相手に全てを委ねられた時にだけ

 

「自分が愛される」ための扉が開いて、

 

 

 

自分一人ではたどり着けない場所へと

 

たどり着くことが出来るようになります。

 

 

 

 

 

そこには

 

自分ひとりだけでは行けないし、

 

 

 

相性が合わない人が相手だったり

 

見ず知らずの人が相手でも行くことは出来ません。

 

 

 

 

 

そこに、もし、

 

セックスの時だけ行ければいいのであれば

 

 

その相手は

 

セックスだけに特化した相手(セフレ)でもいいかもしれないけれど、

 

 

 

 

「人生を一緒に生きていきたい」と思う相手と一緒に

 

 

「セックス以外のことでも幸せを感じ合えるようになりたい」と

 

思うのならば、

 

 

 

相手が自分をどう評価するかを

 

その人に全て委ねられるかどうか

 

 

ということが

 

めちゃくちゃ重要になってきます。

 

 

 

 

 

自己受容とは、

 

「どんな自分も自分が愛すること」であると同時に、

 

 

「どんな自分も他人から愛されてしまうことを受容すること」

 

でもあります。

 

 

 

 

 

 

もし、

 

「自分だけが愛したい(他人にはバレたくない)」

 

と思うのならば、

 

 

自分の内側でだけ自分を愛することにして

 

他人にバレたくないことはずっと隠し続けていればいいけれど、

 

 

 

そのままでは

 

「愛されている」ということを感じられることはないはずです。

 

 

 

 

 

なぜなら、

 

 

「愛されている」と感じるのは、

 

「自分の裸が愛されている」と感じた瞬間だからです。

 

 

 

 

 

なので、

 

 

「愛されている」ということを感じたいのであれば、

 

 

表面的な自分

(服を着ている自分)

 

だけではなくて、

 

 

 

見られたくない本当の自分まで

 

愛されてしまう

(バレてしまう・許されてしまう)

 

覚悟をする必要がある

 

 

 

ということなのです。

 

 

 

 

 

 

 

セックスで絶頂を迎えるためには

 

 

ぐちゃぐちゃになって乱れてしまう自分が

 

見られてしまうこと

(知られてしまうこと・許容されてしまうこと)

 

を諦める必要があるように、

 

 

 

 

自分一人ではたどり着けない幸せ

(他人に満たしてもらう幸せ)

 

を感じたいと思うのであれば、

 

 

 

 

「どんな自分を見られても(知られても)仕方がない」

 

と、

 

ありとあらゆる自分が知られてしまうことを許容して、

 

 

 

自分が自分であることを全て開放した(諦めた)自分

 

のことを、

 

 

「どう評価するか

許す許さないか・愛する愛さないか)」

 

を相手に全て委ねる

 

 

ということをしないと

 

 

 

 

セックスで迎える絶頂と同じように、

 

 

人生における幸せ(絶頂)にも

 

二人で一緒に迎えることは出来ないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

「他人から愛されない」という現実を繰り返すは、

 

 

相手に全てを委ねることを許可していない時です。

 

 

 

 

つまり、

 

 

相手が「どんな私も愛する」ということを

 

信頼していないです。

 

 

 

 

 

だからこそ、

 

 

少しでも私を愛する可能性を上げようとして、

 

 

 

 

相手が自分をどう評価するか(私を愛するか)を

 

「自分でコントロールしなければいけない

 

 

という状態(思考・行動)になり、

 

 

 

 

相手のマウントを取ること

(自分が思った通りの評価を他人にさせること)

 

 

を、最優先で考えるようになって、

 

 

 

私が思った通りの評価を相手にさせるために

 

相手の自由を奪う行動を起こし

 

 

 

相手を自分から遠ざけさせることになるのです。

 

 

 

 

 

話をまとめると、

 

 

相手が自分から遠ざかっていくのは、

 

相手の(選択・感覚の)自由を私が奪っているからです。

 

 

 

 

 

それが、伊藤流深層心理学的に言うところの

 

嫌わせ行動なのです。

 

 

 

 

「命令(コントロール・誘導)」は、

 

直接的な言葉(「~しろ」)だけで伝わるものではありません。

 

 

 

姿勢を通して、他人に感覚的に伝わるものです。

 

 

 

 

人間には、直感という防衛本能があります。

 

 

 

 

嫌わせ行動(相手の自由を奪う行動)をしてくる人には、

 

 

必ず防衛本能が反応して、

 

その人から遠ざかりたくなります。

 

 

 

 

 

「こいつに近づくと思い通りに操られるからダメだ」と、

 

 

自分が他人にコントロールされないため

自分を守るために)

 

そこから逃げる必要があるからです。

 

 

 

 

 

思春期の子どもが学校の先生とケンカをするのも、

 

子どもの反抗期に親が困らされるのも、

 

 

 

基本的には

 

「こいつをコントロールしなければいけない」という思考

 

が理由です。

 

 

 

 

 

 

※ だからって「何もするな(指示するな)」という意味ではなくて

 

必要なのはコントロールではないという話なので、

 

途中で読み終わって勝手に行動を停止しないでください。

 

 

 

 

 

話を戻しますが、

 

自分を愛させないようにしている嫌わせ行動は、

 

 

「相手の自由を奪わなければいけない

(こいつを自由にさせてはいけない)」

 

 

という思考が理由です。

 

 

 

その結果、

 

 

相手を自分から遠ざけることになっている

(自分を嫌わせることになっている)

 

 

という状態なので、

 

 

 

もし、

 

 

「私のことを愛して欲しい」と思うのであれば、

 

「相手の自由を奪わないこと」が何よりも最優先です。

 

 

 

 

※ あくまでも優先という話なので、

 

「相手を自由にしてあげればそれだけで自分がやることがそれで終わり」

 

というわけではないです。

 

 

 

 

というか、

 

それ

(相手の評価をコントロールしようとすること)

 

を手放さないでいるからこそ、

 

 

 

相手は

 

裸の(本当の)私を認識出来ないから愛せない

 

 

という状態になっているので、

 

 

 

とにもかくにも

 

他人をコントロールしようとすることを辞める必要があります。

 

 

 

 

自分が自分を嫌うことで

 

他人から愛されない現実になるまでの過程は

 

 

こんなイメージです。

 

 

 

 

自分が自分の裸を嫌っている

 

 

自分の裸を見せることが選択肢にない

(見せたら嫌われると信じてるから)

 

 

その状態で他人が私を見ると、

 

③A

相手はこの人(私)には裸がないと思っている

 

もしくは、

 

③B

裸を見せたくないと思っている

 

 

服を着ている状態

(自分を隠している状態)

 

のままで愛して欲しい人だと認識される

 

 

そのまま(服を)を愛する選択肢しかなくなる

 

 

服を脱がせる(服を脱ぎたくさせる)という思考をしない

 

 

裸の自分が愛してもらえない

(他人から愛されない現実)

 

 

 

ということです。

 

 

 

 

 

もう一度言いますが、

 

 

「愛される」とは

 

裸の自分で愛された時にだけ感じるものです。

 

 

 

 

 

つまり、

 

 

 

自分が服を着ているまま

(服を脱ぐことをしないまま・

どんな自分も見られることに許可していないまま)

 

 

では絶対に感じられないもの

 

 

 

ということです。

 

 

 

 

 

 

もしかすると、

 

 

服を着たままで居ることを

 

今の私はまだ自分で選んでいるのに

 

 

「(裸の私を愛せよ)」

 

「(私に服を脱ぎたいと思わせてくれよ)」

 

「(あんたのせいで私は服を脱ぎたいと思わないんだよ)」

 

 

と高圧的(上から目線)になっているから、

 

 

相手が愛したくなくなっているのかもしれない。

 

 

 

 

 

もしかすると、

 

 

 

言葉無く、

 

「(私を幸せにしろよ)」

 

「(私を大切にしろよ)」

 

 

と命令しているからこそ、

 

 

 

いつまで経っても

 

 

「幸せにしてあげたい」

 

「優しくしてあげたい」

 

 

と思ってもらえない

(思わせていない)

 

 

のかもしれない。

 

 

 

 

 

とはいえ、

 

 

自分が本当に裸になる覚悟をして

 

ちゃんと裸になって、

 

 

自分の願いを素直にちゃんと伝えたからといって、

 

 

相手が必ず自分を愛するようになるかというと、

 

そういうわけではありません。

 

 

 

 

自分(意識)

 

自分(本当の自分)をさらけ出した時に、

 

 

 

その相手が、

 

初めて裸のわたしを見た時に、

 

 

服(男性性・社会性)着ている私のことだけが好きで

 

裸のわたし(女性性・本当の自分)が嫌いだった

 

 

ということが判明することもあるので、

 

 

 

愛されるために服を脱いで本当の自分を見せたとしても、

 

そのままの自分が愛される保証があるわけではないのです。

 

 

 

 

じゃあ、なぜ、

 

 

僕がそれでもなお、

 

服(男性性・普通・集団性)を脱ぐことを推奨しているのか

 

 

というと、

 

 

 

服を脱いだわたし見たら私を愛さない男

 

だという事実は、

 

 

自分が服を脱ごうが脱ぐまいが変わらないからです。

 

 

 

 

 

「本当の自分が愛される瞬間を感じられなくてもいい」

 

のであれば、

 

 

そのまま隠し続ければいいけれど、

 

 

「本当の自分で愛される瞬間を感じたい」

 

という願いを今の自分が生きているうちに感じたいと思うのならば、

 

 

 

とにかく、

 

裸の自分で愛されること

(どんな自分もバレてしまうことに)

 

に許可をすることが何よりも優先になってきます。

 

 

 

※ 何度も言いますが、優先なので、それだけをすればいいかというと、そういうわけではありません。

 

 

 

 

 

まずは、

 

 

「幸せにしてあげたい」

「優しくしてあげたい)」

 

 

と、

 

思わせない行動をしているのは自分なのかもしれない

 

 

ということを疑ってみてください。

 

 

 

そこから深掘りしていくと、

 

 

 

自分が自分の裸を嫌っている

 

 

ということを決めた自分が浮かび上がってくるはずです。

 

 

 

 

 

上から目線で、

 

 

自分が気持ちよくなれないことを

(自分が幸せを感じられない原因を)

 

ずっと相手のせいにしていて、

 

 

 

「こいつにテクニックがないからだ」

 

って

 

「自分は何も悪いことはしていないのに」

 

 

って勘違いしていて、

 

 

 

「世の中の人間(男)は全員クズなんだな」

 

って思うことになっているのは、

 

 

 

自分が自分の裸を

 

クズ

(そのままじゃダメ)

 

だと思っていること

 

 

がそもそもの原因です。

 

 

 

 

 

 

 

だけど、それは違う。

 

 

 

「自分の裸をクズだと見ている」

 

という

 

その見方が間違ってる。

 

 

 

 

 

他人がクズに見える時は、

 

必ず自分のことをクズだと思ってるからで、

 

 

自分のことをクズだと勘違いしているからです。

 

 

 

 

ブスになのは、

 

 

自分の女性性(本当の自分)

 

「クズ(ブス)」だと思っている(信じている)人です。

 

 

 

 

だからこそ、

 

 

自分のセルフイメージ(無意識)が正しいことを

 

証明するように本当にブス(現実)になって

 

 

鏡の前に現れるのです。

 

 

 

 

 

外見の美しさを決めるのはセルフイメージです。

 

 

 

 

自分がブスになったのは、

 

 

セルフイメージ(自己評価)

 

無意識下に染み付いたからです。

 

 

 

 

 

その結果、

 

 

「本当の自分のままでは愛されない」

 

というスネ思考(意識)歪んだセルフイメージ(無意識)が作り出し、

 

 

「愛されようとする

(愛させようとする)」

 

という嫌わせ行動を取るようになった

 

 

ということなのです。

 

 

 

 

 

 

「本当の自分のままでは愛されない」

 

という現実になるのは、

 

 

「本当の自分のままでは愛されない」

 

というセルフイメージがあるからだよ。

 

 

 

 

現実(見える結果)には、

 

理由(見えない原因)があるのです。

 

 

(自然災害で起きることもあるので、全てがそれだとは言いません)

 

 

 

 

 

 

 

愛されない時の怒り

(幸せにしてもらえない時の怒り)

 

 

って、

 

 

 

「なんでこんなに

『あんたが好きな女』に

なろうとしているのに、

どうして

私を愛さないんだよ」

 

 

 

だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

元も子もないことを言い方をするしか無いのだけれど、

 

 

そんなことをしなくていい

 

 

ってことなのです。

 

 

 

だけど、

 

それをやめるだけでいいのか

 

っていうと、そういうわけではない。

 

 

 

 

 

他にやるべきことがあるんです。

 

 

 

 

 

「自己否定を辞める」とは、

 

「余計なことを辞めること」で、

 

 

「自己受容をする」とは、

 

「必要なことをやり続けていくこと」です。

 

 

 

 

 

僕の無期限フォローは、

 

 

その具体的な行動を

 

無期限で回数無制限でアドバイスする(一緒に探していく)するものです。

 

 

 

 

まずは、

 

今の自分がしている「しなくてよかったこと」に気付いていきましょう。

 

 

 

 

それに気付くためには、

 

まずは「学び」が必要かもしれません。

 

 

 

 

「ツイている人」と「ツイていない人」の違いは、

 

 

チャンスの掴み方を

 

「知っている」か「知らない」かの違いだと僕は思います。

 

 

 

 

で、

 

その「知識」の差が生むのが

 

 

「チャンスの掴み方・探し方を知っているからチャンスを見たら飛び込む」

 

 

「チャンスが見つからないから何もしない」

 

 

という「行動」の差になり、

 

 

 

「チャンスを活かした結果が得られる」

 

 

「チャンスを逃して結果も得られない」

 

 

という「結果」の差になるのです。

 

 

 

 

ただ、

 

「知識」と「行動」の間には

 

 

「自分を信じられるかどうか」を試す

 

大きな溝があります。

 

 

 

その溝は、

 

絶対に失敗したくない人は渡れません。

 

 

 

なぜなら、

 

本当に失敗することがあるからです。

 

 

 

そこで行動する人と行動しない人が

 

ふるいにかけられるのです。

 

 

 

 

そこにある大きな溝が、

 

「失敗する可能性があるならやらない」という人を作ります。

 

 

 

これが、

 

 

「チャンスだと思って飛び越える人になる」か

 

「チャンスを逃す人になる」かを分けるのです。

 

 

 

 

あとは、

 

その大きな溝を目の前にした時に、

 

 

自分がどちらの人間になるか自分で決めるんです。

 

 

 

 

で、これこそが、

 

 

運命に委ねられる人になる

(他人の判断に委ねて選ばれることを信じられる人になる)

 

か、

 

運命に委ねられない人になる

(自分で結果をコントロールしようとする人になる)

 

 

かの違いであり、

 

 

 

 

 

自分を信じる人

 

自分を信じようとしない人かの違いになり、

 

 

 

嫌わせ行動をしない人

(豊かになる可能性がある人)

 

か、

 

嫌わせ行動をする人

(不幸が確定する人)

 

かの違いになる

 

 

 

というのがこの記事のまとめです。

 

 

あとは、

 

選んでください。

 

 

 

 

 

 

大きな溝

(自分を信じる道)

 

を飛ばないと決めた結果の現実が今であるならば、

 

 

 

これからの人生をどっちで過ごすかは

 

自分で決め直しましょう。

 

 

 

 

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