人はどんなにやさしくても、閉ざされた状況下では、我欲に負け、残忍なこともするらしい。石油危機の少し前、新聞に精神病院で医師が患者に人体実験や頭部に電流を流す記事もあり、林田博士も読み、批判的な見方もした。ところが...。

 

    昭和49年(1974年)9月。林田博士は「新医学を創るため」と述べ、特に手足の硬直が強い脳性麻痺を持つ、秦野幸雄に脳の一部を切り取る手術を決め、本人にも「これで硬直も取れるよ」と話した。でも、秦野はそのようなことではよくならないことを知っており、逆に怖さを感じた。以前、原因不明の頭痛になったことも思い出し、その仮病を使うことにした。

   一職員が

 「幸雄君は昨夜から食欲がなく、今朝には頭痛を訴えているの。熱はないけれど、変」

 

 過去のカルテも見て、林田博士は

  「ウーン。以前も神経性頭痛があったし、今回もそれだろう。しばらくかかりそうだ。かと言って、用意した以上、手術を大幅に伸ばすわけにはいかない。似た身体の状態の高野秀子にしよう。三日だけ遅らせて」。

 高野秀子も歩行不可能、手足の硬直が常に強い身体である。本人に告げた。こわくて、泣きそうな顔に

なったが、ことわるすべさえ知らない。為されるまま。

 

    麻酔で意識を失わせ、頭骨の一部を切り開き、脳神経の過剰に動くところを切り取る。癌の手術の応用風だが、日本でも方々の医者が脳性まひ児者に行なっていたが、治療結果も公にされず、葬られた。ろくな効果はなかった。「神の領域」とされる脳の治療。敬虔なクリスチャンだった林田博士だが、いつの間にか、神の領域を超えて、自分が神になろうとしていた。

 

  手術は執り行われた。手足の硬直は消えたが、まったく動かなくなった。じゅうたんや畳の上に座り、いざりで自由に動けたのに、身体全体の力が入らず、座ることもできない。常に車いすに乗るしかない。たどたどしく

 「これ、私の体じゃない」

と言う。聞いた職員は悲しく思う。高田勝男はことを知り、

 「園長の奴、とんでもないことをしやがって」

と激怒。秦野幸雄は元気なく、うなだれていた。心の中では、罪意識にさいなまれていた。話は広まり、シマハタの雰囲気は暗くなった。誰もが精神不安に陥った。

 中庭の木も、恐らく神も沈黙するのみだった。