英会話の研修で年末年始はフィリピンに居た。

英会話の方はちょっと長くなるので端折るが、
基本的には「安かろう悪かろう」と言わざるを得ない。
無論効果が無いわけではない。

十分に価値ある体験ができる。

しかしそれはさておき
私が感じたのは「空」だ。

仏教で言うところの空である。

ものごとには実態がないということ。
俺は専門に仏教を勉強をしたことはないが、大体わかる。
僭越だが、わかるよ。
原始仏教も、親鸞も日蓮もわかる。

私がここで言う「空」っていうのは中観とか、あまり具体的な仏教史のコンテクストには
乗せられないが・・・。

例えば馬車というものがある。
しかし、実際にはタイヤがある、馬がいる、馬には蹄鉄が打ちこまれている。鞍もある。
馬と人が乗る客車?がある。客車も屋根がある中にはイスがある、椅子にはクッション
が乗っている。クッションも革張りだ。中は綿かもしれない。タイヤだって色々な部品
に分けられる。最終的にはクオークか?

つまり馬車という確たる存在は無い
しかし、現実に馬車という機能をもった「まとまり」
は存在する。

そんな感じだろう。

だけれども、これっていうのは「体感」するのは
難しい。


妙な畑の会セカンド

これは元旦の朝食だ。

ちょっと酷いよね。
まあ、これ食ってる最中に、あ・・・写真撮るの忘れた・・って
撮ったから余計に悲惨さが強調されてるけど
食パンに少しの卵焼きとインチキハム+レタス少々。

日本では刑務所でもこんなものは出さない。

だけれどもセブに着いたのが12月25日で、もう慣れていた。

何とも思わなかった。

正月といっても特に良くも悪くも心が動かない・・・。
正月なのにこんなもの喰わすの???
などと全く思わなかった。

自然だった。

今日は正月といえば正月・・・・そうであるともないとも言える
でも他の暦だってあるのだ。
何も特別じゃない。

理屈はともかくこの若干悲惨な食事は視覚的にも
舌的にも、あるいは日本の伝統文化というものが
ある程度は血肉となっている私を「素通り」していった。

それはただただ自然であり、清々しさに似た感情もあった。


これって「空」だよなあって思った。

大げさに言えば「悟り」だ。
悟りってのは「平気」ってことだからね。