日本馬術、92年ぶり快挙
"We won!!"ロサンゼルス五輪・西竹一とウラヌス
私の最も好きな馬。
ウラヌス、父・サンデーサイレンスと子・ディープインパクト、そして2023年に亡くなったメルズーガ。
日本馬術がパリ五輪で、92年ぶりのメダル獲得という快挙を遂げた。
92年前の日本人金メダリスト・西竹一男爵と愛馬ウラヌスとは、どのようなパートナーだったのか。
400字をはるかに超えてしまうが、少し振り返ってみたい。
(北大馬術部のサイトが、大変詳しく読みごたえがあるため、ご興味がお有りの方は是非。)
西大佐と愛馬ウラヌス
(1932年ロサンゼルス五輪/画像出典:Wikipedia)
西竹一大佐は、華族出身。
愛馬ウラヌスと共に、1932年ロサンゼルス五輪「馬術大賞典障害飛越個人競技」で金メダルを獲得した五輪選手であり、旧陸軍軍人(激戦地・硫黄島での戦死により最終階級は大佐)である。
1902(明治35)年7月12日、西徳二郎男爵の三男として誕生。
1912(明治45)年10歳で、ご父君を亡くすと家督と「男爵」の爵位を継ぐ。
幼少期から、やんちゃで運動神経もよく、馬術に長けていた。
1930(昭和5)年。
2年後のロサンゼルス五輪を見据えて、ふさわしい馬を探しに欧州へ渡り、伊太利亜でウラヌスと出逢う。
(ちなみに、この欧州への航海中、西が洋上で出会ったのがダグラス・フェアバンクスと「アメリカの恋人」メアリー・ピックフォード。
1920年代後半~30年代の古き良きアメリカで、綺羅星のごとく輝いていた俳優で、現代で言えば、テイラー・スウィフトのような存在です。
この二人の写真は、クリント・イーストウッド監督「硫黄島からの手紙」でも重要な小道具として出てきますね。)
「ウラヌス(天王星)」の名の通り、「気が強く暴れ馬で、誰も乗りこなせない」と馬主が売りたがっていたのを
「そんな馬なら俺にぴったりだ」と、当時の金額にして、6500リラ(当時の換算で6500伊リラ=1000円※注1)で買い取ったのが、当時28歳、中尉時代の西竹一氏である。
その後、西はすぐにウラヌスと組んで欧州各地の馬術大会に出場し、好成績を残している。
気性が激しい暴れ馬――
そんな馬を乗りこなして、見知らぬ欧州ですぐに結果を残せるだろうか?
馬はとてもよく人を見る。
下手な人なら馬鹿にする馬もいるし、一度「この人」と決めると終生、忠実に愛情を示してくれる。
これは推測でしかないが、ウラヌスもこの手のタイプだったのではないか。
技量が足りなければ、「お前なんか百年早い」とばかりに振り落とし、「お前の言う通りにはならない。馬鹿にするな」と鼻息荒く抵抗する。
それが一度、西中尉が背に乗ると、馬術に非常に長けているばかりでなく、ウラヌスの気持ちを聞くように馬と呼吸を合わせてくれる。
ウラヌスが待っていたのは、そんな人だったのかも知れない。
ウラヌスと西竹一。
人馬一体となり、共に目指した92年前のロサンゼルス五輪。
――1932(昭和7)年8月14日。快晴。
ロサンゼルス五輪の最終種目として開催されたのが、五輪の華「馬術大賞典障害飛越競技(Grand Prix des Nations)」。
馬術競技の中でも最も華やか、かつ最も高度な技術が必要と言われる競技が、10万人を超える大観衆が見守る中、幕を開けた。
コースは、スタジアムを縦横に全長1050m。
柵や水壕など、最高1.6mの障害がコース内に19箇所も点在する難コース。
北海道大学の馬術部の記載によれば、「屈指の難度」とのこと。
午後2:30。競技開始。
審判は、五輪史上初の日本人審判・遊佐幸平騎兵大佐(監督)が務めている。
1番:メキシコ。ボカネグラ大尉。2つの障碍を落とし、第8障碍で3度拒止、失格。
2番:アメリカ合衆国。ウォフォード中尉。4個の障碍を落とし、第8障碍で人馬共に転倒。第10障碍で3度拒止、失格。
3番:日本。今村安少佐。4個の障碍を落とし、第10障碍で3度拒止、落馬。失格。
4番:スウェーデン。フォン・ローゼン中尉。4つ障碍を落とすも、全コース走破。減点16でゴール。大喝采。
5番:メキシコ。メジャ少佐。第2障碍で3回拒止され、失格。
6番:アメリカ合衆国。ブラッドフォード大尉。6個の障碍を落とすも全コース走破。24点減点。
7番:日本。吉田重友少佐の予定が練習中に負傷、入院につき棄権。
8番:スウェーデン。優勝候補・フランケー中尉。2つの障碍を落とし、第10障碍で3回拒止。失格。
※この時点で、「団体戦」が成立しなくなる。――
これは各国に失格者が出たためである。
本来なら、1ヶ国3選手の合計点が最も高い国に、特別に「大賞典優勝国(Grand Prix des Nations)」の名誉が与えられるはずだが、出場国全てに失格者が出たため、「優勝国」がなくなり、残るは「個人優勝」を目指して闘うのみとなった……。
9番:メキシコ。オルチッツ大尉。落下と拒止により失格。
10番:アメリカ合衆国・監督。アメリカ期待の星・チェンバレン少佐。相棒は「ショーガール(葦毛)」。
スタジアム中から地鳴りのような大歓声が響くなか、疾走。
障碍を一つ飛び越す度に、割れんばかりの拍手と歓声が湧き起こる。
第5障碍を落とす。一瞬の溜め息につぎ、また拍手。
チェンバレンとショーガールは、第6・第13障碍で水壕に肢を踏み入れる若干の過失があり、12点減点するも素晴らしい成績で全コースを走破。
栄冠は誰の目にも、チェンバレンとショーガールの手に渡ったと見えた、という。……
残るは、格下と見られていたスウェーデンのハルベルグ大尉と……日本の西竹一中尉のみとなった。
11番:日本。
いよいよ、西竹一中尉と愛馬「ウラヌス(フランス生まれ・アングロノルマン / 体高181cm / 栃栗毛)」の登場である。
アングロノルマンの平均体高は155~170cmというから、ウラヌスがどれだけ大きな馬体を誇っていたか、想像すらできない。
まるで太陽系のはるか遠くを周回する天王星のような、額に星のついた栗毛の馬が堂々と歩を前に進めると、観衆はその威容に息を呑んだ。
西中尉が愛馬ウラヌスを誇るかのように、悠然と競技場を一周すると、青空を切り裂くように一瞬、タイムスタートの旗が降ろされた。
第1障碍。
西中尉とウラヌスは、互いに息を合わせ、流れるように越えていく。
第2障碍、第3障碍……。
西は落ち着いている。
北大の記述によると「あくまでも正確な騎坐、巧妙な指導、堂に行った飛越」で、現存の動画を見ると、端正な騎乗ながら障碍物の前では「ウラヌスと一緒に跳んでいる」のがわかる。
ウラヌスも西と息を合わせて、独特の力強い歩調で大きく踏み出すと、巨体をものともせず軽々と障碍物を越えていく。滞空時間が長い。
第6障碍。
高さ数十cmの横木の向こうに、幅5mの水濠が広がっている。
ウラヌスは全く力むことなく、横木の半歩前から流れるような弧を描き、軽く水濠を跳び越していく。
普通なら、踏み切り前に全身の力を込め、馬体を一瞬、縮めるようにして跳躍するはずだが、それが全くない。流線形と言ってよいくらい、滑らかな飛越。
が、右前肢、つづいて左前肢が水濠の向こう岸ぎりぎりに着地したため、わずかに右後肢が濠の水をかすめ、飛沫が上がる。
第8障碍、バンケット。
苦も無く突破。
そして、問題の第10障碍。
ユーカリの枝を積み重ねた上に、さらに横木を重ねた障碍で、ここで拒止され失格となる選手が多い中、ウラヌスも一度は戸惑い、左へ切るようにして止まる。
しかし、西は素早く馬体を反転させると、再び馬首を障碍に向け、今度は思い切って高く上に跳び、成功!
ウラヌスは巧みに身を右にひねり、余裕をもって障碍を飛び越した。
強い陽射しの下、目深にかぶった軍帽の奥の、西の顔は窺い知れない。
が、おそらく「とにかく、落馬しないように」「ウラヌスと呼吸を合わせて」ということしか、もう頭になかったのではないか。
もしかしたら、大観衆の歓声さえ、もう耳に入らなかったかも知れない。
――ウラヌスとふたり、目の前の障碍を越えていく。
それしか頭になかったかも知れない。
ウラヌスと西中尉は、残る障碍を全て軽々と飛び越してゴールした。
万雷の喝采がふたりを迎えた。
減点8。この時点で首位に立った。
12番:スウェーデン。ハルベルク大尉。完走はしたものの、拒止と障碍の落下が多く、タイムオーバーで50点の減点。
ウラヌスと西竹一中尉の金メダルが決まった瞬間だった。
ロサンゼルス五輪・馬術 当時の貴重な映像
金メダリストの西竹一氏とウラヌス
(動画出典:せい子隊長様より)
"First lieutenant, Baron Takeichi NISHI."
優勝者の名が競技場に響き渡った。
"We won!"
詰めかける記者たちに、英語が堪能な西はさらっと笑顔で応えた。
何気ない一言に、西の価値観が表れている。
「ウラヌスとふたりで勝ち取ったメダルです。ウラヌスが頑張ってくれたからですよ」「よくやったな、ウラヌス!」
「自分一人で勝ち取ったメダルではない。周囲の人、ウラヌス、皆で勝ち取ったメダルだ」と。
人が上で、動物が目下ではなく、同じ目線で一つの目標に挑んだのだ、とその人となりが表れた一言だった。
ウラヌスとふたりで勝ち取った金メダル――
人馬一体となり挑んだからこその名言だと思う。
西中尉はその後、1943年に中佐に昇進。
1944年3月に戦車第26連隊連隊長を拝命、満州北部に配属。
当初、サイパンの戦いに参戦命令が出ていたが、サイパン島の守備隊が次々と壮絶な玉砕を遂げたため、サイパンへ赴任することなく守備隊は再編成。
1944年6月20日、本土決戦の重要な砦となる最前線・硫黄島への動員が下命された。
第26連隊は、満州から日本を経由して硫黄島へ向かう予定であったが、その行路でアメリカ海軍ガトー級潜水艦「コビア」の雷撃を受け、28両の戦車ともども輸送船が沈没。
期せずして一度、東京へ戻り、戦車を補充することとなる。……
この時、西は多忙な中、わずかな時間を縫って馬事公苑に足を運んでいる。
――ウラヌスだ。
世田谷区上用賀の馬事公苑で、引退後のウラヌスが静かに余生を送っていたのだ。
あの気の強い、誰にも乗りこなせないと言われたウラヌスは、遠くから西の足音を聞きつけると、大喜びでいななき、甘えて首を摺り寄せ、甘噛みしてきたという。
1945年3月――
16日16時、栗林忠道中将以下、旧日本軍は「玉砕」を意味する「訣別の電文」を大本営に打電。
17日には音信が絶たれ、21日もしくは、22日に西竹一中佐も戦死したといわれる。
その約1週間後の3月末。
陸軍獣医学校にいたウラヌスも、西中佐の後を追うように息を引き取った。……
ウラヌスは、どうしても西竹一氏に逢いたかったのかも知れない。
「ぼくも一緒に行くよ。
遠い国に行くのに、ぼくの脚が必要でしょ」(ウラヌス)
ちなみに。
「硫黄島からの手紙」で捕虜となった米兵・サムのモデルかのような、サイ・バートレットという人物がいる。
彼は、ロサンゼルス五輪当時19歳で、練習場のリヴィエラ・カントリー・クラブで西にとても世話になった少年である。
バートレットは後に、グァムの第315爆撃航空団の陸軍大佐としてB29に搭乗した。
日本爆撃の命令を受け、世話になった西の祖国を爆撃することに逡巡を覚えたという。
出撃後、バートレットの搭乗機は被弾し、偶然にも帰途、硫黄島に不時着している。西の戦死直後、その死地に知らずに不時着するとは、なんという運命のいたずらだろう。
バートレットは、1960(昭和40)年に西大佐の消息を求めて、来日。
俳優のケイリー・グラントを伴って麻布の邸宅を訪れ、そこで初めて西の硫黄島での戦死を知り、嘆き悲しんだ。
西の御霊が靖国に瞑っていることを聞くと、彼の地を訪れ、たった一人の慰霊祭を行ったという。……
92年ぶりの人と馬との快挙を見て、なんとなくウラヌスと西大佐が喜んでくれていそうな気がする。
※注1
1930(昭和5)年の「1000円」とは?:
比較対象が陸軍ではなく、海軍で申し訳ないのだが、
当時、海軍二等兵の給与は月6円50銭。1000円は、海軍二等兵153名分の給与と同価値。
海軍大将の月給が1ヶ月660円につき、ウラヌスの購入価格はこの1.53ヶ月分ということになる。
※参考:
北海道大学馬術部「バロン西と愛馬ウラヌス物語」
Wikipedia
ほか
#初老ジャパン #馬も表彰