『家族を入れるハコ 家族を超えるハコ』

上野千鶴子と山本理顕の対談メインで「家族」を住宅という建築構造から考察。

 

・山本理顕が 父親がいなくて母親1人と子供2人という 近代家族のアウトサイダー だから当時の風潮から距離を置いて「よく見ることができた」

 

・ 今や住宅は擬態であるからこそ価値があるんじゃないか。擬態を演じないと家族というユニットが崩壊してしまう。

近代家族の理念が虚構でしかないということがわかっても それでも なぜ 家族というもの が崩壊しないで かろうじて残っているかと言うと 住宅 という 擬態があるから なんだと思う。

 

・ 上野千鶴子は機能不全家族という用語を使った齋藤学 にその用語を使わないでほしいと抗議した。

機能不全家族と言ったとたんどこかに機能完全家族があるという家族に対する理念的なイメージを再生産することになるから。

家族は昨日今日、機能不全になったわけではなくかつてだって機能していたとは言えない。

 

・家族の最大のネックは依存的なメンバーをどうするか。

メンバー全てが自立していれば本当は家族なんか必要ない。

社会学的定義では夫婦2人なら家族と呼ばない場合もある。

家族は再生産の制度だから子どもができなければ家族にならない。

 

・山本理顕によれば

住宅とは「空間化された家族規範」の別名であり、そのような空間に住んでいる人々の集団を逆に「家族」と定義する。

 

・山本理顕が修論で提示した家族の住居モデルが細胞のようで面白かった。

それと同時に 家の一部をサテライト化するなどの議論もあり

「居住空間はバラバラでも1つの家族」が成り立つのではないか思った。

鉄道沿線でチャリで行ける距離に、家族が別々に住んでる、みたいな。

 

家族は共同体のひとつである。

家族は子どもがいなければ家族とは定義しない場合もある。

子どもという存在は共同体としての家族として不可欠である。

ならば、共同体という言葉を子どもにも把握できる概念に言い換えるに相応しい類語は?

グループ?憩いの場?基地?砦?

 

いやいや、動詞で表した方がいいのだろう。名づけるだけで行動が伴わなければ意味はない。

 

構成メンバーのに誰かが苦しんでいる家族に積極的に外部から 介入するという行動をもっと 分かりやすく言い表せないか。

 

など考えながらゴールデンウィークは過ごしています。

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