マルチメディアなどと言うと、何か先進的な気がするが、これは報道や情報の劣化であり、制限に繋がるものだ。

 

ケビン・カーターの「少女とハゲワシ」は報道上に人道をどう反映するかと言った議論を喚起させたが、そもそも「人道」と言うものは「他」によって制限されたり強制されるべきものでは無い。

 

然るに今日社会を鑑みるに、これが統一基準を持ったかのように扱われ、それを外れるものはまるで人間性を失ったかのように扱われる現実は何だ。

命ギリギリのところで、精神のギリギリのところで一枚の映像を写し、それを茶の間でビール片手に肴をつまんでいる者が批判する。

 

このことに私などは強い疑問を感じたものだ。

 

マルチメディアとは複合情報、または双方向の情報を意味しているかも知れないが、マスメディアと言う大きなメディアと、パソコンを見ている個人ユーザーと言う極小単位のメディアは本来同一基準では語れないにも拘らず、これらが混然となった瞬間から、報道は報道の独立を失っている。

 

ケビン・カーターの「少女とハゲワシ」はある種マルチメディアの概念が抱える問題の先駆だったように思える。

少女がハゲワシにつつかれていようが、そうした写真を撮影しようが、それを制限する者は撮影者自身で有って情報を受ける側では無い。

 

人が苦しみ悩んで、そして自身や家族に危害が及ぶことすら覚悟でメディアに流したものを、何の苦もなく書き写し、コピーし、そしてあたかも自身の情報のように振る舞い、それを賞賛し、非難する。

 

やがてこうした極小単位のメディアを恐れるマスメディアはマスメディアでは無く、パソコンの1ユーザーと同じになって行き、報道の責任や誇りを失う。

 

ここに完全に崩壊し、個人ユーザー化した井戸端会議マスメディアが発生するのであり、この事をマルチメディアと言うのであり、その責任は単にマスメディアだけに負わせる事は出来ない。

 

個人ユーザーでしかないものを、パソコンの双方向性を良い事に、マスメディアに持ち込んで行った民衆の責任もまた免れることは出来ず、今「倫理」や「人道」が本当に必要なのはマスメディアでは無く、個人ユーザーではないだろうか。

 

ケビン・カーターの「死」の真相は分からない。

 

或いは「少女とハゲワシ」の写真を撮影しなくても彼は自殺したかも知れないし、それは時間の問題だったかも知れないが、もしかしたら彼は「少女とハゲワシ」を撮影した事で、自身が持つ迷いを大衆からも指摘され、耐え切れなくなったのかも知れない。

 

私はケビン・カーターの写真を初めて見たとき、それは少女にとっても命懸けだが、撮影者にとっても命懸けであるかも知れないと思った。

 

自分が歩くこともなく、汗をかくこともなく、綺麗な部屋でパソコンに向かい、泥だらけになりながら得た人の情報に、いとも簡単に優劣を付け非難する。

 

報道の劣化はこうしたところから始まるのであり、今般社会で言われるところのマルチメディアなど、単なる「劣化」、「堕落」「傲慢」でしかないような気がする。

 

[本文は2012年4月19日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

 

1994年7月27日、ヨハネスブルグ郊外に停車していた車の中で一人の男が死んでいた。

 

その車の中には自分の車の排気システム口からホースによって排気ガスが引き込まれ、男は排気ガスで自殺をはかったものと断定された。

男の名前は「ケビン・カーター」(KevinCarter)と言った。

享年33歳だった。

 

報道、文学、作曲などの分野で最も優れた作品に贈呈される、アメリカで最も権威の有る賞の一つ「ピューリッツアー賞」

 

1994年その写真部門を受賞した写真「少女とハゲワシ」が初めてメディアに出現したのは1993年3月26日の事だったが、この写真を掲載した「ニューヨークタイムス」へは、写真掲載直後から絶賛と同じ数の非難の声が寄せられる。

 

1993年、北アフリカ、スーダンのアヨド村・・・。

激しい飢餓から歩くことすらままならぬ痩せこけた少女、その背後から今まさにこの少女を狙ってハゲワシが襲いかかろうと翼を広げている瞬間だった。

 

ケビン・カーターは偶然にもこの場面に遭遇し、そしてカメラのシャッターを切ったが、この1年後、彼は自分の車の排気ガスを車内に引き込み自殺する。

 

1983年以降続く内戦と干ばつにより、スーダン国内は大部分で民衆が飢餓状態に陥っていたが、当時のスーダン政府はこうした実情を省みず、国内の内戦状況が外に漏れることをおそれ、海外の報道関係者の一切を締め出していた。

 

そんな中、このスーダンの内線状況を世界に伝えようと、スーダン国内に潜入していたケビン・カーター、国連の食料配給所になっていたアヨド村に入った彼は、そこでこの世の地獄を目にすることになる。

 

たった1日、たった1日でその配給所だけでも10人、20人と言う単位の子供たちが飢餓、或いは伝染病にかかって死んで行き、それが毎日、毎日延々と繰り返される。

 

もともと20代の頃には躁鬱病を患い、数回の自殺未遂を繰り返した経験が有り、更には薬物依存で精神的にも不安定だったケビンは、このアヨド村の光景に激しいやりきれなさを感じ、絶望から逃れるようにアヨド村を後にしようとしていた。

 

その直後だった。

ここからは当時現場で一部始終を目撃していたケビンの友人、「ジョアォン・シルバ」氏の証言だが・・・・。

 

痩せて衰えた少女を抱えていた母親は、食料の配給を手にしようと僅かな時間だが地面に少女を置いた。

力なくその場にうずくまる少女、そして無情にも獲物を狙うハゲワシ、少女の後ろから獲物を鋭いくちばしでつつこうとハゲワシが翼を広げ襲いかかる。

 

思わずカメラを向けてシャッターを切るケビン、だがどうだろうか、彼はファインダーの中におそらく自分を見ていたのではないだろうか。

「俺は、俺は一体何者なんだ」

「何をしているんだ」

 

今まさにハゲワシが少女をつつこうとする瞬間、ケビンはシャッターを切った。

その直後、ケビンは少女に駆け寄って、ハゲワシを追い払う。

 

おそらくこの場面での決定的瞬間は少女がハゲワシにつつかれながら振り向く場面だろう。

しかしケビンはそれを待てなかった、いや待たなかった。

 

ハゲワシが少女をつつく瞬間では無く、つつこうと背後で翼を広げているカットでシャッターを切っている事がケビンの人間としての有り様を証明している。

 

ハゲワシを追い払ったケビンの声に少女は振り向き、そしてやがて力なく国連の食料配給所に向かって、母親の後を追うようにヨロヨロと歩き始める。

 

無言で全ての情景が流れていく中、少女の後ろ姿を見送ったケビンは少女と同じようにヨロヨロとした足取りで近くに有る木の下まで歩いていくと、そこにガクっとしたように腰をおろし、泣き始める。

 

そしてひとしお泣いたケビン、やがて今度はタバコに火を点けて吸うが、それもまだ吸い切らない内に地面で揉み消すと、また声を上げて泣き続けた。

「ジョアォン・シルバ」氏の手記には「少女とハゲワシ」が撮影された時のケビンの様子がそう記されている。

 

1993年3月26日、このケビン・カーターの写真を掲載したニューヨークタイムスには賞賛の電話や手紙も届いた。

しかし同じ数だけの非難の連絡も届くのである。

 

「人の命がかかっているのに、写真を撮影している場合ではないだろう」

「人間の生命よりも自分の地位や名声、それとも金の方が大切なのか」

そう言った強い非難の声が寄せられる。

 

1994年春、アメリカはこのケビンの写真に「ピューリッツアー賞」を贈り、これを讃えた。

そして同年7月27日、ケビン・カーターは排気ガスを引き込んで自殺したのである。

 

「マルチメディア」2に続く。

 

[本文は2012年4月19日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

 

原子力は現在のところ人間がコントロールできる範囲を超えている。

 

この事から人間に取っての原子力は、人間よりも「神」に近い存在とも言えるが、こうした事を専門家でもない内閣や閣僚が話し合いで安全性を判断するなど、暴挙を通り越してその愚かさや、余りにも悲しい傲慢さに限りない失意を感じる。

 

自然災害やコントロール出来ない原子力を、言わば「神」を人間の都合で、話し合いで決めようと言うのだから、この整合性のなさは、もはや人間の愚かさの極みと言える。

 

だがその一方で「反原発」で選挙を闘うと表明した「橋下徹」大阪市長、彼の言動、行動もまた野田政権と同じか、それ以上の愚かさ、危険性を持っている。

 

橋下市長にとっての本質は「打倒現政権」であり、「改革」であり、「反原発と言う闘い」そのものに存在していて、「原子力発電の安全性」に本質があるのでは無い。

 

そこに見えているものは冒頭の解説の如く、既に本質の失われた闘いであり、言わば闘いの為の闘いと言え、この事がもたらす帰結は「虚無」と、「創造のない破壊」以外の何ものでもない。

 

更に形無きものを形にしようとする行為は際限が無い。

 

心はどんな形にも表し尽くすことが出来ない事から、意見の対立が深まると、そこに相互が際限無く心を形にしたものを求め、如何なるものも拒絶していき、それに民衆が自身の日々の不満を重ね、どちらかを選択した場合、やがてその増殖した矛盾は民衆が選択した者によって民衆へと向かって来る。

 

日本国民は大いなる苦難に曝されるだろう。

 

「神」でも「現実」でも「原子力」でも同じ事だが、あらゆる事象は本質を持たない。

つまり全てが本質なのであり、球体のように多面的なものであり、形無きものとは、あらゆる方向への道を持っている事を指している。

 

それゆえこれを賛成か反対の「二者択一」に求めることは、あらゆる解決策から遠ざかり、まるで隠れキリシタンに対する「踏み絵」のような陰湿さと、本質を失った「暗黒」を生むのである。

 

今、日本が、日本国民が為さねばならない事は山積している。

 

原子力と言う人間がコントロール出来ないもの、形無きものを「二者択一」と言う本質から離れた手法に陥れ、これを使って自身が増殖しようと試みる者、これが橋下大阪市長の正体であり、ここに善意が有ろうと悪意が有ろうとその結果は変わらない。

 

大いなるもの、形無きもの、森羅万象の前では善意も悪意も同じように意味が無い。

 

ただ眼前に広がる現実を乗り越えていくしか方法が無く、この事があらゆる未来の可能性を広げる道なのであり、それを「二者択一」と言う小さな「限定」で縛ることは、「未来を縛る」だけなのである。

 

そして人類は長い歴史の中で、形無きものを縛ろうとして、更に際限のない形無きものを求め続けてきたが、混沌の極み前夜に有る日本、また国際社会はそろそろこうした事から脱却する良い機会を迎えている。

 

空気を縛る縄はどこにも無いのだが、これを縛ろうと閣僚が議論して決め、それは安心できないから闘うと言う、こうした話の結果がどうなるか、政治家と同じように我々民衆もまた、今この瞬間も「形無きもの」「未来」から試されている。

 

[本文は2012年4月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

 

 

例えば神に対して畏敬の心を表すなら、その事に形は無い。

 

しかし人間社会は視覚的に、聴覚的にそれが表された信号が無いと、互いに神が畏敬された事を認識できない。

 

神と言う形無きものと、心と言う形無きものの関係は、本来形を持たない帰結のはずだが、人間社会では「他」によって「自己」が為されることから、この形無きものを必ず形にしていく。

 

これが言語であり、宗教であり、政治であり、社会と言うものだ。

 

つまり人間社会ではその本質は常に失われるか、初めから消失した状態で営みが為され、およそ形無きものに形を与えようとする作業は大いなるものを限定し、それを狭める事を行なっているに過ぎない。

 

簡単に言うならば自分の名前はどうだろうか・・・。

 

自分の名前は本当に自分の全てを現しているだろうか、それが私たちを正確に表現しているだろうか、またもし他の名前で名付けられたとしたら、それで不都合が生じていただろうか・・・。

 

自分にとって一番大切な名前、それで有っても自分の社会的な立場を示す、ほんの僅かな「自分の限定」でしかない。

 

にも拘らず、もし自分の名前が辱められたら人間は怒り、時間軸や空間軸が異なれば、それを命懸けで守らなければならない状況が存在する。

 

人間はどんな時もその瞬間を生きている。

それゆえ例えば名前のように、自分のほんの限定された一部に過ぎないものでも、その瞬間は「自分の全て」として考えてしまう。

 

そしてこの事が人間社会に大きな災いをもたらしていく元凶になっている。

 

満員電車の中で靴を踏まれた時、その事自体は自分が身に付けているものに「他」が接触しただけの事だが、通常こうした事態に人間が考えることは「増殖した事実判断」になり、それで謝りもしなかった場合などは、「俺をなめているのか」、「私を馬鹿にしているの」と言うところまで発展し、攻撃的になって行くが、その時の相手の本意は分からない。

 

もしかしたら「なめている」のかも知れず、「馬鹿にしている」のかも知れないが、或いは単なる不注意かもしれない。

 

だがその相手の本意はともかく、現実は単なる「他」の接触であり、それで謝ろうが謝るまいが靴を踏まれた事実は何等変わることは無いのだが、多くの人はここで謝罪と言う心を形にしたものを求める。

 

足を踏まれたくらいの事で100万円損した訳でもなければ、肉が10g削り落とされた訳でもない。

何も損をしてもいないし、何も失ってはおらず、自分は何も変わっていない。

しかしまるで片足を切り取られた如く、それによって全てを失ったかの如く、怒りの炎を燃やした挙句、その対価が謝罪と言う、腹の足しにも何にもならないものと言うのが趣深い。

 

面白いもので、人間の思考パターンは冒頭の「神」のようなもの、つまりは「他」に何かを求める時は大きなものを限定し、狭めて考えるが、自分に「他」が接触してくるときは「小さな事実を拡大」し、「形のあるものを形無きもの」にまで拡大して意識してしまうのであり、人間の選択がどんなに複雑になろうとも必ず「二者択一」になっていく基本的な因子は、この辺に存在しているようにも思えるが、その事実が拡大された意識はまた、謝罪と言う形無きものを形にして求めると言う矛盾を行なっている。

 

人間がどこまで行っても理解し合えない原因はここにあるのかも知れない。

それゆえ、もし意見の対立が発生したとき、既にそこには「本質」が存在していないのかも知れない・・・。

 

予め「形無きもの」を「形」にして表す事を求めるだけでも、そこに本質の大部分が失われているにも関わず、その上に意見の対立と言う、一種靴を踏まれた状態が発生した場合、「形無きもの」と「形無きものを形にしたもの」が入り乱れ、際限のない混沌へと堕ちていく。

 

[本文は2012年4月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

 

輸入車に乗っている人なら、一度や二度こうした経験が有ると思うが、例えばオイル交換をしようと市中汎用サービス店、もしくはガソリンスタンドへ入っても、「すみません、ここではできません」と断られてしまう時がある。

 

特にフランス車はこうした事態が決定的で、そもそもメーカー指定の特定工具が無いとオイル量すら確認する事が出来ず、その特定の工具はディーラー、販売代理店指定工場から持ち出し禁止になっている。

 

つまり、僅かオイル交換ですらディーラーの支配下に置く方式になっているのだが、こうした方向性は近年の日本車でも同じ傾向が有り、自動車修理市場は急激なメーカー独占市場へと向かいつつある。

 

そしてこうした傾向を決定的にしてきているのは「ハイブリッド車」や「電気自動車」であり、余り公にしてはいけないのかも知れないが、自動車修理技能者に対する講習などでは、ここ数年ハイブリッド車が事故を起こした場合、「決して触るな、近付くな」と言う事を言っていて、このことは自動車購入者へも注意が喚起されて然るべきだが、自動車購入者への注意喚起は自動車修理技能者に対するそれより、遥かに小さな文言でしか語られていない。

 

ハイブリッド車は大容量のバッテリーを搭載していて、事故を起こした場合、その事故が小さなものでも、場合によっては高い電圧が車の中を流れる危険性が大きく、また液漏れによる有害ガス発生の可能性、液体飛沫が目に入った場合失明の可能性も高いことから、メーカー指定の技能者以外が触れない状態に陥ってしまう。

 

更には例えばトヨタの高級乗用車などに使用されている塗料は、1kgが50000円と言うものまであり、大手塗料メーカーからは特定の自動車メーカー以外のところに、その塗料を出荷しない措置が取られていることから、板金塗装ですらディーラーが握っている場合もある。

 

このことが何を意味しているかと言うと、市中の零細小規模修理工場が、ここ10年ほどで全て排除されて行くと言う事であり、そうした傾向は既に始まっていて、地方ほどそれが加速的に進んで行き、ディーラーの利益優先主義は地方や過疎地域から撤退傾向に有る事から、地方ほど自動車修理サービスが失われ、おまけに修理工場も潰れて行く事態が発生してくる。

 

またこうした事はヒソヒソとしか語られていように思うが、現状のハイブリッド車が雪道走行で脱輪した場合、確実に自力脱出が不可能なことは明白で、バックギヤを入れても出力が足りず、やがてバッテリーが電圧を失い、ディーラーへ連絡して牽引して貰わなければならないが、こうした事を知ってハイブリッド車を買っているユーザーはどれほどいるだろうか。

 

つまり現状で言えばハイブリッド車、電気自動車は「未完成」な訳で、ガソリン車よりも遥かに危険な乗り物であることが説明されず、ひたすら「エコ」が強調される政府の見切り発車が、ユーザーの安全を蔑ろにし、利益誘導主義を後押ししている現実が存在している。

 

「エコ」と言う根拠の無いものが人間の生命の安全よりも重視されている。

 

更にもう一言、一昨年まで日本では、電気は安全で絶対供給が止まらないものと定義され、そこから「オール電化」なる商品がどんどん発売されたが、今日の現実はどうか、原子力発電と言うリスクの高い方法で生産され続けてきた電気、そう言うリスクが隠蔽され、何か非常事態が発生すると一挙に不安定になっていく在り様を鑑みるなら、ここに単一のエネルギーによって維持される社会のリスクの高さと言うものも考慮されなければならないが、そう言う話が全く出て来ないこの国の脳天気さは如何なものか・・。

 

資本主義の命題である「拡大」には2種の道がある。

 

一つは単一のものが巨大化する「拡大」、そしてもう一つは「消滅」に向かう「拡大」だが、国家や社会にとって大きなリスクとなるのは「単一のものが巨大化する拡大」で有り、「消滅」に向かう拡大とは、一つの製品なり商品のバリエーションが多様化し、そして本来の姿を失い「消滅」に向かうが、この事は「発展」や「創造」と言う側面を持っている分だけ、単一巨大化拡大」よりはリスク分散が為される。

 

そしてこれは太平洋戦争後の日本経済を支える原動力となった部分だが、太平洋戦争中、日本各地から軍需工場に集められた多様な技術者達、彼らは互いの技術の話をして、「平和になったらあんなものを作りたい、こんなものを作りたい」と語り合った。

 

戦争が終わって自由に物が作れるようになった時、彼らは交流を持った日本各地の技術者達の話を思い出し、自分の持つ技術にそれを加えて、より完成度の高い物を作っていった。

 

伝統もそうだが、「技術」の最大の敵はその「保全」だ。

一つの技術にすがり、そしてそれを守ろうとする有り様は技術の衰退以外の何ものでもなく、そうした精神が発展を拒んでいるのである。

 

今、世界的に社会は「単一巨大化」資本主義と、それを擁護する政策が主流となっているが、このことが持つ大きなリスクと複雑化する情報の中で、最も原則になる部分が失われ、一見綺麗に見える枝端が重要視される現実は、いつの日か人類レベルの悲劇を招く危険性が高い。

 

本当の危機は音にも聞こえず、誰も気付かないところで静かに始まっているものだ・・・・。

 

[本文は2012年4月14日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]