★サイレントヒル
生き物は、理屈抜きで、どんなかたちになっててもいいし、どんなふうなことをしてもいい。
生命というのは、気持ち悪くてしかるべき。
狂信ってほんとに曲者。
狂信を破壊する、というのは、やはりフィクションでしかなしえないことで、
ヤバイばばあが内臓撒き散らして死んでいくのは、その役割を存分に果たしたと言える。
あとは、Jホラー寄りのおわりかた。
当然と言えば当然か…
★ダンボ
魔法の羽根なんてうそだ、君はほんとは飛べるんだ
そんな言葉を聞いたら、泣く
疎外と偏見から逃れるには、というお話だった。
★ムーラン
これも泣く…プリンセスのなかでムーランが一番好き。
花木蘭とかいて、ファムーランとよむ
ここら辺の時代のディズニーって黒歴史みたいになってるけど、これは文句なしの傑作。
名誉とは、恥とは、男とは、女とは、なんなんだろう、っていう思索の旅に出て、最後には自分ってこうだわ、にいきつく。
自分にとって社会とはなんだ、ということにいきつく。ハムレットみたいだ。
哲学的要素が、ディズニーには必ずあるから大好きなんだよね。
★ポカホンタス
ネイティブアメリカンとイギリス人の話だから、当然言語が違うんです。ところが、森の精霊が
「心の声で聞いてごらん」という声が聞こえてきて、煌めく風が吹くと、言葉が通じるんです。
ネイティブアメリカンの名言を読んだことがある。昔フランスの銀行家がネイティブアメリカンの土地を侵略あるいは移住しようとしたときに
「君たちが想像できないような素晴らしい世界がフランスにはあるのだ」と語った。
ネイティブアメリカンは
「そんなにフランスという場所が素晴らしいのなら、何であなた方は家族や友人まで捨ててここへ来たのだ?」と答えたという。そんな話を思い出した。
もっと歴史は血なまぐさかったろう。
だからこそこの映画は、人間は死ぬが血は一滴もでない。
ありもしなかった出来事を、さも、まるであったかもしれないように描くから、リアリティがあって、おお、背筋がぞくぞくする。
★悪いやつほどよく眠る
本当によく眠っていたのは誰だ、本当の悪人は誰だ。
最後の最後の台詞で、そんなことがふと脳裏をよぎった。
最後のシークエンス、西さんたちは本当は死んでいないんじゃないかと思った。なんでだろ。唐突すぎたからかな。
それとも死体が出てこない限り本当に死んだとは思わない、というくらい、僕の性格がひんまがってるからだろうか。
追い詰められていけばいくほど、顔が浅黒くなるのがよい。
まさにハムレットのようだった。
悲劇のカタルシスというのは、観客にとっての悲しい現実が、ちっぽけなものに思えるからこそカタルシスになるのではないか。だからとて、ひとつの国が滅びるような悲劇では、観客は想像できない、共感できない悲しみであるからカタルシスは起きない。観客の悲しみの、2倍以上百倍未満の悲しみくらいが、カタルシスを与えるのにちょうどよいのではなかろうか。
あと、70年くらいたっても車というモノの基本構造が変化してないことに疑問を持っている。
★タクシードライバー
若い頃のロバートデニーロって、星野源みたい。どこにでもいる人みたいな。
安心してみれるけど、退屈しない。
1970年代のアメリカの、いきばのないフラストレーション、暴力心を、どうにかこうにか昇華させた傑作。
フィクションの流れ者って、人を殺しても許されるんだよ。
椿三十郎とか、007とかもそうだけど。
仕事としての定位置はあるけど、人生に安住の地がないタクシードライバーもまさに流れ者であって、三人くらい殺したとて、最終的に女の子の親に感謝されて新聞記事までなる始末。
でもそれは、少なくとも僕は納得できる終わり方だった。
★ランボー
バイオショックのレビューを、個人的にはかなり悪い意味でひねくれたふうにとらえたひとが
メリケンは細かい仕事ができない、と言っておったが
僕はアメリカの全盛期の映画は
美しく魅せられる省略、そしてワクワクする論理の飛躍ができる、ということの裏返しなのだろうと思う。
ランボーがくる、意地悪な警官に意地悪される、ベトナム戦争のトラウマが甦る、自分等で戦争を起こす、というように、展開が早いというのはそういうことだし。
あと、豚を見つけて槍を構える、その次の瞬間、豚の肉を裂いたものを肩にかついで調理しようとしてる、みたいな。
コマンドーもそうだよね、
「何が始まるんです」
「第三次大戦だ」
粋な論理の飛躍。
Holy Fuckが聞ける貴重な映画 。
ブラック企業も戦争と同じで決してなくならない、そんな気がする。
だって、人が傷つく心を持っているから。
傷つく心も体もなければ、ブラック企業も戦争も、存在しない。
傷ついた心の話、傷ついた脳味噌の話。
何年たってもトラウマはトラウマなのに、「何十年も前の話なのに」「自分で決めてしたことだろうが」
と非難され、理解されずに孤独に歩いていくしかない。
★霊幻道士
キョンシーの動きに興味が出てきて観た映画。半分嘘、ほんとはサンドウィッチマンのコントにキョンシーの映画の話が出てきたから、気になってみた。
あんまりキョンシーでてこない。どっちかていうと女の幽霊のほうの印象が強い。
なんであんなエロいんだ…
エロい、って誉め言葉だと思う。
でも、最後のばめんがよくわからなかった(笑)
バカみたいな映画だけど、スタントがすごすぎる。普通に全員カンフーマスターとして生きていけばよかったのに…とさえおもう。
キョンシー独特の動きは、死後硬直から影響を受けてるらしい。納得。
優しいホラーコメディ。こーゆーものは作ってみたい気がする。子供も見て面白いと思うから。
★キョンシー(2014)
もうビックリするくらいつまらない。
なんでこうまでつまらないんだ、キャラだちしてない段階で悲劇がどんどん起こっても、感情移入しづらいというか。
はたまた、ネタバレを最初に見てしまったからなのか。
その、三十年くらい前の路線からガラッと、笑い無しのガチホラーでいこうとしたのが、
2014年度版のキョンシーだった。
ところがこれがビックリするほどつまらない。
なんか、なにかに遠慮してるようなくらい、怖くないし、内容も深くない。ホラー独特の引き伸ばすまのびが長過ぎたのかも。
★ボヘミアンラプソディ
絶頂に上り詰めたように思える人間でも、どうしても満たされない孤独や不安がある。いつまた甦るかわからない不安に絶えず耐えなければならない。
そこで、そのような苦難に対して、いくらでも相手になってやる、と思えるためには、まずは、本当の意味で自分を大切にすることが不可欠なのだろう。
そのあとに、パートナーや友達がいてくれたら、こんなに心強いことはないよね。
優しい人間が、自暴自棄にならずにどーやったら自分に対して優しさを向けられるか。そしてどのように強くなれるか。
そーゆーふーなテーマを思い起こしたと同時に
ふつーにクイーンが大好きなので最後らへんは泣く。
映画などのエンターテイメントの効用は、たった2時間の間に、自分も主人公と同じような艱難辛苦を乗り越えて、本当の喜びを味わえたと思わせることにある。
まるで自分が、
空港で働く一介の若者から、最後には何千万人が埋め尽くす超満員のスタジアムで、
"We are the champions"
を堂々と絶唱する人生を送ったかのような、そんな感覚を味わせる。
疑似空間ならぬ、疑似人生を造り出すエンターテイメントの王道であると感じた。
エンターテイメントという言葉を軽々しく口にする人々に、辟易している自分がいる。だいたい、うわすべり。
良質なエンターテイメントを創るのには、自分の肉か時間か魂をオモックソ削ったら、楽しい。
本当のものを作るなら、
泥臭く、みじめに、孤独に、悩み苦しんで、創るしかないと思う。
自分の中の「これだ…」に出会うまで。
★グレムリン
ただただかわいくて、悶絶する。
それだけ。それだけでいいんや。
ただ、確実に数十人は死んでるよね…?
★八甲田山
高倉健「八甲田山」鑑賞。
最初、ノーラン監督作品のような匂いを感じる。無機質感というか。
若くて優秀な人間に指揮権を握らせても、結局年を取った上層部が実権を握り、骨抜きにされてしまう。
組織におけるそのようなジレンマが如実に表されていた。
春夏秋冬…生と死の繰り返し、地獄と平穏の螺旋のなかに、私たちは生きているのだ。それが摂理なのだ。
その点で言えば、仙台の海を思い起こさざるを得ない。
前の仕事をやめようと決めた2017年の3月頃、仙台の海に行ったことがある。
とても晴れていて、穏やかだった。
六年前に何万人の命を飲み込んで、ヘドロを吐き出し、瓦礫を吐き出し、海底の底の底を見せつけるような恐ろしい迫ってくる濁流の壁だったとはおもえなかった。
自然は善でも悪でもない。
宇宙の暗闇が、闇であるからとて悪ではないように。
そう理屈で自分に言い聞かせても
どうしてあのときと、こんなに違うのだ、と、海に、自然にたいして思わざるを得ない。
春夏秋と恵みと安らぎを与えてくれたのに、なぜ、人の肉体をここまで青白く、黒くさせ殺すのか
春夏の優しい八甲田山と、部隊が歩かざるを得ない虚無の吹雪の山岳としての八甲田山という対比が、
自然にたいして、なぜなんだ、という気持ちを膨らまさざるを得なくなる。
人間中心に見てみれば、必ずしも春夏秋冬、とはいかないのである。
冬の次に、春が来ないまま死んでいくこともあるのだ。
または冬の次に、もっと苦しく冷たい冬が来ることもあるのだろう。
腰の高さまで積もった雪を払いのけて、凍るように、冷たい失禁を、くずおれた仲間の死骸の上に、血痕のように残しながら、命綱もなく、血まみれの軍手で崖を上るような。
ここからは、「癖(ヘキ)」の部分であるが、
「案内殿に、頭(かしら)を、右へ」
の場面にしびれた。
画面に「かっこいい…」って言っちゃったよ。夜中なのに。
あと、これは神話の基本中の基本ルールなのだが
「動物と最後まで行動をともにする主人公は必ず勝利する」
というルールが世界中の神話にある。(ユングあたりを参照すれば容易にわかる)
動物と人間の違いはなんぞやといわれたら(厳密には人間も動物カテゴリに入るが)言語使用の有無であろう。
言語を使わず、本能で動くようなものと行動をともにした人間は、勝利するのが神話の掟なのだ。
言語を使わず本能に従い動く、神話における動物ポジションの役が今回の八甲田山で言うところの、道案内をする女の子だったろう。
彼女は案内中にはひとっことも喋らない。
喋らないけど高倉健扮する軍人はその聖性を信用する。
その女の子は無言で崖もすいすい登り、雪もドンドンかきわけてしまう。
そうすると、今までの吹雪が嘘のように晴れて、
道案内が終わったとたんに「ここまでくれば大丈夫でしょ」みたいなことを言う。
喋らないし本能にしたがって動くものとともに行動して、勝利をもたらす、まさに神話のエッセンスをなぞるような形式になっている。
天気、ってすごいよな。
ジョジョでも、承太郎さえ勝てなかったプッチを倒したのは結局ウェザーリポートの能力だしなあ。
眼光だけでドラマが成り立つのではないかと思うくらい、瞳のちからが澄み冴えていた。
天は我々を見放した、というけれど
自然への畏敬を捨て、天を見放したのは、他でもない「我々」ではないのか
★里見八犬伝
里見八犬伝(薬師丸ひろ子のやつ)を観た。
顔面を白く塗った夏木マリが薬師丸ひろ子のお風呂を覗きに来る映画。
夏木マリがすげー赤いバスロマンのお風呂に入って若返る映画。
結論としては、当時の夏木マリがもしもお風呂のCMをやっていたら、というテーマの映画なんだろう。
#リテラシー皆無
前半、真田広之の主人公があまりにもガキ過ぎて全く感情移入できないまま、いつのまにかラスボス戦になってしまっていた。
ラストバトル、爆発したり首チョンパあったりのドンパチは、本来だったら僕が大好きなものの連続なはずなのに、何故か面白いとは思えなかった。
八犬士たちが、あまりバックグラウンドもなく途中からポンポン
「俺が八犬士だよ」
「俺も」
「俺も俺も」
「どーぞどーぞ」みたいな感じで登場するもんだから、死んだときにも「お、おう…」としか思えない。
真田広之の部分少し削って、他の八犬士の導入を強化したらよかったのに。
スターウォーズやインディジョーンズの影響をかなり受けているのは間違いない。
でっかい岩に追いかけられたりするのはレイダースを意識してるだろうし。
正義の勇者真田広之と、呪いの魔女夏木マリが実は親子でした、ってのはまんま"I am your father."のくだりだし。
ただ、この作品のオリジナリティとして語りたいのは、
ルークの場合はダース・ベイダーから衝撃の真実を語られても基本は正義であることは変わらない。
でも、真田広之のほうは、
善にも悪にもなってしまう真田広之が、実の母親が夏木マリであることを知りダークサイドに落ちるけど、自我を取り戻したときに善であることを自分で受け入れる。
たとえ自分の親やルーツが壮絶に呪われた血筋であっても、善を自分で選択できる、みたいなテーマも感じた。たぶん作り手は考えてないんだろーけど。
あとベッドシーンが長い。
「仁」「義」「礼」とか書かれた宝玉が埋め込まれた石像のすぐそばでそーゆーことをやるって煩悩むき出しじゃねーかと爆笑した。
ほんっとに長いので、その尺を削って登場人物の掘り下げをしてほしかった。
ただ、やっぱ夏木マリが楽しそう。
僕も今後、ヤバい魔女の役を必ずやろうと思います。

★ハムレット
解釈はひとつではない
様々に演じられ演じるたびに発見がある
傑作である証拠だろう
それが傑作である由縁のひとつ。
シェイクスピア作品をイギリス人だけが演じるのはおかしな話だ、と出演者が言ってるのは、いいね
★ピエロがお前を嘲笑う
見た瞬間、ファイトクラブ的なアレだなと思った。それに加えて、ファイトクラブのポスター出てきたときは笑った。確信犯じゃん。ユージュアルサスペクツのハッキング版のようなかんじだな。意外とあっさり幕切れになった。
★バグダッドカフェ
付き合いで見たようなものなのだが、とてもよかった。
みんながいうとおり、最初太ったおばさんの主人公が、まるで体が心の大きさを表しているかのように、優しく、美しく見えてくるからすごい。
一瞬、マリオンコティヤールみたいになるからね。
黒人のお母さんも最初はいらいらしっぱなしで干からびてるのに、最後なんて滅茶苦茶歌うまいしきれいだし。
ショーやマジック、演目というものが、どれだけ人の心を喜ばせるか、ほっこりさせるか。そういうポテンシャルの物語でもあったのではないかな。
そのパフォーマーが、ちいさかったり、ふとってたりすると、なおさらほっこりさせるそのかんじは、増すんだよね。
アイデンティティ。自分の持ち味を生かせ、ということ。
太っているから、小さいからと嘆いてても仕方がないので、なんとか模索した方がよい、自分の活かし方を。
だから僕も適切なやり方で、生かせるような場を恒常的に作れればなあと考えているところ。
★燃えよドラゴン
普通に面白い…死亡遊戯みたいなもんかと思ったけど、そうじゃなかった。
それにしても、ブルース・リーのような非現実で、しかも、アイドルのようなかわいい、美しいではない、
唐十郎のいうような「特権的肉体」を持つ人物を、喜んで味わえる、味わう楽しみ方を知っている観客というのは
現代日本にどれくらいいるのだろうか。
何を考えてるかわからない特異感を持つ人間を、味わえる人が少なすぎる。
一撃で自分よりもデカい奴をKOするのが狂おしいほどかっこいいのだが、その直前に妹を死に追いやったというドラマが
ブルースリーの中で起きていることが観客に伝わる。回想から生じる怒りのドラマが、すでに打撃となっているから、一撃必殺であっても僕は納得できる。
★おくりびと 
山形県人特有の、公僕至上主義が生々しくてよかった。
県庁に勤めていた身近な人間が、自ら命を絶ったにもかかわらず、いまだに私に県庁や市役所を受けろ、という血縁者が実際にいるほど、この前時代的で反知性的な妄執は根深い
はっきりいって、山形、山形県人は多様性とは無縁の土地というバックグラウンドを持っているので
ミームとしてそのような「伝染病」的な価値観を絶対的に正しいと妄信している。
広末が「汚らわしい」と言った時、何言ってんだこいつ、と思ったが、そういうもやもやが見ているうちに自然と消えていったのが、非常に不思議だった。
大変良かった。故人を見送る、偲ぶことに関しての感動とかではなくて、仕事をまっとうする人の姿に泣いた。
エンドクレジットに山形市の名前がなかった。あの自治体らしい無様さである。
まず、役者たちの顔がよく動く。それだけで十分素晴らしい。
当然ながら、邦画としてというか、映画として評価された理由がよくわかる傑作である。
★女囚701号さそり
最高すぎる。寺山修司もの、唐十郎もの、暗黒舞踏ものみたいなのって今も現存してるけど、こういう、ジャンル分類不可能なもの、
おそらく人間の恨みや冷酷さ、愚直さからくるやさしさを体現するような世界観ってのは、やりたい。
顔のドアップが映る作品が昨今では減ってきた。今こそ復権の時ではなかろうか。
ツイッターとかでは、性を中心とした差別に関する議論がピーチくぱーちくこざかしいけれども
40年前の日本で、こんな作品があったことを、誰が知っているだろうか。上滑りの議論にしか思えなくて辟易する。
片目をつぶされ、舌を噛み切られ、「死にたくない死にたくない」と叫びながら、裸のまま焼け死んでゆく。
男も女もだ。
まず、差別意識は絶対なくならないからね。性差がなくなったら今度は体格差の問題が生じるに決まってる。
体格差別の被差別者の中にはいうまでもなく僕も含まれているわけで。時代が時代なら僕は見世物小屋にいてもおかしくはない。
金持ちの家で育った意識高い系(笑)のやつらが差別をなくしたいなら、全員足をちょん切って俺と同じ背丈になってみろ、といってやりたい。
人気者になるには金と、顔と、身長。このうち二つはどうとでもなります。
金は仕事すりゃいい。顔は整形すりゃいい。ところが身長は伸ばす術がない、現代の最先端医学でも不可能なことであるから、もう無理なんですね。
小さな身体と言うのは、男の低身長は去勢されたも同然の、全ての面からマイナスの特徴です。
このように私は「もう無理」な体なんです。でも、いずれみんな小さくなって死んでいく。
みんな死ぬんだよ、ちいさくなって。ざまあみろ。と言うような感情も生まれてくる稀有な映画。
それはさておき、梶芽衣子。クエンティン・タランティーノがキルビルで、ルーシーリューを使った意味が分かるねえ。
だって、日本の女優にいないんだもん。恨みを目で表せる奴が。BPOに引っかかるから。
とにかく、片目が隠れる帽子がかっこよすぎる、そして何より、黒革のグローブですよ。なんだこれは!!!!
今度のツイッターアイコンは、片目が隠れる感じにするわ。
あと、映画の中でバリケードが出てくると大抵の場合
「あー、この映画の監督か、脚本家はまだ学生運動ひきずってんだなあ」
と思うんだけど、この映画ではそうではない。狂気と野生のぶつかり合いだ。
猛獣を殺そうとする監視員、もしくは、マフィア同士の抗争のようで、大変良い。
籠城する側が「とにかく飯だ」と要求するのが良い。あさま山荘事件とかとは全然違うから。
マッドマックスとショーシャンクの空にとマタンゴを一緒くたに煮込んで、観客の顔面にぶっかけた最高の作品。
たぶん、次作も見るけど、つかれちゃった。
性差別とフィクションの問題に話は変わるけれども、結論から言って、僕が思うに
「フィクションにおいて悪役がむごたらしい死に方」をしなくなったことに問題がある。
キングスマンのサミュエル・L・ジャクソンみたいにゲロ吐きながら死んだり、
頭が破裂したり、ソルベにされたり…
我々の前前世代が、寺で地獄絵図を見せられて「悪いことしたらこうなるよ」と恐怖を植え付けられ、それが
(実証は難しいかもしれないが)ある一定の抑止力になっていたのと同じように、
フィクションにおいて、差別をしたり、それ以外の悪事を働く奴は、「レイダース」のクライマックスのナチスのように
グチャグチャドロドロに溶けていってしまってもいいじゃないか。
「この世の悪が何故悪いのか」を徹底的に説明してから「その悪のむごたらしい帰結」をまざまざとみせつけて「あげよう」ではないかとさえ思う。
だから僕は悪役が悲惨な死を遂げる(この映画においては「死にたくない死にたくない」と叫びながら、裸のまま焼け死んでゆく悪役のように)
作品がどんどん増えて、「悪をなしたことへの恐怖」を植え付ける作品こそ「有益」とは言えまいかと思う。
この路線で、肉親殺しの映画ってないかなあ。
眼をひん剥いたり、ニヤア…と笑ったりするような、そういう非日常の表情をどんどんみたいし、やりたいな。

★スキャナーズ
バーホーベンはロボコップの監督。この作品はクローネンバーグ。でも、企業がひとの命よりも会社の信用を重視する感じはロボコップとこの映画に共通してる。
変顔対決だな。俺のほうがうまいぞ。
つまんなかった。
けど、主役級の俳優たちの顔が血まみれのグチャドロになるのはよかった。
また、エンドクレジットがフォールアウトのパソコンのようなプログラム画面で流れていくのはすごかった。
★ジェイコブズ・ラダー
ベトナム戦争だけではなく、ブラック企業で働いてたり、虐待を受けたりしたそのトラウマもまた、思考を分散させてしまう要因のひとつだと思う。
そういう現代的なトラウマの要因が、極限まで恐ろしい幻覚や幻想を見せるという作品を作った方がいいのかもしれない。
どんどん脳がしぼんで膿が涌いてでてくるような、そんなイメージ。
我々は、走馬灯を見せられていたのだ。
そうか、走馬灯とは主観が体験したことの追体験だから、結局体験したことしか走馬灯のなかではおきない。だから未来的なイメージにはならない。たとえ30年くらい後のことであっても走馬灯を見ているときの自分の思い出を引っ張り出すしかない。
例えば現在のAがあって、過去Bの話があったとする。
そのあと、実は、現在Aは夢で過去Bのほうが現在だったというプロットになると、もはや何を信じてよいかわからず、
この映画のように、大過去(ABよりも前のこと)が最後に起きてもなんら不思議ではない。
普通の人間なら数時間くらいで消えるような嫌な感情も、僕はトラウマ慣れしてしまってるから、何時間も、何日も何年もかからないと消化できない。ひとよりもそれが多すぎる

 

★レッド・オクトーバーを追え!
男しか出てこない、最後の十数分が熱かった。
CIAだったアナリストはジョントラボルタかな、と思っってたけど、ちがったみたい。


★アダムスファミリー2
本当に時間を忘れて観ることができる。
価値観が通常とは真逆の人々にたいして、一見普通の人々が度を越したら、アダムスファミリーと同じものになる。100と-100がイコールになるようなものだ。

★グリーンブック
グリーンブックを見た。怖いもの、わけのわからないものからは、人は遠ざかる。命の時間は有限なのに。ほんとなら、既視感のあるものこそ、棄却していくべきなのに。そーゆーふーな根元的な恐怖が黒人差別につながる原因のひとつだったのではないか。その気持ちは男のほうが強いだろう。心理的な去勢、パートナーの裏切り、などの恐怖を抱かざるを得ないから。
ところが、教養や品格、そしてユーモアは、誰しも機会と意思があればいくらでも手にいれることができる。ささいなきっかけだけで。それらの前には、いかなるものも無化され、想像以上の結果が起きる。一方は品格と教養一方はユーモア。
ドン"ドクター"シャーリーのピアノの演奏会で、演奏が終わった直後の笑顔が、南部への旅が深く深くなるにつれて消えていくのが、印象的だった。でもその笑顔も最後の小さなバーでの演奏で復活する。
つか、ヴィゴ・モーテンセンどっかで聞いたなと思ったらロードオブザリングのアラゴルンだったwwwwww ケンタッキーの正しい食い方を教えてくれる映画。何か、舞台用の脚本書きたいなあと常々思ってるが、実話に基づくものがいいな。劇が終わって暗転した直後に、実話に基づくことがわかるような。
あーあと、隣のおばさんと笑うタイミングとグッと来るタイミングが同じだったのが不思議だったなあ。僕が泣きそうなときに、そのおばさんが鼻でそうになってて、あー泣いてるんだなあ、と思ったよ



★ドクターストレンジ
映像が美しかった。マーベル映画って、個人的には途中でだれるんだけど、結構あっという間に見れたのはなぜだろう?
よくわからない…
これも、2月の舞台のために観れたらよかったなあ、と思う。
過去の舞台とか作品に使えたなあと思うものをあとから観ることが多い。これは結果論的な思想なんだろうか。この気持ちはどーやっていいかんじに昇華すればよいんだ?



★アリータ バトルエンジェル
「?」っておもうところもあったけど、原作読みたくなった。

小さい奴がデカブツぶっ倒すって最高だよな。
物理法則?知るかそんなもん‼‼

続編あるのかな?

★シティーハンター
ほんとに、古い言い方だけど
かっこよすぎてしびれた。
キャッツアイの3人のうち、ふたりの声優は、アンパンマン。戸田恵子すごいよ。
あと、GET WILD が流れるのは知ってたけど、「愛よ消えないで」が流れたときはちょっと泣けた…
ほんっとに、エンディングの曲が流れ終わるまで誰一人席をたたなかった。それも込みで感動した‼‼‼‼‼
てか、いい映画をみると元気になるのだから、家に帰ってこたつでなにもしないでいるより、一日2、3本映画見たほうがいいんじゃね⁉⁉⁉家に帰らないほうがいいんじゃね⁉
でもそうするとお金がね…
ほんとは、殺し屋の話だから幸せになれるはずないんだよ。
でも、今回の話では、彼は一人も、悪人でさえも殺してない。銃で撃ったけど致命傷ではない。
殺したのは悪役が悪役を殺したその一人だけだったように思う。
そういうところにドラマの作り方のこだわりも感じるし、すごくよかった。
彼らなら負けないよな‼そう思わせてくれる。
殺し屋なのになんで明るいの?
明るいから明るいんだよ!
それでいいのかもしれない。

作画が気になったけど、途中からもうどうでもよくなって熱中した。
神谷ボイスは人を元気にさせる。



★何者
自分が企業の理念と合致するか…そんなこと考えるんだ…俺は考えなかった…

そーか。
大学生は大学生の年齢±3歳くらいの年齢幅の世界で生活を完結できるんだ。よくも悪くも。
そんでいきなり、就活になると何十歳も年上の相手に、話をしなきゃあならない。
そりゃあ苦痛だし、相手に伝わらないわな。
自分の言葉がそのまんまの意味で相手に伝わるという、大学生というテリトリーの中だけで生きていれば、そうなっちゃうのは仕方ない。
僕の人生は、僕の10才も15歳も年が離れた子供たちとのコミュニケーションで、確実に変わった。
心理的かたさ?が(少し)弱まった。
そして彼らは、
言語は通じないが
コミュニケーション能力が極めて高いのだ。駿足だ。
だからこちらは言葉をかける前に笑い、体をねじり、ひねる。
「泣くから悲しいのだ」という、何十年も前に学説として否定された心身の関係に関する論考で、自分が相手に見せたい感情を、身体を使ってブーストする。
そのあとに言葉が出てくる。
その言葉は、「読み聞かせ」だ。
面接も結局は相手へ自分の心を読み聞かせることなんじゃないか

対人のコミュニケーションにおいて、人間は光速と音速のスピードの差を本当は理解してる。
光速とは、物が見えるということだ。
コミュニケーションの上では、相手のからだが、顔が、見えるということだ。
当然彼らから発せられる声よりも先に届く。声は音速だもの。

中田ヤスタカの音楽いいっすね
佐藤健とすだくんがいちゃいちゃするのもよかった。山田孝之はどうみても大学生に見えないけど、いるよね‼大学生に見えない大学生‼


大学入学、スーツ黒一色
就職=個性を捨てる、というメッセージの視覚的固定化、慣行に無批判に従う心性。
服装の統制は言論や思考の統制と隣り合わせ。紛れているうちは減点されない、摘まれるかもしれない個性を出すより減点されない安心感を取るようになる。
(新聞記事の要約)

そんなに深読みできる頭がちょっと羨ましいwww

フツーに、大学での儀礼にたいしてなーんも気持ちを持ってないだけじゃね?
「かったりーな、早く終わってモンハンやりてー」みたいな。
僕もそうだった。
入学式卒業式とセレモニー自体はなんも感動なかったし(笑)



★グーニーズ
すごい、すごい。
まさにスピルバーグのアメリカ映画の黄金期や…
とにかく素晴らしいんだけど
インクルージョンなんだと思う。
中国人の子もいれば、喘息持ちの子もいる、南部の移民の人もいれば、顔の形が怪物のように思われている人もいる、そして、歴史上の死者がいる。
彼らがひとつにまとまると、こんな大団円になる。
相手を理解しようとしたりすることじたいがいかに大切かを伝えたかったのかもしれない。
ともかくすごい、インディジョーンズを観てるかんじだ。
悪役の一人が007殺しのライセンスの悪役だった俳優なんだけど、(ロバート・デヴィ) 子供向けの芝居ができるから、本当に幅が広いなと思った。
007では準レギュラーの片足をサメに喰わせてるから…
ジョシュブローリンは童貞でもかっけえな。
鍾乳洞の奥底に海賊船があるという想像を絶する想像力よ。

★ウルヴァリン:SAMURAI
赤い髪の女の子の目が怖いんだけど、最初から最後までいい子なんで、最後らへんは一番可愛く見えてくる。
あと、真田広之がいいんですよ。死に様がね、リングを彷彿とさせる。
ぎゃあああって叫びながら池に飛び込みバシャバシャしながら死にそうになります。

神谷町あたりで戦いが起きて、そのあとウルヴァリンと普通の(ミュータントじゃない、特殊能力を持たないという意味で)女性は二人で秋葉原に逃げるんですよ。…結構遠くね!?
で、追いかける側は、なぜか高田馬場にいるの!!
どうしたんだお前ら!?山手線の内回りと外回り間違えたみたいになってるぞ!
で、ウルヴァリンたちは上野駅に到着して、新幹線に乗り、当然のように乗り込んでたヤクザと、対決します。時速500キロの新幹線の上でwwww
ウルヴァリンは、アダマンチウムクローがあるから新幹線の屋根にそれを突き刺すのはわかる。
でもヤクザはドス一本しか持ってないのにそれを新幹線に突き刺してしがみつくwww
その硬度下っ端ヤクザが持ってていいドスじゃないだろ!ww

で、そのあと「007は二度死ぬ」よろしく、東京の喧騒を離れ、田舎(長崎)にいくんだけど、
そこでもドンパチあったりして大変。

で、そのあと、なんやかんやあって雪国(たぶん銀山温泉とか意識してる??)にある、
巨大なアダマンチウム工場で、ラスボスと対決。そのラスボスの名前は
シルバーサムライwwwwwwwwww

でも、ウルヴァリンがシルバーサムライに爪を切り落とされるのは、去勢の恐怖を表したかったのかなと。
切り落とした爪の傷口から、ウルヴァリンのDNAが詰まってそうな骨髄を引き抜こうとして細いドリルを傷口に突き刺していくのは男性器に異物をカテーテルのように異物を入れていくような恐怖を感じたのは僕だけでしょうか僕だけですねすいませんでした。

なんか、こーゆーヒーロー物の映画で、日本が舞台になったり、日本人の俳優が出てきても
欧米の俳優と日本人の俳優、男同士が共闘する展開ってあんまりなくない??
(共闘するのはたいてい男女)
007は二度死ぬ、とインセプションくらいしかぱっと思いつくものないよ。

あと、中学の時数学のワークの表紙の写真になってた個性的なデザインのビルが、映画のなかでラブホになってた。中銀カプセルタワービル。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%8A%80%E3%82%AB%E3%83%97%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%AB
黒川紀章のデザインした建物。この方って、保守派の文化人だったんだ。なんだかすごいなあ…

でも、とてもいい意味で変な映画です。