質問「トーニング始めたんですか」

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こんにちは!新年初の書き込みになります。本年もよろしくお願いします。


昨日は、豆まきでしたね。

子供のころ、わたしの家では落花生を撒いていました。

落花生を撒くのは、北海道、東北、信越地方だけなんだそうです。

やり方は、年の数だけ豆を握って、それを「福は内」と言いながら、各部屋に等分に撒いていって、撒き終わったら、年の数だけ拾って台所で食べます。

家族の誰かを鬼に見立てて、というのはやったことないです。

それから、「鬼は外」もない。

たぶん、落花生を外に放ると近所迷惑と言うか、後片づけが大変だったからだと思います。

さて、そんな「鬼は外」なんですが、寺社によっては「鬼は内」という場所があることを知りました。

鬼子母神とか、鬼を祀っているところです。

都合のよいことを聞きました。

わたしも「鬼は内」にしておけば、片付けやすく豆まきができる。

そこで、件の落花生をつかんで「鬼は‥」

‥。

本当に「内」にしちゃっていいのか?

鬼というのは、もとは陰(おん)だったそうです。つまり、人間の邪な部分の総称を鬼と呼ぶ。

たしかに、わたしの中には鬼がいる。

普段は顕す機会もないので、後生大事にしまっているけれど、こころの奥底には鎮座ましましている。

それを、大声で「鬼は内」と出ていかせないのもいかがなものか。

つい最近も、周囲で規則違反をしていた人に注意をしてしまった。

たいがい、大人で規則違反をする人は確信犯だし、そうでなければ頭が足りないわけだからやっぱり言って直るものじゃない。

いわば、その部分は相手が抱えている鬼であって、あなた様も鬼を抱えていらして大変ですねと労ってあげなくてはならないものである。

そういう視点で世間を見れば、よい年齢となった者はみな鬼である。

若さという仮面がはずれ、長い間の生活習慣と思考習慣で掘り出された怪獣たちである。

学校を卒業して、はじめて就職した会社で「会社って動物園のようなところだな!」と長閑にも思ったけれど、

気がついたら、わたしも立派な怪獣となっていた。

「鬼は外」と言って、排除するのは簡単なんだ。

清らかなものだけ見ていたい。

でも、それは見えなければいいという、いい加減な発想で、怪獣の部分こそが本体なのだということに目を瞑っている。

「本性が知れる」というけれど、知れる前から存在していたのであって、ないと思い込んで付き合っていたのだとしたら、それは人間に対する理解が足りなすぎる。

最初から、怪獣なのだと思ってお付き合いを始める。覚悟があれば、何をされても、何をしても、あまり怖くない。

人の気持ちは揺れる。

寂しくなって人に寄ると、近づきすぎて鬱陶しくなり、またひとりになりたくなったりする。

そういうことが相手のこころのなかでも起きているんだろうなと察する。

足りないもの同士が肩を寄せあって暮らしているんだ。

だから「鬼は‥」

さりとてあからさまに「鬼は内」というのも憚られるもので、結局、鬼の行き先はウヤムヤで済ませました。

皆さまの鬼も跳梁跋扈されることもあるでしょうが、折り込み済みでございます。ぜひ、末長く、わがままに、ゆったりとお付き合いくださいませ。

では、またお会いしましょう。


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ar-gent 「はい」