は、ひとりでコーヒー☕️を飲み、また繁華街までテクテク歩いて行く。学校は、行けなかった。理学部数学科は、難しくてわからなかった。担任の先生から学校を辞めなさいと言われた。どこか遠くに行こうと思った。数学の教科書も無いに等しい。先生は、微分・積分を教えても、頭の中には、勉強する気持ちにもならない。家に帰っても勉強しない。また、微分・積分を基礎からやるのかと思ったら、絶望してしまった。その時。辞めてどこか他の大学に行けば、良かったと思う。学校も行かず。下宿先も友達も出来ず。放蕩ではなく、単に行くあてもないようになってしまった。坂戸市の焼き鳥屋にバイトに入った。一日でクビになる。串に鶏肉が上手く刺さらない。あれは、難しい。それに、僕に愛想も無く。また暗かった。商売人に向かないと思った。そして俺は、焼き鳥屋のバイトも出来ないのかとまた絶望した。それから。川越市の本川越駅前の居酒屋チェーン店でバイト。立看板にアルバイト募集中。またやってみるかと思った。なんにでも挑戦した。それは、続いた。調理もせず。ただビールを運ぶだけ。半年もアルバイト。学校は、忘れました。友人も出来た。水田と言った。もうひとりは、名前を忘れました。適当な人達ばかり。遊んでいるのか仕事をしているのか。やっと大学に来たと感じた。川越市のイトーヨーカドーは、居酒屋のバイトの時に行く。そこの女性に大学生の女の子がいた。同じ年代だから関心がありました。そしたら、そのイトーヨーカドーの女の子がある男性と付き合っていた事が判明。驚きました。その男性は、30歳あまり。妻子持ち。それは、気持ちが悪くなった。コレが大人の世界かと思った。自転車をクルマに載せて、どこかに行くのも見た。そんなこんなしていても、学校の単位も取れない。NHK紅白歌合戦も見られない。徐々にやめようと思った。女性たちのクルマの運転手もしていた。だから本川越駅前は、良く知っている。その内。嫌になり家に帰った。川越市の繁華街は、上野アメ横に良く似ていた。もっとスケールがデカいとは言え無いが。川越駅から本川越駅までおよそ2キロがあらゆるお店屋さんでゴチャゴチャしていた。便利で住みやすい。
その時。考えれば、良かった。もう一度。あの時。やり直して。もっと簡単に卒業出来る大学に行けば良かった。当時は、本ばかり読むことが多いので、文学部でも行けば良かった。実家に帰った。農業していた。それでも学校を卒業した方が良いからと父親が学生管理部に行く。そしたら、経済学部なら転部出来ると言われた。父親は、嬉しくて、奨学金も借りられますか?と学生部長に聞いたら、馬鹿に奨学金は、貸せないと言われたとか言っていた。しかしながら経済学部の学費は、安くて。借りる心配は、無かった。
でも一旦入った大学は、やめられない。仕方がなく。この後。城西大学経済学部に転部した。そしたら、勉強が楽しくなる。授業も楽しい。先生の話しも聞いたけど聞かなくても何も言わない。試験は、高度経済成長7パーセントと書けば、単位が貰えた。大教室なので、先生も生徒も誰も知らない人ばかり。暇になると図書室に行っていた。専門の本は、読まず。確か石原慎太郎の化石の森を買って読んでいた。サッパリわからない。そしたら柴田錬三郎の全集が図書館にあり。おもしくて、全部借りて読む。文学とは、ほど遠いものが好きでした、だから文学部も駄目だと思う。