緊急避難措置法、別名「カルネデアスの舟板」は先進国の多くの国がこれを認める「非暴力下の正当防衛」に関する法だが、紀元前2世紀の伝説として、船が難破して海に投げ出された2人、折からそこに浮いている船の残骸板は1人ならつかまっても沈まないが、2人では沈んでしまう場合、どちらか一方がもう一方を排除して舟板につかまる事を許容するとしたものである。

法としてはこうだが、現実にこれを躊躇なく行える人間は、もしかしたら少ないかも知れない。

例えばこの2人が夫婦だったら夫は妻を海に沈める事が出来るか、或いはもう1人が子供だったら、何も考えずに自分に舟板を手繰り寄せる事が出来るだろうか、更には義に生き、信に生き、仁に生きるとしたら、もう1人が宿敵だったら、猶の事自身が試される事になる。

更に舟板につかまったとしても、数十分ほどの差かも知れない。
最終的に全てを定めるのは「天意」と言うものになってくるが、「仁」は「天の意思」に繋がるものながら、最後はこの「天意」すらも切捨て、自身をして「天意」となる事を完成とする。
つまり命を以って贖うと言う事だ・・・。

敵国につかまって自身が利用されるとなった時、一番命の危険性が増すのは「助けてくれ」であり、その為なら所属国家が自分を助けてくれると思う事であり、こうした人間は例えその時は服従しても後に必ず裏切るので斬り捨てられる。

次の下策は「殺せ」と言って開き直る事だが、これで命は「天意」に委ねられるところまで来る。

最後まで屈服しない姿勢には、敵の上官が一定の節度を持つなら、或いは助かるチャンスも有るかも知れない。
しかしこれでも命の危機は半々か、それに及ばない。

上策は敵に逆らわず隙を見て敵の武器を奪い、自らの命を絶つ事と言える。
これはある種100万の軍隊にも匹敵し、周辺諸国はもとより敵国からすら畏敬を集め、該当国家の恐ろしさを示す事になる。
もしかしたら核兵器以上の効力が有るかも知れない。

「仁」の本意はその状況下に措ける自身の最大効果であり、極限の状況では自身の命を最も大きく使う事をしてこれを示す事が出来る。
この在り様は自身の命をして「天意」を形成したと言えるのである。
だが多くの人間はこれほど潔い生き方を出来るものではない。
それゆえ「仁」の力は絶大にして、為し難いものなのである。

またあらゆる交渉でも「欲望」や「利益」「権利」を背負っているものは、相手も同じものを背負うから見透かされ易い。
どこかでは相手に覚られはしまいかと怯える事になるが、自身が出来る最大限の策を講じ、出来る限りの努力をした時は、「天意」を背負えば良い。

自分は出来るだけの事をした、後は天、神に決めて頂こうと思えば、その交渉は「天意を背負ったものとなる。
が、天意とは晴天に突然の雨をもたらし、雨を瞬時に止ませるものであり、事の成否は解らない。
思う通りになってもならなくても微笑んでこれを見る事が大切で、この事がその当場では成果とならずとも、後の成果に繋がって行く。

この微笑んでいる事が「仁」と言える。

どうでも良い事は理論ずくめで決めても良いが、ここ一番大切な事は「籤」で決める。
籤は一つの天意であり、良く考えてみれば結婚相手の事を神社の籤で占い、商買や家内安全と言う家族の最大事をいつも神仏に祈願しているのである。

常に「天意」は傍らに在り、仁はそれに対する在り様と言える。

ちなみに籤の起源は串(くし)であり、刺し貫くを始まりとする。
深く考えるなら「因果律」に関わってくる事になるが、それはいつかの機会に書かせて頂こうと思う。
 

本能と聞けば、一般的に自然から授けられたもの、生物の基礎的なものと言う印象が強いが、これの本質は「生き抜く為」のものであり、従って人類発生の遥か以前から社会を形成した生物に取っては独自の進化が存在し、人間のそれも「その他多くの中の」一つでしかない。

鳥には鳥の社会の性質、蜂には蜂の習性と言う具合に社会が形成されれば、その社会に適合しなければ生きていけない。
本能には予め「社会」が含まれ、誕生後にも現実の社会が組み込まれて本能が形成され、本能を支えるものは「欲望」、その本質は「拡大」と言える。

一方、本能の重要な要素である「社会」とは、「関係性」であり、この関係性の大きさが生存確率を高める事は鳥の世界も蜂の世界も同じで、人間の社会などは「社会」こそが本能と言っても良いくらいの重要性を持ち、例えば生物学的に決定的な違いを持つ二種の人間の生殖器、これのどちらを男と呼び女とするかは本来どちらでも良い。

だが長い人類の経験の積み重ね、本能の積み重ねは男女を概念的に区分した。
つまり生まれてくる子供には男とは、女とはと言う社会が持つ概念が加えられてコントロールが為されている訳であり、これが壊れて行くと欲望はふわふわ浮いた状態になり、欲望の本質は相手を問わない。

また欲望はそれが満たされない状態が一番強く、これが満たされた状態では弱い。

人類も古くは、オスとメスの繁殖活動は手当たり次第だったが、これだと子供の生存確率は低くなる為、やがては育児概念が発生してくる事になり、ここに生殖活動はその後の責任も含むようになり、生殖活動に制限が設けられたと同様の効果を持つようになって行く。

その上で制限が加わった生殖活動に対し、男女と言う区分が欲望にストレスを加え、欲望を増幅する役割を果たすが、欲望そのものは総量的なものであり、他で満たされても減衰する。
豊かな社会では人口が減少し、中途半端な欲望がふわふわ漂い、この事が男女と言う社会的概念をいい加減にし、やがて本来は生殖活動の為のものだった欲望は、あらゆる意味で節操を失う。

「仁」と「本能」は思想と現実であるから比較する事は出来ないと思うかも知れないが、実「仁」も漠然とした本能の一部でもある。
発生と収束、若しくは崩壊のモジュールがとても近く、違いは中間過程だが、これもおそらくリンゴかバナナか、くらいの差でしかないだろう。

人間の思想は本能の影でしかないと言う事だが、これも間違いなく欲望で増幅される他の本能と一緒に、誕生後の子供が社会から得る本能の1つである。

区分、制御が欲望を増幅させ、これらが拮抗する形の中でより良い方向性へと導く高度なプログラム、欲望自体は本能よりもっと原始的で根本的なものであるから、これはあらゆる方向へと延びて行こうとする。
当然生殖や快楽と同じように、「仁」もまた欲望の薄い霧から逃れる事は出来ない。

「仁」はこの反対の状況が在るから発生し、この反対の状況は「仁」を強める。
一方「仁」は社会、「関係性」の為のものだが、円滑でストレスのない社会は生物学的「力」を失う。

この世界に絶対的に独立する事象は存在しない。

 

色の三原則を塗料や顔料で混合すると黒(闇)に近づくが、この三原則の光が重なると「無色」(無)になる。

互いに力と力がぶつかって相殺されると「無」に近づき、互いに自己主張をしながら行動がなければ闇に近づく。
前者を戦争、後者を民主主義と言ってしまえば乱暴に過ぎるか・・・。

砂漠の真ん中で1リットルの水が有り、男が3人、女が3人、年齢の内訳はそれぞれに50代、40代、20代で、健康状態はほぼ同じだったとするなら、全員で水を均等に分ければ2、3日後に全員が死滅する。

半分の3人なら6日間、2人なら9日間生き延びる事が出来、或いは200kmを歩いて砂漠から脱出する事が可能かも知れない。

しかしこの時点で砂漠が200kmである事を知る事は出来ず、皆がそれぞれに自分だけでも生き延びたいと考えるなら、ここに争いや騙しが発生し、もし仮に生き残ったとしても、そのために費やしたダメージ回復の為に水が消費され、たった1人残った勝者も3日は生きられないかも知れない。

この場合誰でも良い「人間」が生き残る事を前提とするなら20代の男女おのおの1名ずつが水を持ち、残りの者は彼らに全てを託す事が至上となり、全員が公平に恩恵を分配するなら、水を分けて全員が3日後に死滅するを至上とする。

が、しかしこの至上を人間は選択できない。
6人の内の誰もが、自分こそ生き残れると思う、若しくは現実が厳しくても自分だけでも生き延びたいとする事から、両方とも選択できず、自分こそは水を飲んでも他者が水を飲む事を喜こぶ事が出来ない。

そして砂漠が200kmで終わる事を知らず、6人全員が自身を含めた全員の運命を知る事もできない。
全てが不確定であるなら、そこでの選択は自身を信じるしかなくなるのである。

また私が良く使う例である饅頭を使うなら、2人の人間がいて饅頭が1個しかない時、自分がそれを食べてもう1人が我慢するとしたら、美味しく饅頭を食べられない。
自分が我慢してもう1人が食べたとしたら、気分はそれで良いかも知れないが、饅頭を食べれなかった事を何も思わずに済ませられる人間はいない。

饅頭を半分に割って分けて食べれば、気分も饅頭も味わう事はできるが、自分に取っての最上選択である饅頭の独占からすれば、実質損益がどこかで発生する。
つまり問題が発生した時、何かが足りない時、人間の選択に「完全」はないのであり、人の世にそもそも全く問題のない状態、全く不足のない状態も在り得ないのである。

合理的な事を言えば、饅頭は2つに割って分け合う事を理想とする。

しかし「仁」の始まりは「状況」に拠る落差を加味した対等、変動性対等とも言うべきもので、より体が弱っている者に多くを与え、より公的重要性の有る者にチャンスを集め、親は子を、子は親を、友は友を、男は女を、女は男を、高齢な者は若い者を、若い者は高齢な者をして自身を抑制するを目的とする。

ここでは相互が饅頭を食べない事を好しとし、冒頭の水で言うなら「戦争を避ける」をその至上と考えたものと言え、物質や利益に拠って本来の人間関係を損ねない事を目的としている。
為に現実には、行き過ぎると水は捨てられ全員が死ぬ事もあり、饅頭は「仁」に拠って食べられずにカビてしまう事も有り得るのであり、「仁」はこの意味では目標であり、結果として訪れる事象に「善」を保障していない。

我々人間は「迷いの生き物」であり、饅頭を独占すれば相手が不満である事が気にかかり、相手に饅頭を譲れば自分が気にかかる、半分に割れば1個の丸い饅頭の事を思い、相手がどう思っているかは常に見えない。

一つの行動にはその反対の思いと、中道、肯定する思いが存在し、状況に拠って、自分が出来る事に拠って、全ての思いの代表としてその瞬間の「行動」が為されている。

自身の行動がそうなら、他者の行動も同じ事・・・。

行動だけで、言葉だけで人の全てを計ってはならない。

 

 

 

これは本当はいけない事だと思うが、私のように零細事業しか展開できない者に取って、仕事がない状態と言うものは一番恐ろしく感じ、為にどれだけ忙しくても「今暇で困っているので、仕事があったらどれだけでも下さい」と言うような事を、言ってしまう。

で、かなり無理をしてしまったり、実は納期の設定が長かったりと言う事になるのだが、こうしていながらも継続して関係が続くクライアントと言うものが出てきて、そうした所には夏に野菜が余ってくると押し付けたり、餅がカビて来そうになると配る習慣が出てきて、実はこうした関係になると全く新規のクライアントより難しい側面が出てくる。

需要と言うものは常に安定しないから、クライアントも外部発注には斑(むら)が出る。

当然、1年ほども仕事が出て来ないクライアントも存在するが、自身としては野菜や餅を送る事と仕事は無関係に考えていても、クライアントとしては「何だ仕事でも欲しいのか」と考える者も出てきて、これならまだ良いが、「今は仕事がなくて・・・」と申し訳なさそうに言われると、まるでこちらがプレッシャーを与えているようになってしまう。

人間の関係と言うものは、その関係性が深くなると逆に遠ざかっていくものも出てくる事になり、初期にはなかった制約が増えて行く事になる。
が、この基本的原因は「貧しさ」であり、例えば前出の仕事では、仕事をどんどん出しているクライアントは野菜を送っても、「忙しいのに済まんな」で終わり、ここに仕事との関連性を概念しない。

たとえ仕事との関連性を概念しても自身に余裕が有るから、素直に感謝できる。

しかし仕事がないクライアントは、この関連性をより大きく考えてしまうのであり、この仕事を「金」に置き換えれば、一般社会に措ける関係性も同じように見えてくる。

貧しさは大切な事だが一方で事象を細分化し、その細分化したものに関連性を持たせて考えてしまう。
丁度ブログ記事にコメントが書かれ、それに対してスレッドが立ち、これらが関連性の中に存在するのと似ている。

より多くのものを事象に関連付けて考えてしまい、自らが堕ちて行き、やがてこうした中で「他」を考えるから加速的に自身を自身で貶め、為に小さな事でも「馬鹿にしている」、「何だ金目当てか」と思ってしまうのであり、ここに至っては社会が持つ一般性と乖離し、どこかで何かが破綻、又は壊れてしまう事になる。

冒頭の話に戻るなら、仕事と野菜は関係ないと言いながら、野菜を沢山入れて重くなった箱を持っていく私の中に、仕事との関連性が全くないかと言えば、それは違う。

必ずどこかで小さくても下心は存在している。
そして受け取ったクライアントはそのクライアントの現状に応じて違う事を思う。
つまりは「濃度」でしかないと言う事になる。

これらの事に鑑みるなら、「仁」の入り口はおそらく「何もしない」事であり、究極もきっと「何もしない」事に尽きるのかも知れないが、両者の間には決定的な何かが違う、そんなもののような気がする。

その野菜を持って行かねば自身もクライアントも色んな事を考えずに済むのだが、これでは野菜は腐って捨ててしまう事になり、どこかでは総量的貧しさを加速させる。

人の恨みや妬み、僻み、自己顕示欲、そうした嵐を包括するからこそ「仁」なのであり、嵐を避ける「仁の入り口」は決して「仁」にはなれない。

現代社会で引きこもり、或いは深い人間関係を求めない人間が増加する原因は人間関係の複雑化だが、この人間関係の複雑化の諸因は「貧しさ」であり、表層的入り口の「仁」を目指す者が多い社会とは、これが「貧しさ」に向かっている証と言える。

「仁」の要貞、その最終地点である「徳」は99%まで「金」と道を同じくする。

そして残りの1%が自分と言う事なのかも知れない。

 

近親婚は有史以前、或いは有史以降でも古い時代には大きな制約を持たず、例えば古代エジプトでは王の資格は「血」で有った事から、権威が近親婚に拠って維持された経緯があり、日本や中国でも正史には載って来ないが、領主の「血」と言う観点から近親婚に拠ってそれが維持されたケースには枚挙の暇(いとま)が無く、影に有っては日本でも戦国時代付近まで続いていた。

だがこうした近親婚が決定的に表に出せない状態になった時期に措いては、東洋ではおおよそ3000年前、西洋では2000年前くらいと思われ、ここで1000年近くの差が発生する背景は「封建制度」である。

聖書に措ける子と親の選択、「幼い子供と両親のどちらかしか生きられない状態に措いては、両親は自分達を選択せよ」となっているのは、子供はまたつくることができるが、両親が失われれば子供も両親も結果として失う、と言う現実に対処したものであり、この現実に対する忠実さは近親婚に対しても恐らく制約も設けない。

しかし、おおよそ3000年前に古代の封建制度が発生した中国では上下関係に拠って社会が維持される為、ほぼ同時期に原始儒教も発生したものと思われ、これに拠って親子の対等比較は制約を受ける事になった。

社会が現実を追い越したのであり、元々儒教思想は封建制度の附則、解説書のようなものであり、封建思想の肥料の性質だった事から、権威の在り様は階層性を持って行く事になる。

ここで親子は決定的に上下関係になり、この上下の縛りこそが近親婚を否定して行く事になる。

聖書に措ける子と親の関係と比較するなら、子は親を思い自らの命を犠牲にし、親は子を慈しみ自らの命を犠牲にする、この精神を築く事で当事者である「他」は自らを自らに拠って縛る、これが儒教であり、この根本は社会思想に拠って封建制度の権威を高める事、つまりは統治者と被統治者の関係に始まりがある。

子と親の選択には「社会」の価値が無視されている。

親と子しかいないが、封建制度のそれは万一統治者の為に親が命を失えば、統治者が子の将来に対して責任を持つと言う形、親と子の間に社会が責任を持つ形が発生してくる為、親の選択は現実しか選択できない状態から、現実と社会のどちらかを選択できるようになったのであり、だがしかしこうして現れる現実と社会の狭間は「選択の苦しみ」も大きくする。

この選択の狭間が「仁」と言っても良いだろう。

日本の封建制度、儒教は明治時代まではかろうじて維持されたが、その後封建制の武力である「軍」が一時期日本を支配したものの、軍は準封建制のものであり、対価の形が通常の封建制と違うだけである。

さらに戦後かろうじて残った「家制度」に拠って昭和と言う時代までは封建制度の「儒教」は維持された。

しかしバブル経済崩壊に拠って、日本の家制度まで「経済」と言う「現実」がこれを破壊するに至り、今日では封建制の「文の部分」、儒教的精神、「仁」は形骸、仮想化し、現実に拠って簡単に蔑ろにされ、しかし一方で仮想の「仁」がこれを「責める」ようになってしまった。

元々自らで縛るをもっぱらとする「仁」が、「他」を責めて攻撃するは「全体主義」「恐怖政治」「暗黒社会」と言うべきもの・・・。

自身が不倫をするのも交通法規を破るのも仕方ない事だが、他者のそれは許し難い。
自分は困っているのだから、何でもしてくれるのが社会だ、それができない政府は無能だ・・・。
まるで一人一人は君主の在り様さながらにして、自分の責任は考えない。

「仁」の形骸化と、これが失われるは「社会」が失われたに等しい。

聖書の子と親の選択の状態、間に社会に拠る選択の無い「現実」のみの状態は、これから先何でも有り、全ての事が起こってくると言う事になるだろう・・・。