親父が亡くなったんですけど、どーも実感沸いてこない件 (´・ω・`) | あらいぎまちゃんセンター

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あらいぎまちゃんですよ!? m9( ゚д゚)

12月16日の午後7時頃、この時仕事中だった私に

大阪の実家の母から突然「お父さんが風呂で溺れた!! どないしよう!!」と

取り乱した電話がかかってきまして。(´・ω・`)

 

そんなもん、北海道に住む息子に電話するより

救急車呼ぶ方が先やろって言ったら
119も思い出せないほどパニクってましたので

私は一旦電話を切り、自分の電話で119をしたら
「大阪の救急はこちらから出動できないんですー」と

まぁ当たり前と言えば当たり前だけど

「いや、北海道から救急車で大阪に向かってくれって

言ってるわけじゃ無いし、適切な消防署に

転送とか要請とかしてくれんもんかなー」などと

思いつつ、ネットで実家の近くの消防署を検索して

そこに要請したら、このモタついている感に

母が冷静になって119に電話したようで

もう救急車は出動済みでした。(`・ω・')

 

親父はまぁそのまま帰らぬ人となったわけですが

死因は検死の結果、溺死では無く心臓麻痺みたいなもんでした。

正確な病名は「虚血性心疾患」。

 

顔は水に浸かってなかったし、母親の方もそこら辺は

普段から気を使って、短い間隔で風呂場の親父に

声掛けてたみたいですからね。もう普通に湯船に浸かってて

気持ちいいままにポックリ‥‥みたいな感じだったようです。

 

親父は去年の春頃から軽い認知症を患いだして

「日付が言えない」などの記憶障害の他

「明らかに性格が変わる」といった症状が見られるようになりました。

 

どういう風に性格が変わったのかというと

以前なら「一言多い、いらんこと言う」「キレやすい」といった

悪い部分が「仏さんのように穏やか」になり

返事は「はい」と素直に答え、なにをやってあげても「ありがとう」と感謝の気持ちを言い

事あるごとに周りの人に対して感謝の言葉を述べるようになったんですよね。

 

「認知症から来る性格の変化」というのは

厄介な物としては「反社会性(暴力や窃盗等)」や「徘徊」等の

様々な形態があるようですが

その中でも、まぁ‥‥「一番マシ」な部類の症状です。

 

が、それでもやはりボケというのは周りの人間からしてみたら

やはり怖い物で、割と気丈な性格をした母親が

こんな‥‥チラシの裏に書いた日記からも

恐怖を感じているのが見て取れました。

 

 

要は「昨日食べたカレーを忘れてしまってる」という内容です。

 

私には兄が居ますが両親とは別居してますので

実家は父と母しか居ないわけですが、

父が認知症を発症して免許を返納してからは‥‥

一ヶ月に数回は電車を使わないと行けない距離の大学病院に

母が付き添って行かなければならなくなりました。

 

私も当然そこら辺のことを心配してまして、二ヶ月に一度くらいは

大阪に帰って車を借り、それを使って通院など様々な用事を済ませたり

また今年は猛暑だったので甥ッコに小遣い渡して

中々付けたがらないエアコン掃除させ、毎日付けさせるよう指示したりと

色々やってました。

 

しかしそこからさらに‥‥本人が

入れ歯の手入れを怠ったせいで顎に穴が空き、

その洗浄のために3日に一回は口腔外科の病院にバスに乗って行かなければ

ならなくなると、さすがに母親の「老老介護」も日に日にハードになりつつあると

不安になりました。

 

母親もいまだに趣味の卓球や、プロ並みの規模を持つ家庭菜園などをしたりして

年齢の割にはカクシャクとした雰囲気があって元気でしたが

さすがに昨年から急激に身体が弱り始めた父の介護は身体に応えたと思われ

しょっちゅう「疲れ切って自分の方が先に死ぬ」などと言ってたくらいです。

 

だから私としては‥‥まぁ息子として薄情に思われるかも知れませんが

今回のこの父の死というのは「母が疲弊しきって倒れる前に

逝ってくれてホッとした」というのが正直な感想なんですよね。

 

最後に父に会ったのは10月の末でしたが

その時交わした言葉は、実家から大阪に帰る間際の

 

私「散歩せぇよ」

父「はい」

 

でしたかね。散歩をし、身体を動かした日は頭がハッキリしているので

私も母も常々散歩しろ散歩しろと言ってましたし。

 

そして結局、仕事中に父が倒れた一報を受け

同僚に残務処理をお願いし、関西空港行きの最終便に乗るため

家を飛び出した後‥‥兄からの電話で父の死を聞いたんですよね。

その電話は新千歳空港のANAラウンジの前にある優先搭乗客用の

手荷物検査エリアだったので、多分今後あそこを通る度に

この日のことを思い出すと思います。

 

 

そう、今年友人から来た歳暮の「ANAの株主優待」が非常に役に立ったんですよね。

新千歳から関空は、定価で4万円ですし。ANAやJALのような正規航空は

マイレージで乗ることが多いんですが、マイルだと当日券は発券出来ないんですよね。

現金ですが半額に出来る株主優待券のおかげで、ここまでフットワーク軽く帰省出来たと言っても

過言ではないです。

 

関空には兄嫁が車で迎えに来てくれていて、

そこから病院行くのかなーと思ってたんですが、

自宅での死去という事で警察の検死が必要となったんですよね。

 

経験した方ならわかると思いますが、

病院以外で死亡すると絶対に警察の実況見分などが入って

犯罪性はないかどうか検死を受ける義務が発生します。

なので父の死に顔を見たのは翌日の葬儀場でした。

 

実家に居た母はもう既に落ち着きを取り戻していて、

色々と準備するために掃除を始めていました。

 

実家には父の残した食べかけの焼き鳥がありました。

取る物とりあえず家を出たので、腹が減っていた私は

普通にその食べ残しを食べました。

 

 

母に「死人の残り物なんか、よく食えるな」と言われました。

 

実家には父と同様、現在警官を務めている兄と、私の甥姪である

三人の子供達も集まっていました。

 

三人とも車を保有していますが、葬儀に集まった親戚たちを

ピストン輸送で駅まで送迎したりと、甥と姪は葬儀を通して非常に役に立ってくれました。

役に立ちすぎて、急いで帰った叔父の私の役のたたなさっぷりが目立ったほどですね。

 

 

とりあえず葬儀客に飲んで貰うお茶やお茶菓子を用意するため

24hストアに行ったくらいですね。ペットボトルのハーフボトルのお茶というのは

こういったバタバタした中で行われる寄り合いには

非常に役に立つのです。家人はいちいちお茶を煎れる必要が無く、

そして飲みかけのお茶を持って帰ることが出来ますからね。

 

まぁそんな感じでバタバタしつつも翌日の葬儀の日を迎え

前述の通り、初めて親父の死に顔を見たのは

棺の中だったわけですが、なんともまぁ‥‥

親父と最後に交わした

 

私「散歩せぇよ」

父「はい」

 

の会話の後にそのまま昼寝してしまった時のような

安らかな死に顔でした。

 

そして私も、

 

 

祭壇のこれ見て「ポッキーオンザロックみたいやな」とか

呑気に思うなどして頭の中がどうしても感傷的な気分に切り替わらないので

葬儀場の別室に設けられている仮眠室で、親父の亡骸と

一晩過ごしてみたりと色々試してみたりもしました。

 

 

そして火葬場に移動した時も、煙突から親父の魂が

煙と共に立ちのぼっていくのを見たくて、

喪主の兄が火葬のスイッチを押した直後に

スマホ持って外に移動したのですが‥‥

最近の火葬場は無煙化が進んでるらしく

 

 

こんな感じでまったく見えないので、家族に

 

「最近の焼き肉屋みたいやな!? 無煙ロースターや」

 

としょうも無いことを言ったりしていました。

 

そして火葬が終わり骨になった後もやることは一杯で

翌日は父の出身である和歌山県高野山の親戚にお礼参りし、

そして高野山の「奥の院」まで親父の遺骨を納骨し、

一連の葬儀のひと区切りを付けました。

 

 

そんな感じで、数日前までは予想も付かなかった

バタバタした展開があっという間に過ぎていったわけですが、

まぁ‥‥アレですね。これが父だからまだ冷静で居られていると思うんですけど

母だったらどうでしょうね。考えたくもないんですが。

 

そして自分だったらどうだろう、と思います。

 

親父はビックリするくらい立派な葬儀で

送られたと思います。そして私も、親父が今

30分だけ生き返ったとしたら何したい!? とか言われても

別に何にも思い浮かびませんし。そこそこまめに帰省しましたし

旅行も散々連れて行きましたしね。

 

こんなまともな死に方は出来無いだろうなーというのが

正直な感想です、本当。

 

そんなわけで、とりとめも無いことをダラダラと書いてしまいましたが

今年も残すところあとわずかです。地震は来るわ親父死ぬわで

色々と大変でしたが、来年も頑張っていかないかんなーと

思っております。(´・ω・`)