敬(けい)すれば則ち心精明(こころせいめい)なり。

 
佐藤一斎 「言志録 一五七」より

 


慎み、謙虚さを忘れないでさえいれば、


心は晴れやかにすっきりとし、

 

事象、そしてそこに出てきていない、目に見えないものもつかめるであろう。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「敬」は、うやまう、と読み、
その意味で捉えるのが一般的ですが、
ここでは、

「つつしむ」という意味あいをもちます。

 

この「言志録 一五七」の前後数章は、「敬」についての記述が続き、
それらからは、

 

志をもつ

聡明である

 

というような意味も読み取れます。

 

聡明とは・・
「聡」→ 耳がよく聴こえること
「明」→ 眼がよく見えること

鋭い観察力を日々養っている様を表しています。

 

慎みを忘れないこと = 志をもつこと = 聡明であること

 

これらはすべて同義であり、
相互に作用するものであるということかもしれません。

 

 

以前、田口先生に ”なぜ「敬」を「慎み」と捉えるのか?”
と質問したところ、

 

”畏敬 = 畏れ = 慎む ”

 

という図式を教えていただきました。

 


自然界や目に見えないものへの畏敬の念。
畏れ、敬う、
その気持ちこそが、「慎み」につながる、と。

 

そして必ず、
「敬」の背後には「愛」が控えているのだ、

ということも教えていただきました。

 

愛あるからこその、敬。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

そのほか、

田口先生のご著書
「超訳 言志四録」田口佳史著 三笠書房知的生きかた文庫
によると、

 

「精明」とは「見えないところまで見える」ことを意味し、
ビジネス、プライベート、どちらの面においても、
まだ起きていない先のことが見え、
相手の心が見え、

その上で対応できれば必ずうまくいく、と。

 

 

また、「敬」のそもそもの意味は「神に仕える」こと 

とのことです。

 


私心・私欲に負けず・・神社で参拝するときのような


真心を込めて
済み切った気持ちで

 

日々行動することを心がけることで、心の揺らぎが防げるようになる。

 

 

いかに、他人・外界からの状況に左右されないでいられるか・・

がカギとなりそうですが・・(^^;

 

 

神社の境内で手を合わせているときの気持ちを思い出すだけで
ちょっと気持ちがすっきりしますね(^^)

 

特に、もやもやしたときなどには思い出したい気持ちです。

 

 

1471220450270.jpg