私の祖母は四十六年前、私が二十歳の時に八十八歳で亡くなった。私をとても可愛がってくれた。夜、両親との川の字の布団を抜け出して仏間の祖母の布団に潜り込んだ。ふかふかとしてとても温かかった。

私の父は男がめそめそするのが人一倍嫌いな人だった。私が叱られて泣き止まないでいると、何時も父は私を真っ暗な「土蔵」に閉じ込めた。鍵は掛けないが重い欅の戸は子供の力ではビクともしなかった。二階に小さな窓が一つあったが、一階に窓は無く二階の光は届かなかった。目が慣れるまで何も見えなかった。そして何時も折を見て助けてくれるのは祖母だった。

 

お小遣いの話だが、私が子供の頃は月にいくらと決めて貰える子は少なかった。勿論、私もそんな風には貰えなかった。必要な時は親にねだっていたが、私は本来あまり物をねだる子ではなかった。

そんな私には、もう一つお金の出所があった。私の祖母は何時もそれを予想していたかのように決まって同じ所からお金を出してくれた。

 

何時も茶の間の囲炉裏の前に座って、煙草盆に置かれた和紙で張り固めた箱から刻み煙草を煙管に詰め、開け放った障子戸の先の板の間を眺めながら、ぷかぷかとくゆらせていた。

そんな祖母に何時もおもむろに「おばあちゃん・・ぜん(銭)!」。

そう言うと祖母はその箱から十円玉一枚をそっと出してくれるのだ。

 

そのお金を持って、仲間と一緒に近くの駄菓子屋に行く。当時もお金の最小単位は一円だったが、一個五十銭の飴玉があった。まだ一円で飴玉が二個買えた時代だ。実際、五十銭玉は私が5歳の昭和二十八年に通用停止になった。

五円も出せば煎餅やビスケット等の焼き菓子のくずを新聞紙で逆円錐型に丸めた中にいっぱい入れてくれた。それに顔を突っ込む様に舌で舐め取って食べるのだ。たまに原型を偲ばせる大きな塊が入っている。十円玉が入っていることもあった。宝くじに当たったようで嬉しかった。

 

ある日、あの箱の中にいくら入っているのか不思議に思えてきた。祖母のいない間にその箱にそっと手を入れてみた。少ししっとりとした刻み煙草の下に十円玉が一枚だけ手に触れた・・・慌てて手を引っ込めた。