琴糸の話

 

先日、隣町の集会所に、100 円コンサートの琴の合奏を妻と聴きに行った。三人の女性の琴奏者と、地域の三十人ほどの方が集まっていた。「さくらさくら」の楽曲から始まり、素晴らしい音色を拝聴した。

 合奏が終わり、若いお弟子さんに「琴糸はナイロンのようですが、昔は何で出来ていたのですか?」とお尋ねしたら、「さあー? 」と返事が返って来た。

 

数日後、水上勉氏の「湖( うみ) の琴」という小説があったことを思い出し、図書館へ足を運んだ。氏の作品は、裏山に捨てられたカナリヤのような哀しい女性の物語が多い。さて、読み始めてみると、琴糸の話が冒頭から語られ、疑問はたちまち氷解した。

小説の内容は、氏がたびたび描く美しい女性の哀しい物語で、この作品でも主人公はその美しさのゆえに、身を落としていく姿が描かれていた。氏は福井の貧家の生まれ。その出自を抜きにして、氏の作品群は語れない。福井はかつて出稼ぎの多い、貧しい地域であった。当地を原発銀座などと揶揄する言葉も生まれているが、氏の作品を読めば、原発誘致の理由もうなずけよう。

 

さて、琴糸の話に戻ると、氏は「湖北風土記」から引用して、このように記している。要約すると、明治29年、余呉湖近くの木之本に製糸工場があり、女工300 人を数えたと語る。また当時の農家は副業として、桑づくり、養蚕、糸繰りに精を出した。まゆ糸は織物用などに供されたが、賤ケ岳山麓の二つの村が、水が良く、繭に合い、粘りのある純白の糸をつむぐことができたので、和楽器の絃糸として、全国90 %を占めたと記されている。

 

当時の日本の農家は、福井県に限らず、皆貧しかった。「養蚕」は、農家にとって数少ない現金収入源であった。上繭は高値で引き取られ、くず繭もまた無駄なく買い取られていった。幼年時代、私の実家にも桑畑が広がっていた。幼虫は桑の葉を食べて、糸を吐き出し、卵形の繭を作る。桑の紫の実は子供たちの口に運ばれる。当時、祖母は土間で、湯で繭をひとつひとつむいては、糸車を回していた。捨てられた茶色い蛹は鶏の大好物だ。繭は農家にとって、ひとつも無駄がなかった。

 

童謡「赤とんぼ」は、「山の畑の桑の実を 小篭に摘んだは まぼろしか~♪」と歌っている。当時の村の娘は十五で嫁に行き、また遠い土地へ女工として出ていった。そんな少女たちの紡いだ「まゆ糸」が京都西陣や大阪に運ばれていった。振袖に手を通した「大阪糸屋の娘」は十六と十四であった。

今では、赤とんぼの歌の通り、すべて「幻」である。