逢坂の関って、何処にあるの

 

 逢坂の関(滋賀県大津市)は平安時代、西の須磨の関、東は逢坂の関に不破の関を加えて、三大関所と呼ばれていたようです。京阪電鉄の無人駅大谷駅から徒歩10分ほどの逢坂山(325m)にありました。

 都から東国へ旅立つ大切な方を、この逢坂の関まで見送って、長の別れを惜しんだと伝えられております。この関を越えれば、雛(ひな、異国、すなわち田舎)の地でした。そんな関所を是非一度訪ねてみたかった。

 

  友人Oさんは「逢坂の関へ行きたい人なんて、あなたぐらいのものですよ」と快く案内役を買って出てくれた。新幹線のぞみで京都駅へ。そして目的駅の大谷駅に降り立った。しばらく行くと、蝉丸神社が左手に現れた。Oさんは「百人一首も登場する逢坂の関の有名句があります。是非登ってみましょう」という。石の急階段を登ってみれば、ミンミン蝉のうなる果てしない山の声。蝉丸さんも「さぞ、我が意を得たり」であろう。

「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」 蝉丸

 

歌の碑もありました

 

  関所跡の碑の近くには、「大津絵の販売所がここにありました」という一本の石碑も建っておりました。大津絵は旅の人が江戸時代に荷物にならないお土産として喜ばれたそうだ。愉快な頓智絵の人気は今も高く、大津絵に関心を持っていると、意外に目に入る。国道脇の壁面にも大津絵のパネルが組み込まれ、旅の一興を誘っている。ただし高速のドライバーの目に入るかなあ~などと。

大津絵のひょうたんとナマズ

 

 Oさんは「もう一駅、上栄駅まで歩いて、京都に戻ろう」という。「この炎天下で大丈夫ですか」と念を押して、国道一号線を下り、琵琶湖方面に向かって歩いた。目的の蝉丸神社上社に着いた。どうやらこちらが本家らしい。また二人で参拝し、また歩いた。Oさんもややバテ気味である。下社は寄れずしまいになった。

上社 蝉丸神社

 

 Oさんの案内で京都寺町に戻り、お食事処で美味しいヒレカツを頂いた。外へ出ると、外人さんが列をなしていた。この暑い中、聞こえてくるのは韓国語や中国語、英語です。日本人は何処へ行ったのだろうと思うくらいだ。

 その寺町通りに文具店「鳩居堂」の木製看板を見つけた。Oさんに「これが日本一地価の高い東京鳩居堂の本店ですか」と尋ねると、彼は「そうですよ」と教えてくれた。私一人なら、入ってみたいと思ったが、看板をパチリと撮ってお仕舞いにした。

 一基の常夜灯。江戸時代はこの常夜灯が陸の灯台の役目を果たし、旅籠目指して、夜道の坂を急いだ旅人もいたのかと思うと、青い炎天に私もしばし往古の旅の人になりました。