満蒙開拓団記念館を訪ねて

 

 長野県阿智村を友人Iさんと訪ねた。かねてより、一度訪ねてみたかった場所だ。

 「国は三度裏切った」とはよく耳にする。一度目は、「中国に楽しい土地、楽土がある」と、国は開拓民を募り割り当てた。そして戦況が悪化すると、軍は開拓団を置き去りにした。三度目がその後の逃避行と帰国後の苦労などである、と言われる。

 

 記念館を見学していると、真っ先に「木曽路はすべて山の中にある」という言葉が浮かんだ。島崎藤村の「夜明け前」の冒頭文章である。すなわち、木曽路は当時「貧窮の地域」なのである。貧困には、絶対的貧しさと相対的貧しさがあろうが、貧窮なのである。

 当時の木曽路に位置する地域は絶対的貧しさにあえいでいた。だから村上げて、開拓団として、分村していった。

 

 三重県満州開拓史(下写真)があったので、調べてみると、やはり少ない。私の出身地の村は皆無だ。しかし三重県でも山林の多い地域からは、満州にそれなりに渡っている。絶対的貧困から逃れたい一心であったように推察される。

 

 心打たれたのは、やはり中国残留孤児の手紙である。

 大人になった孤児が漢字ばかりの文字(代筆???)で切々と、「両親を探してほしい(日本語訳付き)」と。幼児の頃に生き別れたので、実父母の記憶がまったくない。中国戦線で残された傷跡は、孤児の問題が一等であるように、私には思われる。

 

 日中国交回復は1972年。戦後30年も経ってからの肉親捜し。当時、ある女の子は「お母さんの後を追って死にたい」。そこで少年の兄が「死んじゃだめだ。兄さんが迎えに来るから」と諭して、残留孤児として戦後を独り生きた。二人は生き別れとなった。「気の毒」の一言しか、言葉が浮かばない。

 山崎豊子さんの小説「大地の子」の世界であろう。

 

 また開拓団の員数は朝鮮国民(当時は日本国支配)が圧倒的に多かったことを初めて知らされた。そして20分間のビデオ映像からは満蒙開拓団の加害者の立場も紹介されていた。

 たった二人の来訪であったので、時間をゆっくり過ごさせてもらった。来て良かった。

アケビだ!!!

早速、買った、食べた、懐かしい