人材育成と会津藩校日新館と原発事故 | 荒井広幸 草の根 ブログ

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荒井広幸(あらいひろゆき)参議院議員 オフィシャルブログ

今から230年前、江戸時代中期の1782~1788年(天明2年から8年)。
「天明の飢饉」という穀物が取れないことで多くの人々が飢え死にする大災害があった。
東北地方では多くの餓死者がでた。
原発事故で風評被害にさらされた会津若松市、当時の会津藩もしかり。
こうした国難を乗り切るには、当面の食べることへの対応はもとより、災害に打ち勝つ力を養なっておく長期戦略が必要と先人は考えた。
「カ」とは、「そなえよ備に」との心構えをしっかりすることであり、そのためには教育こそ中心にあるべきで、その担い手は子ども達・若者であると考えた。つまり「人材育成」こそ、会津藩の柱である、と先人は覚った。
会津藩校「日新館」はこうして先人、わけても家老、田中玄宰の尽力によって創設されることになった。時に1803年(享和3年)のこと。
以来、多くの人材が育成され、会津はものも心も豊かな土地柄になっていった。その土地柄とカが信頼され幕末には考明天皇や将軍慶喜公などから絶大なる信頼を得ることとなる。
そして、ここで学んだ16~17才位の若者が白虎隊を組織し、明治の世を創る痛ましい礎の一つとなった。(1986年末、「白虎隊」日テレ放送のテーマソング「愛しき日々」のメロディーが流れてきそうだ)

時代が移って昭和に、あらためて人材育成こそ大切であり、日新館が今こそ必要であると私財を投じて孔子廟を含め再建したのが、会津若松商工会議所会頭を務めた、実業家にして碩学の人高木厚保さん。
日新館を訪れ、高木さんの高説を聞くたびに何故か勇気が湧いてくる。
高木さんはまだ80才をこえたところ。この日新館を本来在った鶴ヶ城のそばに移築したいと意欲満々である。是非、お手伝いをしたいと思っている。

この日新館の教えを、原発で避難している大熊町に
「大熊町を再興するのは、子ども達。人材育成。だから、子ども達をまるごと受け入れる。そのために学校の校舎ごと提供する。(写真1)」
という行動に出たのが管家市長。(写真2)

戊辰戦争に敗れ、地元会津から今の青森県に移封(藩ごと1万3000名余が移住)された思いは、原発事故で地元から30km圏の外へ避難しなければならない大熊町の思いと重なる。
「人材育成」を、ことの他大事と思う渡辺利綱町長と市長の見事な阿吽の呼吸による善行である。

カメラ SP 大熊町町長と共に頑張っている職員各位を代表して秋本課長を囲む(写真1)
【左、松下新平議員と共に】
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会津若松市内の旧高校を大熊町役場と中学校として提供している。

カメラ SP 中央が菅家市長(写真2)
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