道の道とす可(べ)きは常道に非(あら)ず。
名の名とす可(べ)きは常名に非(あら)ず。
名無し、天地の始(はじめ)には。
名有れ、萬物の母にこそ。
老子 「體道第一」 の前半部分より
やっかいなことに、「道」を語ろうとして「道とは・・」と言葉にした途端、
既にそれは本来の「道」ではないのだ。
「これが道です」といえるような「道」は、真の道とはいえない。
言葉にも、論理にも、限界がある。
同じように、「名」というものも信用しすぎてはいけない。
有名、名声、肩書などは当てにならないもので、無名でも立派な人物は多い。
大事なのはその人の中身なのだ。
天地の始まる前には「名」など無かった。
万物をただ”区別”するためにある「名」とは、一種の符号に過ぎない。
だから惑わされないように注意が必要なのだよ。
出典:「ビジネスリーダーのための老子『道徳経』講義」田口佳史著 致知出版社
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表現に言葉は欠かせない。
しかし、言葉には限界がある。
それぞれが頭で思うこと、心で感じること、
それを言葉にしたとして、
目の前にいる誰かが、それと全く同じ感覚をもって捉えることは不可能に近い。
どう論理を駆使したとしても、完璧に伝えることは難しい。
だからこそ、感覚を大事にする。
あることを捉えようと思ったら、理屈から入るのではなく
五感をフル活用して「体得」する。
人から聞いたことや、既にある概念、についても
頭で理解しようとするのでなく、身体全体で受けとめてみよう。
何か違和感はないか?
第六感が働くかもしれない。
それを無視しないで、意識・注意を向けてみる。
”本当にそうなのか?”
常に疑いをもち、そうやって自分の感覚を研ぎ澄まし、信頼していきたいと思う。
なぜ人は、名声、肩書で人を判断するのか?
ひとつには、おそらく・・・”楽”だから、ではないだろうか。
もし誰にも肩書などなかったら?
常に自分で判断しなければならなくなる。
相手をよく観察する。自分なりの基準づくりも必要。
そこに主観が入り過ぎていないかのチェックも。
人から聞いた噂も、自分で判断しなければならない。
このような手間・労力を省いているのではないか・・
また、仮に名声を得た者は、その居心地のよさから、
より名声重視とする世の中を好み、作りあげていくだろう・・
ある一定の場面では、「名」がついていた方が、円滑に進むことも多く
「名」をつけることが、即、害というわけではないと思う。
大事なのは、それに何の疑いも持たず
振り回されてしまわないようにすること。
「名」を聞いても、
その上で見極める自分の眼を養うようにすればいい。
「名」は単に便宜を図るためのものである、惑わされるな、
という老子からのありがたき忠告と捉えて。
<***次回、「體道第一」後半部分につづきます***>




