雨の阿佐ヶ谷

 

 あの日、あの時、あの場所に本当に立っていたのだろうか。

 そんなことを考えながら、阿佐ヶ谷北口のアーケード街にある古書店の店内を覗いていた。この阿佐ヶ谷の地で大学生時代の3年間を過ごした。

 半世紀の月日が経ち、すっかり変貌した阿佐ヶ谷駅北口に出遭った。唯一変わらないものは千草堂という古書店だった。店内中央に書棚が背骨のように走り、左右に通路。その奥に主人とおぼしき方が座っていた。若主人らしき人も既に白髪が混じっていた。

  

 あの頃の私は毎日アーケード街を歩いて、学校に通った。そして夜、閑散となったアーケード街。私は誰も迎えてくれることのない木賃アパートへ帰る途中、この古書店で時間をつぶした。詩集やその評論書をここで手に入れた。後に新聞連載「折々のうた」で知られる大岡信を知ったのもここだった。滝口修三というシュールな詩人に出遭ったのもここだった。

 ここだけが唯一、時が止まっていた。そこには今も幻の私が立っているようにさえ思える。その後の歳月は一瞬定かでなくなる。

 

 当時、通い道にみすぼらしい神社があった。その日は雨だった。恋人は傘を差していて、「たまには寄って行きましょう」と私に微笑んだ。

 本日、くぐる神明宮の鳥居はあまりに立派だ。新品のコンクリ鳥居は別人の装いだ。尋ねてみれば、東北大震災で倒壊して、あらたに建立されたという。境内も一変し、見事なものだ。私の眼だけが相変わらずのピンボケのカメラらしい。

 

 そしてかつてのアパート跡を探した。前回訪ねた折は迷わず到着できた。今は道幅も広くなり、新しい住居が立ち並び、目印の病院は分院まで造り、どちらが本院かと迷い、地理がますます混濁していく。そこで捜し歩くことを止めた。

 

 今日の小雨は梅の花が美しい。家先の庭や路地に梅の花が咲き、路上に花びらが散り、美しい模様を造っていた。流れた歳月の数ほど花びらが散っていた。

 あの日も、私は小雨の神社であなたにカメラを向けた。ひっそりとした雨の神社とあなたの写真が手元に残った。だから、あれは晩秋のことだったのだろうか。しかしあの日に限って、私はなぜカメラを手にしていたのだろう。

あの青年は僕かなあ~