僕が通っていた大学は、城西大学です。その時の友人にSがいました。同じ下宿で部屋が隣。生まれは、広島県広島市安佐南区。昭和20年8月6日午前8時過ぎ。アメリカ🇺🇸軍が原子爆弾を投下した。死者は、17万人。(その年に亡くなった人の数。)  Sの自宅は、その数キロ先。Sは、その事実を隠しませんでした。しかしあまり誰も聞かなかった。Sは、その話しを持ちかけると困った顔するだけで、その他の事は何も話さなかった。そのSの家に遊びに行ったことがあります。夏休みが始まる時期でした。Sが、実家に帰省するから、ウチに遊びに来るかいと言われた。何も知らないので、行ってみた。僕には、無鉄砲なところがあった。それにしても、遠かった。片道約1000キロもあった。僕のクルマで行った。自動車は、ポンコツの日産サニー。父親のクルマを借りていた。Sは、助手席に乗り東名高速道路。阪神高速道路。中国高速道路。なんと高速料金が新幹線よりも高かった。帰りの高速料金が無くて、Sに借りました。ちゃんとお金は、返しました。僕は、お金の貸し借りだけは、真面目でした。

     その日、父親がよく来てくれたと喜んでくれた。翌日には、親戚の蜜柑農家に連れて行ってもらう。田舎道を山間の中をクルマで走り、橋を渡った。陸地に近い島になっていた。瀬戸内海が一望できる山肌に蜜柑畑が、緑色の葉を生い茂っていた。山は、急な坂道で、遠くに水色の海が見えた。畑の中には、蜜柑を、下ろす鉄製のトロッコが設置されていた。
帰りは、広島市街地を素通りした。原爆ドームには、行きたくなかったので、正直言って僕は、良かったと思った。広島県の海岸沿いには、三菱造船所とか三菱重工業らしい工場建物があった。その近くの海の中に黒い電信柱が浮いていた。なんだろうと良く見ると、潜水艦が2隻か3隻浮いていた。まだこんなものがあるのかと思い震えた。Sの父親は、男らしく身体付きも良かった。ガラガラ声で太っ腹なイメージでした。何処か身体の具合がよくなげでもあった。Sの母親は、おとなしそうにしていた。まだ若そうでした。「私は、広島県の山のほうから、嫁に来たの。」と言った。確か中国自動車道路🚗の方だなぁと思った。随分と高速道路が山の中で、自動車がまったく走ってなかった。どこかそう言えば、母親は、田舎ぽい感じ。Sは、父親よりも母親に似ているた思った。
Sは、下宿では人柄良くみんなに好かれていた。目立たない。おとなしそう。深く話しは、しない。まあシャイな感じでした。自分から積極的に話し掛けることがなかった。いるのかいないのか、わかりませんでした。だから始めは、お付き合いは、してませんでした。Sは、城西大学卓球部に所属していた。
いまでは、メジャーなスポーツですが、当時はパッとしないスポーツでもあった。Sは、部活が終わるとさっさと風呂に入って寝ていた。4年間真面目に卓球部に所属する。下宿の人とは、麻雀の時以外は、寝ていた。いつも、親が使い切れないほどお金を銀行に振りこんでくれる。と話していた。家が賃貸マンションを経営しているとのこと。それでいて、質素なんだ。毎月5万円もあれば、足りる。という。顔だちは、読売ジャイアンツの上原浩治(うえはら・こうじ)に似ていた。頭は、スポーツ刈りで短くいつも良く笑っていた。シャイな感じでおとなしかつた。だからあまり話しもお付き合いもしてませんでした。もう1人の友達のYは、いつも部屋に居た。Yからは、まだ結婚式の招待状が届いてなかった。卒業後。10年が経ち。Sの結婚式にも行きました。もちろんYも一緒。結婚式には、長渕剛の「 乾杯 」を歌う。その結婚式の日に城西大学卓球部のキャプテンに会った。キャプテンは、礼儀正しく。「Sの結婚式に来てくれて、どうもありがとう。」と言ってくれた。

最近では、もう年賀状のやり取りもなくなった。40年も前ですから。3人とも城西大学経済学部。ほとんど勉強は、しませんでした。だいたい昼間まで寝ていた。夕方から夜にかけて、腹が減るので、よく3人で城西歯科大学の北側にある食堂へ夕飯を食べに行った。
   2月28日は、僕の誕生日でした。まだ寒い冬の夕方。もう少しで、城西大学経済学部の卒業式を控えていた。Sが珍しく学食に夕飯を食べに行こう!と言った。下宿から大学の学食まで歩いて3分。食券機の前でSが「新井さん!今日は、誕生日だろう。」という。「おめでとう㊗️。新井さん?カレーライス奢るよ!」僕は、急なので驚く。正直言って、その時嬉しくって涙が出そうになった。カレーライス🍛を食べながら、いやほんと泣いちゃった。