大東亜戦争を太平洋戦争と書きたくない。

8月はどうしても大東亜戦争の話となる。

 

もう戦争体験者も高齢者で戦時中の話をする人も減ったけど、まだ戦争を大人で体験した人達から聞かされた世代は居る。

 

明治産まれの祖父母は毎年8月になると戦争の話を積極的に自分にした。

 

祖父母の戦争・戦争体験を伝えなければいけないとの思いは子供ながらに感じた。

 

大学ノートに聞いた話を書いていた(そのノートは当然もう無い)。

 

祖父母から聞かされた祖母目線の戦争体験の話を思い出して少し書こうと思う。

 

 

 

 

○祖父(長崎産まれ長崎育ち)

名古屋三菱重工に勤務

(戦闘機製造に関わる)

 

○祖母(長崎産まれ長崎育ち)

名古屋で戦争を迎える

(4次元空間人・能力者)

 

夫婦で戦争前に長崎から名古屋へ移転。

 

戦前の「戦争へ」の国民誘導時から、大東亜戦争の日本本土の空襲が起きるのは祖父母の間では既に読めていた。戦争の敗北も開戦時から読めていた。

 

ジャーナリストの桐生悠々氏だけでなく、戦前の時点で鋭い一般市民は、対米開戦→経済困窮→本土空襲→戦争敗北の道筋は読めていたらしい。

 

 

(因みに。4次元空間人の祖母は子供の頃から長崎の原爆の日を知っていた。今回は触れず)

 

戦時中の情報統制・情報操作は、一般市民もわかっていたが、隣組・憲兵・特別高等警察と市民を監視する力が強くてみんな表立って言えなくなったらしい。

 

徐々に。徐々に。人もおかしくなってきた。

 

 

昭和17年から日本本土の空襲が始まる。その前に「逃げる事を許されない。逃げるな火を消せ」の防空法が定められる。

 

 

 

 

警戒警報・空襲警報が鳴り響けば、防空壕へ逃げるものだが。

 

焼夷弾がまだ降る中。爆弾がまだ投下している最中、燃え上がる木造家屋の消火の為に防空壕から憲兵に無理矢理に連れ出されて市民(庶民)は消火活動をやらさられる。当然 それで亡くなる者も居た。

 

焼夷弾ではなく消火活動で亡くなる。

祖母は大火傷と骨折で済んだ。

祖母はそれを怒っていた。

 

老人達、女達のバケツリレーで消火活動は追いつけない無理なものをやらされた。体力の無い老人はバケツリレーで亡くなる事もあった。

 

ー焼夷弾とはー

 

爆弾の一種で、中に油が入っており、地面に落ちると燃えて周り一帯いったいを焼きつくします。 木造の家が多い日本の町を焼き払うため、爆発力の大きな火薬ではなく、よく燃える油をたくさん詰めたこのような爆弾が開発されました。

 

そして。室内退避所や床下防空壕が奨励されるが、当然 死に近い退避なので、室内退避所に従った者達は亡くなったり負傷をした。

 

 

何度かの空襲で防空法を無視して逃げ出す者が増えてきた。

 

逃げて見つかると兵隊に殴りけられ公開リンチを受ける。リンチで亡くなった者も居たが、空襲で亡くなった事にされる。

 

気が狂い始める者も居たらしいが、気が狂った者は玉音放送後の方が多く現れたらしい。

 

何度かの空襲を受けて一般市民は「政府VS国民・一般市民」を感じるようになっていた。

 

「政府VS国民」だけではない。

 

空からは爆弾・焼夷弾、

目の前には憲兵達、

後ろには日本人に根を持った日本人以外の者達、

陰では身近な者達、

 

これらをかわして生きなければいけなかった。

 

戦争の最大の敵は。

密告・裏切り・非協力の身近な者達であった。

 

自分達の敵は、米軍でなく日本政府・憲兵だと感じる者が多く現れるようになった

 

そこに戦争孤児の子供達が増えてきた。

 

「孤児狩り」が始まった。

町の人は戦争孤児を守る為にグチャグチャ状態。

 

祖母は自分の子供達(7人)を守るよりも戦争孤児を含む近所の子供達を守っていた。大勢の子供達の面倒を一人で見ていたらしい。

 

 

太平洋戦争の間、米軍は、B25による初空襲を含め、名古屋に63回の空襲を行った。B29の来襲は2,579機に達し、投下弾は判明分のみで14,500tを超える。その被害は、死者7,858名、負傷者10,378名、被害戸数135,416戸に及んだ。

 

 

そして、空襲警報の解除で人的被害が起きた。愛知時計電機の空襲では多くの学生が亡くなった。

 

この事件は名古屋市民に怒りを与えたと言う。一部で暴動のようなものが起きたが鎮圧される。

(この件に関しては事実が残っていない)

 

また、昭和20(1945)年6月9日の愛知時計電機等の空襲では、防空壕に退避していた工員らが、警報の解除により工場に戻ったとき、あるいは戻りつつあるときに爆撃を受けた。その警報解除ミスにより、死者2,068名、負傷者1,944名と、人的被害において、名古屋空襲で最大の被害を出した。

 

戦時中。祖母の長女が学徒勤労動員で工場へ向かう途中に空襲で亡くなる。長崎で祖母の両親と兄弟が亡くなる。しおぎの母親を産む。

 

そして。祖母は戦争の状況を戦前から予期していたので、戦争が起きる前から、味噌と塩と醤油と梅干しをお寺の床下の穴などに多くの人達の為に大量に隠していたらしいが、それも憲兵に見つかりみんなの目の前で裸にされ体罰(リンチ)受けた。

 

その備蓄で助けられた人達は多く居たらしい。

 

昭和20年8月15日。玉音放送が流れる。

 

もっとグロい。生々しい話を聞いたが簡単にまとめた。

 

祖母は戦争で負けた。悲しいよりも。

 

「日本政府VS国民」の戦いがやっと終わったと思ったらしい。

 

 

終わってはいない