★フレッシュ・ゴードン
アメコミの元祖
「フラッシュ・ゴードン」の
予算少なめ肌色多めの
エロパロ映画。
もちろんQUEENは主題歌担当してないが特殊メイクの神様リック・ベイカーがスタッフで参加してたり特撮のレベルが単なるポルノ映画ではないくらいレベルが高いおバカなカルト作品。

最初の説明が 結構真面目で アメリカがとても不況だった頃に生まれたヒーローがフラッシュゴーヤのや スーパーマンだったという 謙虚な始まりから このらんちき騒ぎが始まる

こっちの方が本家の フラッシュの映画より10年ぐらい前だと思う

★チェコの古代伝説
イジー・トルンカの作品。
チェコの人形劇 はナチスがドイツ語を公用語 かさせようとしていた頃に も人形劇はチェコの言語でしか表現できない部分があるということで ドイツ語を公用語として 人形劇 に用いることを 免除された。
つまり チェコの 人形劇 はナチスドイツに勝った。
確かに地の分がすごく少なくて 基本的にミュージカル 人形劇のような感じで セリフはとても少ない代わりに歌が多い。
普段から 俳優の肉体がセリフを話す前と後の「あり方 」みたいなことを考えているが もはや人形劇 になると肉体 さえ 存在せず 人形という物質 が どのようにあるかその物質を取り巻く 空間が どう 検証を起こしているか を 考える 良い きっかけになった


★オテサーネク
1970年代の映画だろうと思っていたら2001年だということにまず衝撃。
リトルショップオブホラーズ、死霊のはらわた、ブレインデッド、デッドリースポーンなど名だたるB級ホラーを想起させる場面があるがそんなのは表層をなぞった感想に過ぎない気がする。たぶんチェコの政治、歴史と童話をミックスさせている気がする。
これ、日本国内ではアメリとかのハリウッド以外のおしゃれ系映画として売り出していたようなジャケットのイメージ。
初めはお母さんだけの狂気が、元凶の父親に伝播し、近所の子どもにも…と広がっていく。
母から少女への集団幻覚、共有される狂気のモチーフは楳図かずおの洗礼のようでもある。
この監督の作品は食べ物がまずそう。
と同時に、生まれた命の無軌道性やそれを育てる煩わしさへの恐怖もある。
だが素っ裸にされ病室で立ったままにされている、陰毛と乳房むきだしの女性の妊娠した腹のシーンでは「命の誕生を否定できない監督自身」の精神性のようなものを感じた。
そも、食とは他の命を奪うこと。妊娠は他の命を生み出すこと。
食と妊娠は対概念であり、一番遠いものこそ根っこは同じと芸術的な直観は捉えがちだ。
しかし食に対する不快感を映像で示すことができるなら、女性の妊娠した腹も不快に映すことができたのにそれをせず、ただそこに在る妊娠した腹を映したのが、監督自身が命の誕生そのものは醜く、汚く描くことは、「違う」
と判断したからかもしれない。


★傷物語 鉄血篇
アララキ君が どんなに迷っていても キスショットを助けるなんていうことは 観客は想像しているわけなので
観客が想像しうる 主人公の逡巡の結果はできるだけ早く見せる方が良いのではないかと思う。

★傷物語 熱血篇
最後の大塚ボイスと、身体を破壊(頭をえぐって脳を直接いじる、内臓がぶちまけられても吸血鬼の血を与えれば治るなど)してもすぐに戻る場面ははっとさせられたが、それ以外は…。
この年になってこの作品を心から面白いと思えなくなった自分が大人になったのか、それともこれが面白がれる自分の守備範囲の限界なのか、わからない。


★傷物語 冷血篇
僕は人肉を食べる吸血鬼が嫌いだ、ということが分かった。
人肉を食べるのは狼人間の専売特許であるべきだ。
吸血鬼は血を吸うだけ、という美学が貫かれていないと
中世のスラブ伝説のゾンビに近しい吸血鬼と同じになってしまう。
笑わせたいのか怖がらせたいのかわからない。


★アイ・アム・レジェンド
広義の吸血鬼映画。
出てくるモンスターの表情がなんとなく悲しみを帯びた目をしていて 分かり合えるのかな と思っていたが それは 別エンディングでの話だった 前半のウィルスミス だけ が犬とニューヨークで過ごしている雰囲気の方が好き


★ダレン・シャン
ハーフヴァンパイアだの
ヴァンパニーズだの
ダンピールだの
ゴチャゴチャよぉ…💢
吸血鬼のオリジナル分類
しゃらくせぇなぁ‼️
中学生の頃、原作1巻目を楽しく読んだが、これは最初から最後まで誰にも感情移入できないまま終わる100分の映画。
CGがマスク2みたくスベってる。

★BLOOD LAST VAMPIRE
2000年のアニメでこんなに がっつり 3 d モデル 組み込んだり してることにまず驚いたし 音楽が相棒と同じ池頼広。
押井守れない アニメのいいところは男女ともに 顔がいいキャラクターというのは 存在せずむしろ悪くデフォルメされた顔のキャラクターが 主だっていること。
さらに色あせた色彩と人生に疲れたセリフによってすさんでるのに生々しい独自の雰囲気に。
主人公の吸血鬼ハンター少女は最後に自身が吸血鬼であることが示唆される。
しかしそこにダンピールとかバンパニースとかくだらない吸血鬼の分類 や固有名詞は存在しないのも良い


★怪怪怪怪物!
この現実世界において 僕もだけど 世界中の人間がみんな死んじゃえばいいのにって思うっている人が一定数いる。
そういう人間のために ゴアとかスプラッター という映画のジャンルは存在していると思う。
そういう人間のために 世界中の人間がみんな 意味もなく 人間の命の価値もなく 物語もなく人間ではないものによって全員がむごたらしく死んでいくような映画はこの世に必要だ
世界が滅んでしまえばいいのにと思う人間が 爽やかな顔をして 映画館を出たり スマホを閉じたり できるような映像作品は 逆説的に言えば この世を平和にしている。
吸血鬼を超えた吸血鬼が出てくる映画だと思う そもそも 映画 本編の中でこいつは吸血鬼ではないと明言されているしやっていることは食人鬼(じきにんき)に近い
姉の方の怪物が女性の声で泣き叫んでいると思ったら急に声が野太く 低いものになるところが とてもいい。


★リトル・ヴァンパイア
性的なものに結び付かない吸血鬼映画。
主人公のヴァンパイアがメチャカッコいい子供のビジュアル。
途中で喧嘩とかしないでほしいな、と思っていたら特にそんなことはなく安心。
やはり仲間割れは必然でなければしないほうがいい。
もう一人の主人公の少年が何を望んだのか。
おそらくそれは吸血鬼が幸せな人間の家族として生まれ変われますように、というものだったのだろうけど、含みを持たせた終わりかたも悪くない。


★吸血鬼ハンターD
リー伯爵が全然クリストファー・リーっぽくないオッサン。
あと、リーとDで呼び名がかぶる。
でも塩沢兼人さんの声はいい。。。

★エルヴァイラ
吸血鬼じゃなくてガッツリゴスな魔女の見た目だけど別に特殊能力は無く、代わりに面白くて自我を貫くカッコよさでいろいろ乗り切っちゃうお姉さんの話。アダムスファミリー、ビートルジュース、90年代の実写版キャスパーあたりが好きなら楽しめる。エルヴァイラ自体が女性の吸血鬼「ヴァンパイラ」のオマージュ。ラジー賞は、その映画の製作状況とか、俳優の怠惰な姿勢に対して批判の意味を込めて授与するべきであって、こういうただただ面白い演技をするもそれがその人にしかできないパフォーマンスをおこなう主演の俳優に対して送るものではないと思う。


★ドラキュラ都へ行く
ドラキュラのパロディコメディ。
ヤング・フランケンシュタインの5年後1979年に作られているが、勝てるわけがない。
70年代から80年代前半くらいまでの狼男アメリカンなどのクラシカルモンスターパロディの波はなぜ生まれたのだろう。

★吸血鬼ブラキュラ
ブラックスプロイテーション(Blaxploitation) とは、1970年代前半にアメリカで生まれた映画のジャンル。主に、アフリカ系アメリカ人を客層として想定したエクスプロイテーション映画。
エクスプロイテーション映画とは
興行成績をあげるため、センセーショナルな時事問題やタブーとされる題材をあえて取り上げている低俗な作品群を指す
チケットの売れ行きを伸ばすねらいでテーマの話題性を「利用する exploit」ためにこの呼び名がある
吸血鬼ブラキュラもブラックスプロイテーション映画のひとつ。
でも 極端につまらないというわけではなくて 吸血鬼 自身の紳士的なひとがらの良さ
(彼自身はあまり悪いことはしていない)とか
王道の(悪く言えば全て予想できる展開)ストーリー展開で飽きさせない。
もしかしたら当時の人々のなかにも
「俺&私たちと同じ俳優がドラキュラやってる!」と嬉しく思ったひともいるんじゃないかな。
そう思うと僕が今やってることも
「こんなチビの俳優でもドラキュラ演じられるんだ」と思ってくれるお客さんがいるかもしれない。
そもそも吸血鬼とはポリドリの小説「吸血鬼ラスヴァン」のように「貴族概念」と結び付く前は、特にスラブ地方においては生ける屍でありゾンビに近しい存在だった。
だからこの映画のように吸血鬼が検死施設で暴れたりするのは一周回って原点に戻っているのだ。
最初のシーケンスで奴隷制に反対しているブラキュラ(マヌワルデ王子)の姿勢が何かしらの伏線になっていたらよかったのになぁ。
最後自分の意思で太陽に焼かれて死ぬことが奴隷制への反対のメタファーなのだろうか。


★プラダを着た悪魔
脚本も無駄がなくドラマツルギーの勉強になる。
昼の仕事と闇の仕事を綱渡り&分刻みスケジュールのダブキャリ生活で
体調も崩さず永久機関のようにしたたかにやりまくる自分と重なる部分がある。僕ができることを、僕よりも恵まれている人達が出来ないとこの映画のように「甘ったれるな」と言いたくなる。
そんな気持ちを代弁してくれる場面が印象的だった。
メリル・ストリープの声の工夫がいい。低くて動かない声。
最後はメリルにしか感情移入できなくなってつらい
でもアンハサウェイが元鞘に戻らず新しい仕事で自分一人で生きる結末は良かった。
Tiny man, Huge EGO
シュウ・ウエムラ


★処女の生き血
アンディー・ウォーホル監修。
吸血鬼に恨みがあるのかってくらい、弱くて無様な没落貴族のドラキュラを描く。
コウモリに変身できるわけでもないし ものすごい力を持っているわけでもない。
むしろ 処女の血を飲まなければ、その血を吐き出してしまうので普通の人間よりも弱いと思う。
真っ白いバスタブに真っ赤な血を吐いたりする場面では処女性?を汚して蹂躙したい欲望のメタファーのようにも感じたし、狙っていたターゲットが目の前で処女でなくなり、床に垂れた破瓜の血をひとりで舐める場面とかも、アンディー・ウォーホル自身のコンプレックスのようなものも感じた。
婚前交渉の有無をドラキュラは重視し、貴族の娘達はそれを気にするのは時代遅れだと言いつつも、社会主義に傾倒する農民?らしき青年は貴族の娘達とセックスしながら娘達を守っている身分階級は時代遅れだと言う。
その構造が面白かった。
ドラキュラの従僕の演技はしっかりとレンフィールド的な偏執さがあった。
まばたきをしないのが人間ではない演技に繋がるのではなく、ずっと眼をかっぴらいいるのに眉毛が動く感じが異様さを生み出す。
自分のことだが、眼の芝居はうまいが口周りの芝居もなんか工夫したいなぁと思うようになった。
ドラキュラ役はウド・キア。多分諸々で観ている俳優のはず、、、。

★ドラゴンVS7人の吸血鬼
The Legend of the 7 Golden Vampires
ハマーフィルムが当時大ブームだったカンフー映画に吸血鬼を掛け合わせた怪作。
後の『霊幻道士』等香港ホラーの始祖とされるクンフィアー(功夫×恐怖)映画。
やっすいドラクエを見ている感じだが、ピーター・カッシングがヴァン・ヘルシング役で登場するだけで
はっきり「駄作じゃねえか!」とは言えない感じなる。

ウィキに書いてあった文言。
元々はヘルシングがカンフー兄弟と共に中国の吸血鬼と闘う内容で企画され、ドラキュラの登場予定はなかった。しかし香港サイドの要望で後からドラキュラを絡ませたため、ストーリーに大きな矛盾が生じてしまった。ヘルシングはドラキュラを研究し闘ったからこそ、吸血鬼の権威として高名な筈だが、そのドラキュラが100年前の19世紀初頭に中国に渡ってしまっていたのでは、ヘルシングがドラキュラと闘って名を上げる機会もなく、そもそも19世紀欧州にドラキュラの脅威など存在しなかった事になってしまうのである。


★ブラック・サバス/恐怖!三つの顔

ボリス・カーロフがストーリーテラーと吸血鬼を演じ、マリオ・バーヴァが監督をした映画。

マリオ バーバの 照明による映像美は血ぬられた墓標の時と同じくらいインパクトがあった。緑色の光で点滅する部屋とか、一歩間違えればギャグなのに、しっかり怖い。

水滴の音と 映像が 絶対に合ってない場面があるのだが 

(例:傘からしたたる水滴はあんなに大きな音はしないはず)

そこもギャグにならずに 現実 ではない感じが

奇怪な照明のカラーセンスとともに一層増して 次の瞬間 何が起こるかわからないので とても怖くなった。

モーパッサンが「電話」の原作

トルストイが「ヴルダラク」(これは予習済)

チェーホフが「一滴の滴」

と文豪達の短編を天才職人映画監督が色彩豊かなホラーに仕立てた楽しい作品。

ベラ・ルゴシと比較されがちなボリス・カーロフはフランケンシュタインを演じてからホラー映画の大スターだったというのは本で読んだが、確かにこのイキイキしたお爺さん俳優は陽の者ってかんじ。

ホラー界のショーン・コネリーだな。