知多四国番外編~空海さんとその時代

 

知多四国88 ヶ所巡拝もウィルスの影響でお休みだ。さて奈良が都であった頃、東大寺に大仏ができた頃、吉備真備(695 775 年)の書いたと思われる墓誌が、最近中国で発見されたと話題になっている。キビノマキビ? 墓誌? と思われる方も見えるので、説明を少し加えさせていただくと、こうなる。

吉備さんはその頃、唐の都長安に渡り、帰国後右大臣にまで出世したお方。一方、墓誌はお墓に参ると、お墓の隣にあって、故人の来歴などを記した石碑のこと。

 

吉備と言うくらいだから、キビ団子の岡山県の方。その方が、中国で墓誌に「日本国朝臣備書」としたためたから、「これぞ吉備真備、その人 」というわけだ。

 

中国の学者は、「他国の人に大切な墓誌を書かせるはずがない」と、偽物説も出ているそうだ。まあ、そんな異論を目にすると、ふくらんだ胸はしぼむが、日本海が荒波の広大な海であった頃のお話に、心は海に踊る。この頃の日本は、優秀な若者が先進国唐に渡り、研鑽を収め、先進文物を持ち帰った。当時の渡海は命がけ、また帰国も命がけ。

 

空海さん(774 835 年)はうどんの国、讃岐の方。そして80431歳の時、唐へ渡った。別船には、最澄さんも乗船していた。

さて、空海さんの教えは、何度読んでも、頭がクラクラ。「人の心のあり方を、十に分けて説明される。例えば、まず食事とセックスしか考えない人がいる。ここから徐々に発展。終章前になると、すべてを絶対否定し、再び絶対肯定。そして世界が再びよみがえるという哲学の世界。私の脳は爆発!理解不能のビッグバン。一切一入、一入一切の世界というらしい。へぇーと思うほかありません。

そして没後ほぼ100 年、後輩たちの努力が実り、伝教大師より遅れること55 年、921年 最高位「大師」の称号を賜った。

 

知多四国88 ヶ所巡拝をしているので、少しは空海さんの教えはどんなもの?と、時々、書を開いて、いい加減なお勉強、当時の留学僧は命がけの猛勉強。はてはて? だ。

また明治初期、洋楽勉強に米国に派遣され、日本の音楽教育や唱歌の道を切り開いた伊沢修二氏は、先生から「君は音楽の才能がないから、国へ帰れ!」と言われたそうだ。返事は「生きては帰れぬ」と応え、悔し泣きしたという。

 

「今はそんな時代ではない」と言われそうだが、海を渡った幾多の先人たちの思いにジーンと胸が熱くなる。そんな日もあっても良いのではなかろうか?