今は読めなくなってしまった。鴨さんの絶筆

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妻はマンガ家だった。
 彼女と初めて出会ったのはタイのバンコクであった。
 その頃の自分は、ベトナム戦争を北側から取材していたという経験を持ち、その後もいくつものスクープ映像を全世界に配信し続けた歴戦のフリージャーナリストを師匠に持ち、もう一人、やはり記者志望の同世代の男と共に、テレビカメラマンとしてバンコクに拠点を置き生きていた。
 フリービデオジャーナリストの世界に身をあずけ始めていた、まだまだ坊やなのだった。
 取材対象となりえる事件がそうそうある訳でもなく、またフリーという立場では誰も行き着けない危険極まりない、リスキーな状態に陥っている現場か、中身の濃い情報の中心をピンで刺すような映像を記録できなければ、誰もふり向きすらしない。
 事件を聞き、現場へ向かうタイミングを見極め、慎重に情報をよりわけて、何が取材できるか、どこまで入りこめるか、三人で膝をかかえ、じっと吟味する。
 いかに、事件の中心に向かってより正確な入り口を捉えられるか、現れては消える情報に身をゆだね、冷徹に息を殺して待ち続ける。時によって気が遠くなる程長い時間を費やすことも度々だった。なかなかに体力のいる待機時間だ。
 それでも日々食って行かなくてはならない。
 アクションを起こすのは引き出しに収めつつ、日本からやってくる情報番組からワイドショー、お笑い番組に雑誌の取材にと、枠を無視し、スタッフの通訳からロケハン、移動手段の手配などのコーディネイトをし、そのギャラを日々の生活や取材費に当てるのだ。
 タイの隣国、ミャンマー国内が何やらうごめき始め、アウン・サン・スーチーの自宅軟禁が国際問題化し、軍事政権が尖鋭的に軍事行動を起こすのではないかと騒ぎ出されてきた頃。時期を狙い定め、いつでも出発する準備が整いつつあるその頃に、彼女が取材でやってくるという知らせを受けた。
 師匠は情報をより鋭く研ぎにかかっていて、相方はただひたすら得られる情報をかたっぱしから寄せ集めている中で、妻たちの取材陣の手伝いは自分が担当することに決まった。
 取材陣に入っていた同行する記者は以前から懇意にしてもらっていた人物で、取材プランは彼によって練られていた。タイの正月に当たる“水かけ祭り”を中心にパタヤ、バンコクを歩くというものだった。
 その年でタイ生活は四年目になっていた。
 “水かけ祭り”は一年目に経験しただけで、もう充分であった。見ず知らずの他人からざぶざぶと水を浴びせかけられて愉快な訳がない。それにその時はバンコクに二カ月ぶりに帰ってきてまだ三日が過ぎたばかりだった。
 ミャンマーに二カ月滞在していたのだ。
 彼の国は国内で何か起こるとすぐに外国人ジャーナリストを入国させなくしてしまう。何かが起こってからでは遅い。ビザが取得できる平時のうちに、その足でミャンマーに入っていようと数カ月前から計画を練っていたのだった。
 こちらは大新聞のように軍資金がたんまりとある訳ではない。二カ月近く滞在するとなるといくら安ホテルに泊まっていようと、何事もなければただホテルにいて宿泊代だけはきっちりと払わされるのだ。それは最初からできない相談だった。
 ならば、どうするか。
 強風が吹き抜けたようにザアッとひらめいた。
「坊主になります」
 その言葉に師匠と相方は手をたたいて賛成した。
ミャンマーで坊主になれば衣・食・住に困ることは決してない。下世話な言葉を使えば全てタダである。それにお布施までもらえ、タバコ銭くらいにはなる。
 最大のメリットは滞在一カ月間のビザが、坊主であれば何度でも延長できるということだ。
 仏教国であるあの国をもっとよく理解しようと思うのなら、身をもって体験するのが何よりもの近道だし、それに自分の場合、酒で壊れ始めた体のためにも、長い断酒期間となって、全くいい事づくめであった。大事件が起こった時には小さなビデオカメラ片手に袈裟はためかしスーチー女史の元へかけつければよいのだから。
 ミャンマー人の仲間と連絡を取り合い、すんなりと坊主用ビザは発行され、機材以外はズボンのポケットに二十ドル紙幣三枚だけつっこんで首都ヤンゴンに何事もなく辿り着いた。
 得度式を明日に控えた日曜日の午後、スーチー女史の自宅へと向かう。背の高い鉄格子の上に半身を乗り出し、門の外に女史を取り囲むようにして支持派市民が身をよせ合い、発言に耳を傾けている。思っていた通り外国人記者の姿は全くといってよいほど見かけなかった。
「やったな、一人占めだよ」
 ミャンマー人の友人につぶやくと、
「でも明日から貴方はお坊さんになるのです。人ではなくなるのです。お坊さんのままでビデオカメラは持てません」
 話は通じていないまま、ある真面目な日本人が仏教心に目覚め我々の国に修行にきてくれた。こうなっていたのだった。
 得度式は腰が抜ける程の人々が集まり、頭を剃られ、ピカピカな民族衣装を着せられ、寺の中を馬に乗せられ連れまわされた。そして何十皿というおかずの並べられたテーブルの前に座らされた。百人以上のミャンマー人が手を合わせながらこちらが一人食事を摂る姿を見つめ続け、中には涙する老婆まで現れた。お布施も十万円近くあった。
 とてもじゃないが、これ全て取材のためよ、などと本心を語れる状態ではない。
 もうとにかく自分が坊主の間はスーチーさん、お願いだから静かにしててねと心の底から願った。こうなったらこの瞑想寺で仏教を学んでしまえ。
 具体的には、欧米ジャーナリストの指摘する国民への強制労働と、根本的な宗教心からくる現世で徳を積むための仏舎利などでの報酬を一切求めない勤労への捉え方という温度差の違いを実感してやろう。そう考えることにした。
 妻たちがパタヤで水かけ祭りを体験して、バンコク入りしたその夕方、ホテルのロビーで一同と初めて顔を合わせた。こちらは当然坊主頭だ。
 妻と挨拶する。自然と視線はこちらの青剃りの頭を向いている。「いやぁ、実は」
 とミャンマーでの出来事を話した。
 聞いているそばから大笑いを始めた。
 美しい笑顔を持った人だなと見つめ続けた。

ホテルのロビーで一同と会したのは偶然で、皆はホテル周辺に広がる市場をひやかしてきたところに、丁度かち合わせたのであった。
 顔ぶれが不思議で、妻を合わせると女性が三人もいて知り合いの記者だけが男性だった。
 聞くと一人の女性が妻の連載する雑誌の担当編集者で、もう一人はアシスタントだということだった。知り合い記者は担当なのではなく今回はコーディネイトと写真撮影の役目で同行したのだった。
 妻の名前すら知らず、ましてや作風や上梓した本の名など聞いたこともなかった。彼女についての情報は皆無だった。
 とにかく今回何を、どのように取材したいのかを聞いておかねば仕事にならない。夕食を摂りながら打ち合わせをすることとなった。
 観光地メシに飽きていて庶民の味が恋しいと言うので、丁度ホテルから歩いて五分ほどの空き地が、夜になるといくつもの屋台が軒を並べて商売を始めると話すと、是非そこで食って飲みたいと喜んだ。
 ちょっと名の知れた人物になると、やれ衛生的にとか、化学調味料がだめだとか、日本食でなければ口に合わないとほざいてみたり、浅い知識をひけらかし香辛料の名をいくつか連呼したりするのが常なのだが、妻は逆に、きったない、くっさい、えげつない、市井の人々が日常口にするものをと、何度も口にした。
 食事はある意味その国を象徴するものだし、私は観光にきたのではなくて取材にやってきたのだから、とも付け加えた。
 その発言一つ聞いただけで、この女性の取材がきっと成功するようにできるかぎり手伝おうという気にさせられた。
 外出して帰ってきたばかりなのでシャワーを浴びてからすぐに改めて集合しようとなった。
 もうアル中気味になっていて、人間世界に戻ってまだ数日しかたっていないのも手伝って皆が部屋に上って行くと、ロビーで一人ビールを飲み始めた。
 二、三十分はかかるだろうとゆっくりビールを味わっていると五分もしないうちに、一人妻が先に部屋から降りてやってきた。
 顔を洗っただけなのだろう。髪をアップにして真紅のルージュを引いてポトポトと近付いてきた。
 ビールを一緒に飲むと言うのでウェイトレスにグラスを持ってこさせ、彼女のグラスに注いだ。
 クイッとグラスの半分くらいを喉を一つ鳴らしながら飲み、タイのビールは軽くて飲みやすいわと微笑んだ。飲みっぷりもはっきりとしていて、何故か隙のない強い女だなという印象を持った。
 酒が強そうだと伝えると、高知の産だとはっきり大きな声で答え、“いごっそう”ですねと話すと、ええ“八金”です。そう返した。
 水かけ祭りとパタヤの印象を尋ねると、両方とも最低だと切って捨てた。その毒気に満ちた声色につい大きくふき出すと、こちらが笑ったのがそんなに嬉しかったのか、パタヤでの出来事を、まるで台所でゴキブリを見つけたかのように悪意に満ち、嫌気たっぷりに、しかし細い記憶は微細についほうと関心する表現方法で早口にまくし立てた。
 彼女の放つ悪口雑言は何故か常に柔らかさにつつまれていて、いつの間にか彼女に愛しさを募らせていた。
 何の偶然か、妻もこちらを話しやすい人間と感じたのか、屋台村に向かう道中もしきりに話しかけてきて、二人の会話が休むことはなかった。
 席につくと彼女の「まずはビール。冷えた所じゃんじゃん持ってきて」の一声で宴は開かれた。
 ここで一番好まれ食べられている品を選んでください。彼女はこちらに向かって叫んだ。
 他の同行者は一瞬困った顔をしたが、それに気づいていても自分と妻は一切無視して九品料理を選んだ。
 特別な食材は敢えて選ばず、地元の人たちが一番注文するものだけにした。
 強いて特別な食材と言えば、よく太った蛙の太股とバナナの花、ガチョウの水掻きに塩辛い大カマスの輪切りを強烈な刺激臭に仕上げ発酵させたものだろうか。
 何度もタイに足を運んでいる旧知の記者と女性二人は、見たことのない色の料理や、脂が表面を被う品のえも言われぬ発酵臭におじけづき、ほとんど箸が動くことのない中、妻は両手の指を脂と調味料まみれに汚しながら料理にむさぼりついている。
「旨いよ全部。ほら食べなよ」
 時々どうでもよさそうに皆に声をかけるが、すぐに料理にむしゃぶりつき、汚れた指をなめてビールのグラスをつかみガブガブと飲む、そして思いついたままにこちらに向かって速射砲のように、ありとあらゆる切り口から質問を投げかけてくる。
 答えるたびに腹をかかえて大笑いしたり、答えに満足できるまで深くさぐり、理解すると大きく頷き、必要と思えばメモを取り出し、文字を走り書きする。
 有能な記者でもあった。
 満足できたのか、皆の困惑ぶりを見て取って「帰ろう」、そう一声発して席を立つと大きく背伸びをした。明日はどうするか。聞くと、
「観光入っちゃってるのよ。そんなの行きたくない。貴方の話聞きながら思いつくままに歩き回りたいのだけど」笑いながらも旅をコーディネイトした記者を気くばって小さな声でささやいた。
 明晩また食事をしながら質問するので総括してくれと言われ、別れた。
 初めて会って食事をしただけなのに彼女に会う次の日を待ち遠しく思ってならない気持ちになり、自分の心に戸惑った。
 翌日の晩餐は皆のことも考え地元の者が通うシーフードレストランを選んだ。
 最終日ということもあり、さすがの妻もテンションは下がっていたが、質問は辛辣そのものであった。
 食事も終わり皆席を立った頃、彼女はそっと近づき小さなメモ用紙を渡してよこした。
「滅多にないことなの」そう言い残し女性の輪に加わりに走っていった。
 メモには彼女の私用の電話番号が書かれてあった。
 でも、それから一度も彼女に電話を掛けることはしなかった。恋心が戦場での足をにぶらせると思ったのだった。
 ただ、神様をこの目で確かに見た。
 丁度一年後。僕たちはアマゾンで一緒に仕事をしたのだ。
 取材も終わり、一人ビジネスクラスにいた彼女が「一人じゃ寂しいの」そう言って自分の横に座った。
「いろいろ考え過ぎるんだよ」
 僕はささやきながら彼女の手を強く握りしめた。
 それから二人はずっと手を離すことはなかった。

■お知らせ■
 この原稿をもちまして3月20日 午前5時 鴨志田穣氏 腎臓ガンにより永眠されました。